artscapeレビュー
セバスチャン・マティアス&チーム『study / groove space』
2015年04月01日号
会期:2015/02/09~2015/02/10
横浜赤レンガ倉庫1号館2Fスペース[神奈川県]
冒頭2、3分、白いフラットな空間の壁に貼付けられたたくさんの資料を見てほしいと観客は促される。ドイツからやって来たダンサーたちはにこやかに観客に話しかける。少しずつ、さっきまで話しかけていたダンサーたちが動き出す。滑らかな動き。動きはたんなる動きではなくなって、次第にダンサーは観客一人一人に迫り、体の輪郭を模倣したり、観客と目を合わせようとする。観客が恐る恐る後ずさりすると、ダンサーはさらに追う。ここには客席と舞台という区別がない。ないので、観客はダンサーのプロップ(美術道具)となって、ダンスを動機づける。いや、おそらく観客を道具にするつもりではないのだろう。もっと民主的で対等な関係性が意図されているのだろう。翻って見れば、ダンサーの動作は観客に動機づけられているわけで、観客がダンサーを振り付けているともいえる。そうしてダンサーと観客との相互的なコミュニケーションが円滑に進んでいくことに、この上演の狙う理想的なラインがあるようではある。しかし、この場を生み出しているのは、相互の動きが次の動きをつくる具体的でときに熾烈なコミュニケーションというよりは、あくまでも「仮想された民主主義」とでもいうべきものではないか。観客は迫ってくるダンサーに微笑みつつとまどい、そして石になる。日本だったら、Abe "M"ARIAの即興ダンスでこうした状況がしばしば起こる。激しいアクションで(この点は彼らと違うのだけれど)観客席に乗り込み、観客にぶつかったり、観客の頭をかきむしったり、眼鏡を奪ったりする。そうしたコミュニケーションは、観客席と舞台の垣根を壊す快楽を引き出すものの、壊したところで、観客はダンサーのムチャブリに微笑みながら凍るほかない。例えば、ここでは、観客がAbe "M"ARIAになる可能性もAbe "M"ARIAが石になる可能性も与えられていない。それと同じ事態をぼくはここに見てしまった。つまり、ここではカンパニーの課すルール(政治)に、観客は従うほかない。それは観客席が取っ払われたという開放感を味わう余地なく、むしろそのときよりも強固に従属(いいひとであること)を求められる(観客席があれば、観客はダンサーから侵害されることなく自分の妄想のなかで自由でいられるし、凶暴にもなれる。妄想に浸る余地を奪われた観客は自由になる代わりにもっと根本的なルールに支配されることになる)。ぼくはあるダンサーがぼくににじり寄って来たときに、彼が行こうと望んでいるだろうコースをさりげなく塞ぎ、結果彼をマウントするような状態をとってみた。が、そんな弱々しい「テロリズム」も虚しい。「仮想的な民主主義」の主体になる以外の道は、この場では用意されていないと感じてしまう。そんなぼくは、この場に、南北問題あるいはヨーロッパ世界とイスラムの人々との関係などを透かし見ていたのだ。このダンスを受け容れることは、ヨーロッパ的な「仮想的な民主主義」を彼らをルーラーにした状態で受け容れるということなのではないか。こう問いを投げたら、チームたちから「いやいや、あなたが動けばダンサーたちもそれに従うのだから、あなただってこの場の主体だし、この場を作るひとりなのです、だからどうぞ踊ってください」なんて言われるかもしれない。そうなのかもしれない。そうやって、みんなで踊れば、社会は理想的な状態へと進むのかもしれない。いや、違う、そういう策略こそが、彼らの手口(と思うとき、ぼくは彼らというよりは彼らの背後にある秘められたイデオロギーを見つめている)なのだ、とぼくのなかの誰かが叫ぶ。
セバスチャン・マティアス&チーム『study / groove space』
2015/02/10(火)(木村覚)