artscapeレビュー
悪魔のしるし『わが父、ジャコメッティ』
2014年11月01日号
会期:2014/10/11~2014/10/13
KAAT神奈川芸術劇場[神奈川県]
ぼくの目は悪魔のしるしに、というよりは危口統之に厳しいようだ。彼の偽悪性にしばしば乗れないことがその理由だ。おそらくこの上演には賛辞が多く寄せられるだろうから、ぼくが少し辛く書いたところで誰にも、おそらく本人にも嫌がられないだろう。危口の表現する「悪」は同時に彼のある部分を隠すために機能している気がする。観客の一人として「悪さの哲学」に没頭したい気持ちにそのことが水を差すことがある。他人をひどい目にあわせる仕掛けに、危口本人は一人静観している。今作は、でも、危口本人が出演し、しかも、彼の父が舞台で彼とともに演じるという、その意味では静観してはいられないシチュエーションである。フランス留学の経験がある父は、自分をジャコメッティと勘違いする「ボケ」の状態にある。危口はその父の息子役で舞台にいる。もう一人、父の介助役にミュージカル女優を志望する大谷ひかるも出演。物語はとくにない。点鼻薬の代わりに木工用ボンドを鼻に入れてしまったというコミカルなエピソードが何度も取り上げられる他は、当人たちのリアルなエピソードが過去の記憶を辿るように語られていく。通奏低音として、繰り返しジャコメッティと彼のモデルだった矢内原伊作のことが話題に上がる。ジャコメッテイは見えるがままに描くという不可能を本気で目指した。そんな話題から、すべて人生は不完全な演劇であるとの話になったり、父の演技の下手さ(演技不可能性)の話になったりする。だが、観客としてむしろ驚いたのは、父・木口敬三の演技の確かさだった。こんなふうに、本当の父は父の演技ができるだろうか(例えば、私の父は無理だろう)。「ジャコメッティ」という主題に身を隠さず、この「本物の父と演劇を上演している」というかなりの異常状態に、もっと迫っても良かったような気がする。危口はある場面で父の絵が好きだと口にした。父の絵のどこがどう好きなのか、そこにこだわったときには、血のつながった息子・危口と父・木口が2人でこの舞台に(あるいはこの世に)居ることの特殊性や不思議さへとスライドしたのかもしれない。
2014/10/12(日)(木村覚)