artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

鈴木涼子「私は」

会期:2011/11/18~2011/12/17

ツァイト・フォト・サロン[東京都]

鈴木涼子の意欲的な作品の展示だ。鈴木はジェンダーやセクシュアリティを問い直すセルフポートレート作品をずっと発表してきたが、「ここまできたのか!」という感慨があった。
180×200センチのかなり大きな作品が9点、120×120センチの作品が1点。どの作品でも筋肉質の男性の裸体に鈴木自身の首(顔)が接続してある。その継ぎ目の画像処理が完璧なので、一見あたりまえの男性ヌード作品のようなのだが、見ているうちにじわじわと違和感がこみ上げてくる。やはり女性の顔と男性の身体とは相性があまりよくないのだ。そのどこかグロテスクでもある気持ちの悪さが、われわれは男性らしさとか女性らしさとかを、いったいどこでどんなふうに認識しているのかという問いかけにつながってくるのだ。
それにしても、鈴木の果敢な実験精神にはいつも驚かされる。彼女は前に過度に女性性を強調したアニメのフィギュアに自分の顔を接続するという「ANIKORA」シリーズを発表した。このときもかなりのインパクトだったのだが、今回の「私は」では男性性器のついた身体と合体している。この「男性性器のついた」というのは比喩的な言い方ではなく、何枚かの作品では実際に男性性器そのものがしっかり見えているのだ。鈴木がそこまで勇気を持って踏み込んでいることに感動する。むろん画像操作上のことだという見方もできるが、この生々しさは尋常ではない。やはり体を張った人体実験に思えるのだ。

2011/11/26(土)(飯沢耕太郎)

シャルロット・ペリアンと日本

会期:2011/10/22~2012/01/09

神奈川県立近代美術館 鎌倉[神奈川県]

ル・コルビュジエとピエール・ジャンヌレとの共同作業を契機に、建築家、デザイナーとしてユニークな仕事を残したシャルロット・ペリアン(1903~99)と日本とのかかわりあいを丁寧に辿った展覧会である。ペリアンは1940年に商工省の輸出工芸指導顧問として来日。パリのル・コルビュジエの事務所ですでに親交があった坂倉準三、民芸運動の創始者、柳宗悦、その息子のデザイナー、柳宗里、陶芸家の河井寛次郎らの助けを借りて「ペリアン女史 日本創作品展覧会 2601年住宅内部装備への示唆」(通称「選択、伝統、創造展」、1941)を成功させた。また1953年にも再来日し、「芸術への総合の提案──コルビュジエ、レジェ、ペリアン3人展」(1955)を開催した。彼女の竹や木を素材とした家具のデザインは、日本の伝統的な工芸品からヒントを得たものが多く、モダニズムが一枚岩ではないことを示す興味深い作例といえる。
今回の展示で特に注目したのは、ペリアンの写真作品である。彼女は1930年代から6×6判のフォーマットのカメラを使って、折りに触れて写真を撮影していた。建築やデザインのための資料という側面もあるし、来日時の写真などはいきいきとした旅の記録になっている。だが、本展の最初のパートに「『生の芸術』と『見出されたもの』」と題して出品されていた、1933~35年頃の写真群は、純粋に「写真」としての可能性を追求したものであるように思える。被写体になっているのは、岩、樹、氷、金属などの「生の」物質であり、それらをストレートに接写している。彼女の興味を引いているのはそのフォルムや質感などだけではなく、むしろそこに潜んでいるアニミスム的な生命力だったのではないだろうか。ちょうど同じ頃に、多くのシュルレアリスムやモダニズムのアーティストたちを捉えていた原始美術や人類学への関心を、彼女も共有していたのだ。「写真家」ペリアンという視点から、彼女の仕事を見直すこともできそうだ。

2011/11/22(火)(飯沢耕太郎)

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朝海陽子「Northerly Wind」

会期:2011/11/02~2011/11/20

NADiff Gallery[東京都]

自宅でホームビデオの映画を鑑賞している人々を撮影した朝海陽子の「Sight」シリーズ(2006~2010)は、とてもよく練り上げられた、想像力を刺激する作品だ。すでに同名の写真集(赤々舎、2011)も刊行されており、今のところ彼女の代表作であることは間違いない。
えてして、こういういい作品の後には模索の時期が続くことがあるが、まさに朝海が陥っていたのがそんな状況ではないだろうか。近作をいくつか見たのだが、まだ「これは」という水脈が見つかっていないように感じた。今回NADiff Galleryで展示された「Northerly Wind」にしても、試行錯誤の産物であることに違いはない。だが以前に比べると、何か手応えのようなものを感じさせる作品になってきている。
2011年夏、青森に滞在して撮影したいくつかのシリーズが並ぶ。「「Northerly Wind」は、海辺の道の風速表示板に、「北東の風2メートル」、「北の風0メートル」といった具合に数字が出ている様子を撮影している。「field sketch」は海、鳥の群がる樹、草原、燈台などのある風景をやや引き気味に撮影したランドスケープ。ほかに風が登場する小説の冒頭部分だけをモニターに映し出すインスタレーションも展示されていた。風というテーマは魅力的であり、可能性を孕んでいる。これまであまり表立っては見えてこなかった、朝海の作品のなかにある文学的なイメージが、さらに南風や東風や西風の領域にまで広がっていっても面白そうだ。

2011/11/16(水)(飯沢耕太郎)

写真新世紀 東京展 2011

会期:2011/10/29~2011/11/20

東京都写真美術館 地下1F展示室[東京都]

2年前までは審査をしていたにもかかわらず、なぜか会場を歩いていて遠い距離感を感じてしまった。審査のシステムは同じだし、応募者数が極端に減ったわけでもないのだが、なんとなく会場全体に「過ぎ去ってしまった」という雰囲気が漂っているのだ。スタートが1991年だからもう20年が過ぎてしまったわけで、名前も含めて何かを大きく変えなければならない時期にきていることは間違いない。「やめてしまえ」とまで言うつもりもないが、続けることにあまり意味がなくなっているのではないだろうか。
今回の優秀賞は5名。赤鹿麻耶(椹木野衣選)、奥山由之(HIROMIX選)、木藤公紀(清水穣選)、パトリック・ツァイ(大森克己選)、山田真梨子(佐内正史選)である。そのなかでは、巨大なポートフォリオ・ブック作品「風を食べる」を出品した赤鹿麻耶のスケール感が際立っていた。背景に水、炎、煙などをセットアップして撮影したポートレートが中心だが、写真に勢いがある。関西大学で中国文化を学び、現在はビジュアルアーツ大阪の夜間部にいるというキャリアもなかなかユニークだ。もう一回り大きくなっていきそうな可能性を感じたのは彼女だけだった。グランプリを受賞したのも当然だと思う。「赤鹿」という名前もどこか神話的だ。新人がデビューしてくるとき、名前はけっこう重要なファクターになる。
いつもなら佳作に面白いメンバーが揃うのだが、今回はやや小粒に感じた。佳作作品のポートフォリオで印象に残ったのは、山本渉「線を引く」(大森克己選)、菊池佳奈「百色むすめ」(椹木野衣選)、加納俊輔「WARP TUNNEL」(清水穣選)、滝沢広「月の岩」(同)といったところだろうか。

2011/11/16(水)(飯沢耕太郎)

ひらいゆう「境界─マダムアクション」

会期:2011/11/11~2011/12/11

TOKIO OUT of PLACE[東京都]

東京・広尾のTOKIO OUT of PLACEで、ひらいゆうの展示を見て、その前に資生堂ギャラリーで見たダニヤータ・シン展との間に不思議な暗合を感じた(そういえば、平井は1996年に資生堂ギャラリーで個展をしたことがある)。二人とも女性作家というだけで、キャリアも、活動場所もまったく違っているのだが、複数の写真を組み合わせたり対照させたりして「物語」を浮かび上がらせていく作品の雰囲気が、どこか似通っているのだ。熱を帯びた闇の奥から、何か切迫した感情を引き出そうとする手つきにも、共通性があるように思える。
ひらいの今回の展示は、男の子向けのマッチョなフィギュア「アクションマン」にドレスを着せ、化粧を施して“女装”させた「マダムアクション」と、アイスランドの寒々とした霧や氷の風景を切り取った「BLUEs」のカップリング。この二つのシリーズに直接的な関係はないので、観客は宙吊りにされたように感じてしまうかもしれない。だが、男─女、虚構─現実、生─死といった二分法の「はざま」や「ずれ」にこだわり続けるひらいの写真のあり方は、このような「境界」の領域をさまようことからしか見えてこないだろう。彼女がパリで暮らし始めてからもう10年以上になるが、写真作家としての自信の深まりが、一見強引とも思えるような二つシリーズの混在に、落着きと安定感を与えているように感じた。

2011/11/11(金)(飯沢耕太郎)