artscapeレビュー

マームとジプシー『コドモもももも、森んなか』

2011年03月01日号

会期:2011/02/01~2011/02/07

STスポット[神奈川県]

アングルを変えながら同じ場面を執拗に繰り返す独特の方法は、すでに前作『ハロースクール、バイバイ』でもその機能や魅力を感じてはいたものであり、一年振りに同名作を再演した今作でもおおいに堪能できた。妊婦の女性以外は、十人ほどの小学生たちが織りなす心模様。母も父もいない三人姉妹を中心に一週間の出来事のいくつかが、何度も繰り返される。思わず漏れた一言で絶交状態になってしまう場面や、三女の幼稚園児がいなくなる直前の友達とプールの準備をしている場面など、どの瞬間にも、小さな後悔ややるせない思いが詰まっている。「リプレイ」と称したくなるほどそっくりそのまま繰り返す方法は、映像的だと言えなくもない。全員が猛烈に早口なのも、「早送り」のようではある。けれども、だからと言って、この舞台を映像化することは無意味ではないかとも思わされる。登場人物が目の前に実際に存在している演劇だからこそ、反復された場面に、観客は登場人物と一緒に経験した一回目を“思い出”として想起しながら見てしまう、そこがなにより重要だと思わされたからだ。この“思い出”は、ある場面を通して観客が自分の個人的な思い出を想起しているという意味ではないし、たんに隠喩として一回目を“思い出”と便宜的に呼んでいるということでもない。本当に“思い出”という他に形容のできない感覚を、場面の反復を通して、観客は手にしてしまう。演劇内でのみ成立している“思い出”が観客の内に育まれ、それは「懐かしさ」さえ抱かせる力を有している。観客はここで「登場人物たちの友達」に類する役割を担ってしまうのかもしれない。マームとジプシーは「人間の記憶の機能」を演劇化したという以上に「演劇内にしか成立しえない思い出」を発明した、そう言うほうがより正確だろう。それが可能なのは、先述したように、恐ろしいほどに正確な「リプレイ」の演技にほかならない。ほとんど「フォーム」と化している個々の演技の自然さは、各登場人物があたかも目前に実在しているかのような錯覚を与えることに成功している。とりわけすばらしかったのは三女「もも」の演技で、こんな(やはり身長などから大人の俳優であることは自明なのだから)幼稚園児がいないのは理性ではわかってはいるのだが、催眠術にかかったように上演中「もも」の実在を疑わなくなってしまうほどだった。

2011/02/07(月)(木村覚)

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