artscapeレビュー

岡崎藝術座『街などない』

2011年03月01日号

会期:2011/02/13~2011/02/20

のげシャーレ[神奈川県]

神里雄大の芝居は乱暴な印象を与える。緻密に、丁寧にしつらえられた、美しいとさえ思わせる、“乱暴さ”。それは、例えば、四人の女の子(20代半ばに見える)が横に並んで延々とおしゃべりするのだけれど、その内容がセックスであるといったところに示される。役者たちのルックスはみな普通というよりも地味めで、なのに彼女たちが連呼する言葉は「セックス」。男と同棲する二人に対し、一人が執拗に回数とか快楽のありようについて問いかける。「セックス」の言葉が空間に響くたび、その発話行為が異物のように空間に漂う。観客の心情がかすかに揺れる(具体的には失笑があちこちで漏れる)。役者に言わせている演出家の悪意さえ感じ、あらためて役者に注目すると、カラフルなサテン地の衣装は異国の女性たちのコスプレのようで、シンプルな舞台(というよりもスタジオ)の空間にそぐわない。乱暴さはちぐはぐさである。黙って三人の会話を聞いていた一人が突然処女であると告白すると、場面は急にその一人のセックスシーンへころがった。突然ペーストされた処女喪失の場面、処女が王に変身すると、さらにその上に、娘たち三人に領土を譲り渡す『リア王』の物語がこれまた突然ペーストされた。こうしたあたりも乱暴だ。乱暴さは突然でもある。登場人物たちの振る舞いには、傲慢さ、ひとりよがり、他人の蔑視が見え隠れしていて、この芝居において乱暴さは他人への態度の核をかたちづくっている。いや、真に核となっているのは領土の問題であり、アイデンティティの問題だ。四人の名前「横子」「浜子」「川子」「崎子」は、劇場のある横浜を意識した名称であると同時に、その隣接地域との関係を示唆し、それぞれの街の内部にある小単位も暗示している。ときおり会話に出てくるエジプトのニュースの話題も、領土を区切る国という単位に対する疑問へ向けられている。“乱暴さ”はだから、自分の境遇に対するいらだち、自分への他人の不理解に対する、他人への自分の不理解に対するいらだちの表明でもある。その“乱暴さ”が美しく見えたのは一貫していたから。移動するときにかならず役者が横歩きなのはその一例で、それも「横浜」にちなんでのだじゃれらしい(一貫していると言えばこうしただじゃれが頻出することもそうだ)。露悪的にも見える振る舞いに頑固な姿勢が貫かれている。頑固さも“乱暴さ”のひとつだろう。それが徹底されていて、美しく見えたのだ。

2011/02/20(日)(木村覚)

2011年03月01日号の
artscapeレビュー