artscapeレビュー

大橋可也『驚愕と花びら #02』

2012年02月01日号

会期:2012/01/14~2012/01/15

シアター・バビロンの流れのほとりにて[東京都]

一年ぶりとなる『驚愕と花びら』の上演。大橋可也&ダンサーズ名義ではない本作の特徴は、ダンサーの多くが若手のメンバーであることだろう。そしてもうひとつの特徴は、その結果として大橋の「群れ」の振り付けが堪能できるところにある。大橋のダンスのルーツには舞踏がある。舞踏において群舞をどう振り付けるかというのは、なかなか難しい問題だ。主宰者(振付家)のソロが踊りとして充実しているのに、彼の振り付ける群舞がソロ並の質を獲得しえないという事例を多く目にする。それを、主宰者(振付家)が自分のダンスをどのようにメンバーに伝えるかという伝達の問題としてとらえることもできるし、そもそも動かす者と動かされる者との関係をどうしつらえるかという問題として考えることもできるだろう。本作において大橋の「群れ」は野生動物のようだった。各自バラバラに生きていて野放図に見えた。けれども、晴れの景色がふと気づけば曇り空に変わるように、合図したわけでもないのに、いつの間にか全体のトーンが変化する。そのなだらかな変化は、思いのほか美しかった。それに対して、例えば、壺中天であれば「スッ」と小さく音の漏れる息を合図に、横並びになったダンサーたちは動作を次々と切り替えるだろう。大橋の群れが気づく間もなく変化するのとは対照的に、壺中天の群舞にはつねに覚醒がともなっている。どちらが正しいという話ではない。動かす者と動かされる者の関係を、暗示する場合と明示する場合とがあるということだ(「暗示する」といっても隠蔽するのではないから、大橋作品でも動かす者の力を観客は意識している)。大橋の「群れ」はいつの間にか流される。壺中天の「群れ」は、動かされる者の運命がコミカルに、またホラー的に示される。いずれにしても、舞踏系のダンスの面白さは、美の体現者というよりは、動かされる存在として舞台上のダンサーが立っているところにあるのだ。観客はそこで、動かす者の存在を察知しつつ、群れの運命に思いを馳せることになる。

2011/01/15(日)(木村覚)

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