artscapeレビュー
死刑囚の絵画展
2013年11月01日号
会期:2013/09/28~2013/09/29
この春、広島県の鞆の津ミュージアムで開催され大きな反響を呼んだ「死刑囚の絵画」展。ほぼ同じ内容ながら、一部に新作も含めた展覧会が東京で行なわれた。
改めて印象づけられたのは、彼らの絵画から立ち上がる表現欲動。高度な技術や洗練されたコンセプトといった、通常現代アートで求められる諸条件は端から考慮されていない。ただ、絵を描きたい。いや、絵を描くことで何かを伝えたい。いずれの画面からも、それぞれ濃厚な表現欲動が溢れ出ている。
小林竜司の《獄中切手》は切手に見立てた画面に独房の内側を描いているが、これが隔絶された獄中から獄外へ発信する意欲そのものを表現していることは明らかだ。あるいは、岡下香の《司法界のバラ》は、植木鉢の土の下に自分の顔を描くことで、色鮮やかに咲く花の養分になっている自分自身を自虐的に描き出したが、植木鉢の外には硬い鉢を突き崩す小鳥たちが舞っている。幽閉された自分を救出する希望の象徴だろう。彼らの絵を見た瞬間に、そうした表現の内容が確かに伝わってくるのだ。
むろん、こうした絵画の経験は死刑囚という特殊な境遇に由来しているに違いない。明快に伝えることを避けがちな現代アートと同列に論じることも難しいのかもしれない。けれども、人はなぜ絵を描くのかという原点に立ち返って考えてみたとき、その答えを導き出すのは現代アートではなく死刑囚の絵画ではないだろうか。なぜなら、死刑囚たちは必要に迫られたからこそ絵を描いているに違いないからだ。自己表現や自分探し、あるいは現代アートの歴史に接続させることばかりに現を抜かす現代アートが、「必要」を無理やり捏造してまで制作を繰り返しているとすれば、死刑囚たちは望みもしなかった「必要」にかられて、やむなく、しかし切実に絵を描いている。どちらが鑑賞者の心を打つのか、もはや明らかだろう。
死刑囚の絵画は、現代アートの自明性を突き崩してしまう。絵描きはつねに絵を描くものだと思われているが、彼らからしてみれば「必要」もないのにわざわざ絵を描き続けることはいかにも不自然であろう。「必要」がないのであれば絵をやめて、「必要」が生まれるまで試行錯誤する。それこそ絵描きの王道ではなかろうか。
2013/09/29(日)(福住廉)