artscapeレビュー
時の宙づり──生と死のあわいで
2010年05月15日号
会期:2010/04/03~2010/08/20
IZU PHOTO MUSEUM[静岡県]
とても豊かでスリリングな展示である。写真とはこういうものだという可能性を鮮やかに証明している。とはいえ、展覧会に出品された展示物を見れば、とりたてて特別な作品が並んでいるわけでもない。もし学芸員にセンスがあれば、ほかの日本の美術館でもこれくらいの写真展は充分に可能だろう。むろん、そのセンスの欠如というのが致命的ではあるのだが。
タイトルを見るただけでは何だかよくわからないと思うが、展示されているのはいわゆる「遺影」が中心である。あの、日本なら葬儀の会場や仏壇に祀られる類の写真だ。本展のゲスト・キュレーターであるアメリカの写真史家、ジェフリー・バッチェンは、2004年に無名の職人や死者の家族の手で作られたそのような写真を集めて「Forget Me Not: Photography and Remembrance(私を忘れないで:写真と記憶)」展(ヴァン・ゴッホ美術館、アムステルダムほか)を開催した。今回はその続編というべき展示で、過剰な装飾物や故人の髪の毛などが添付された「ハイブリッド写真」、メキシコ系の住人たちのあいだで好まれた「写真彫刻」、葬儀用の花束と遺影写真を組み合わせたキャビネット・カードなどが出品されている。さらに日本での調査の結果を反映して、写真を焼き付けた骨壺、明治期の肖像写真(アンブロタイプ)、故人の写真を元にして描かれた肖像画など、非常に興味深い写真/絵画群が付け加えられた。これらはたしかに死という絶対的な出来事を呼び起こす図像ではあるが、同時にさまざまな操作によって、そこに写っている被写体をいまなお生きているかのように撮影し、加工したものでもある。つまりこれらの「遺影」は「生と死の間で宙づりになっている」のだ。
それに加えて、バッチェンが本展のために構成したのが、撮影者の「影」が写り込んでいるスナップ写真のパートである。これもとても魅力的なテーマで、影は被写体となった人物と撮影者の「間」に侵入しており、画面の内と外を媒介する働きをしている。さらに言えば、その写真を見る鑑賞者にとっては、あたかも自分の視線が物質化してそこに写っている人物に迫っているようにも感じられるだろう。この「影」の存在も、どこか不安定な「宙づり」の感覚を引き出してくるのではないだろうか。これら「影」が写っているスナップ写真は、ほとんどが無名の庶民たちによってごく日常的に撮影され、アルバム等に貼られて保存されてきたものだ。ところがその中に、さりげなく森山大道とリー・フリードランダーの写真が紛れ込ませてある。このあたりの展示構成も実にうまい。つまり、ここでも意図的な「影」の使用と、その無意識的なあらわれとの「間」が浮かび上がってくるのだ。
「遺影」と「影」のスナップ写真という組み合わせは、ややかけ離れているように見える。それを繋いでいるのが、バッチェンが近年提唱している「ヴァナキュラー写真」という考え方である。プロフェッショナルの、あるいはアート志向の写真家たちの作品ではなく、無名の撮影者によって日常的に制作されてきた「ある土地に固有の」写真群。それらをむしろ人類学的に読み解くことで、写真を単一の共通概念であるphotographyではなく、複数形のphotographiesとして見る視点が生まれてくる。「ヴァナキュラー写真」を、写真がどんなふうに使われているのかという実践的なアプローチとしてとらえ直そうとするバッチェンの試みはとても刺激的である。作家、作品中心主義の写真展のキュレーションに一石を投じるものといえるのではないだろうか。
2010/04/03(土)(飯沢耕太郎)