artscapeレビュー
飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー
日本の自画像 写真が描く戦後 1945~1964
会期:2009/05/02~2009/06/21
世田谷美術館[東京都]
フランスの日本写真史研究者、マーク・フューステルの企画による戦後写真家の選抜展。出品者は石元泰博、川田喜久治、木村伊兵衛、田沼武能、東松照明、土門拳、長野重一、奈良原一高、濱谷浩、林忠彦、細江英公の11名である。この顔ぶれも、「1、新しい日本へ」「2、敗戦の余波」「3、伝統と近代のはざまで」という三部構成による展示も、まったく新味はない。もう少し、近年の「掘り起こし」の成果を取り込んでほしかった気もする。たとえば、ここに岡本太郎や植田正治や大辻清司の写真があれば、また違った見え方になるのではないだろうか。
とはいえ、このような啓蒙的な展覧会は、写真以外では実感することがむずかしい敗戦後のリアルな空気感を若い観客に伝えるのに、大きな役目を果たすだろう。また目に馴染んだ写真でも、あらためて見直すと思わぬ発見があることもある。林忠彦の「日本女性と東京見物する進駐軍兵士、皇居前広場」(1954年)に、兵士と腕を組んで皇居前広場を闊歩する女性を、羨望と嫉妬が混じり合った何ともいえない視線で見返す男性の姿が写っている。このような細部の厚みを、それぞれの写真で丁寧に辿っていくべきだろう。
本展はこのあと、土門拳記念館(2009年8月27日~10月28日)、愛知県美術館(同11月6日~12月13日)、清里フォトアートミュージアム(2010年6月5日~8月31日)に巡回する。
2009/05/10(日)(飯沢耕太郎)
石内都+飯沢耕太郎「石内都 Infinity ∞ 身体のゆくえ」開催記念対談
会期:2009/05/09
群馬県立近代美術館 2F講堂[群馬県]
昨年以来大きな展覧会が相次ぎ、毎日芸術賞も受賞した石内都。群馬県高崎市の群馬県立近代美術館で開催された「石内都 Infinity ∞ 身体のゆくえ」展の記念対談のお相手をして感じたのは、以前に比べて言動が柔らかになり、自信がみなぎっていることだ。かつてはいら立ちが前面に出るような時があって、正直怖かった。もちろん今でも舌鋒の鋭さに変わりはないのだが、他者や世界を受容する姿勢がより強くなってきているのではないだろうか。
それは作品にもよくあらわれていて、「1・9・4・7」「SCARS」「INNOCENCE」「mother's」そして「ひろしま」と作品を年代順にたどっていくうちに、少しずつ受容性、順応性が際立ってくるように感じる。「mother's」の途中で、母親の遺品の口紅の赤を撮るため、モノクロームからカラーにフィルムを変えたのも大きかったのではないか。「より日常性の強い」カラーの表現が、これまでは強引にねじ伏せる対象だった現実世界との「和解」のきっかけになっているようにも思える。
「ひろしま」の軽やかに宙を舞うような写真の雰囲気には、これまで撮影されてきた重苦しい「HIROSHIMA」あるいは「ヒロシマ」のイメージを覆す、しなやかな勁さがある。次はこの作品を持って、「アメリカに仇討ちに行きたい」とのこと。このいい方は、いかにも「戦う写真家」石内都らしかった。なお、群馬県桐生市の大川美術館でも、彼女が生まれ故郷の桐生で撮影した写真を中心に「上州の風にのって 1976/2008」(2009年4月4日~6月28日)が開催されている。
2009/05/09(土)(飯沢耕太郎)
田口和奈「そのものがそれそのものとして」
会期:2009/04/11~2009/05/23
ShugoArts[東京都]
HIROMIXの展示の一階下、ShugoArtsに回って田口和奈の個展を見る。どうやら完全に突き抜けてしまったという印象。
キャンバスに絵を描き、それを撮影して大判のプリントに焼き付けるという手法は、まさに写真と絵画のハイブリッドで、見る者を混乱させるとともに批評言語的にもうまく収まりがつかない。とはいえ、今回の展示では技術的に洗練の極みに達するとともに、テーマがこれまでのような「肖像」ではなく、文字通り「宇宙」に拡大してしまったことで、作品=被造物としてのとんでもない凄みが生じてきている。こうなると、もはや写真でも絵画でもどちらでもいいのではないだろうか。
146.7×120cmの画面に撒き散らされた星々は、「失ったものを修復する」と名づけられているが、これはどうやら印画紙の上に、さらに白い顔料で網点状のイメージが描き加えられているためらしい。この「修復」によって、画面にはさらに二重三重の点滅する奥行きがあらわれ、見続けていると頭がぐらぐらしてくるほどだ。この魔術的空間は、オーストラリアのアボリジニの絵画を思わせる。アボリジニたちは「ドリームタイム」と呼ばれる瞑想状態に入り込むことによって「エネルギー場にひたされた原型の状態」(中沢新一)を経験し、それを図像化しようと試みる。どうやら田口も、彼女なりの「ドリームタイム」に突入しつつあるように思えるのだ。
2009/05/07(木)(飯沢耕太郎)
HIROMIX「Early Spring, Brighten of Your Mind」
会期:2009/04/11~2009/05/16
hiromiyoshi[東京都]
1995年に「写真新世紀」でグランプリを受賞し、その後まさに写真界の寵児となったHIROMIX。だが2000年代以降はその活動が鈍り、影の薄い存在になっていた。イノセントさと脆さをあわせ持つ彼女にとって、写真やアートの世界はあまり生きやすい場所ではなさそうだ。
その彼女のひさしぶりの個展。清澄白河のhiromiyoshiの会場で作品を目にして、ちょっと泣きそうになった。そこにあるのは、キラキラ輝く光の粒子に包み込まれたポートレート、静物(花)、風景である。それに自作のイラストが加わり、男性モデルをやはり光に溶け込ませるように撮影した映像作品も上映されている。写真作品は基本的に彼女の第二作品集『光』(ロッキングオン、1997年)の延長上にある。変わっていないというのが最初の印象だったが、会場にずっといるうちにその「光」の質がまるで違うことに気づいた。以前は子どもがはしゃぐように、さまざまな物理的な光の変化に感応していただけに過ぎないが、今回の展示にあふれているのはむしろ「内在的」といえるような感触の光だ。HIROMIXは祈りのようにその輝きを抱きとっている。
ここでは書ききれないが、僕はHIROMIXの仕事を、1970年代に成立する「純粋少女漫画」の系譜の正統的な後継者と位置づけている(PHP新書で刊行した『戦後民主主義と少女漫画』を参照)。「乙女ちっく漫画」風の彼女のイラストを見れば、その影響関係は明らかだろう。写真や映像の中で、キラキラ瞬いている光は、少女漫画の主人公の瞳の中で輝いているのと同じものだ。
2009/05/07(木)(飯沢耕太郎)
鷹野隆大「おれと」
会期:2009/04/28~2009/06/09
NADiff Gallery[東京都]
そのまま地下のNADiff Galleryへ。いつもながら、ぬけぬけとしたタイトルの鷹野隆大の個展である。仰々しい金ぴかやシルバーの額縁におさまった、4×5インチサイズのコンタクトプリントが、壁にずらりと並んでいる。大部分は彼がこれまで発表してきたメール・ヌードのシリーズの副産物というべきもので、全裸のモデルと鷹野本人(こちらも全裸)が、肩を組み、腰に手を回してカメラを見つめる、記念写真的なポートレートである。
なぜこんなことをやろうと思いついたのかはよくわからないが、生真面目さと戸惑いを含んだ表情でこちらを向く二人の表情やポーズが、妙に間をはずしていて笑いを誘う。こういう写真はとかく自虐的になりがちなのだが(深瀬昌久の、互いの舌を搦ませた「ベロベロ」がそうだった)、鷹野がやると風通しのよい「いい加減の」ポートレートに仕上がっている。彼の高度なコミュニケーション能力が的確に発揮された、小品だが味わい深いシリーズだった。なお、ページをめくって動画のような効果を楽しむ写真集『ぱらぱら マリア/としひさ』(Akira Nagasawa Publishing)と『ぱらぱら ソフトクリーム/歯磨き』(同)も同時に発売された。
2009/05/06(水)(飯沢耕太郎)