artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

鬼海弘雄『Hiroh Kikai: Asakusa Portraits』

発行所:ICP/Steidl

発行日:2008年

鬼海弘雄が1970年代から続けている「浅草のポートレート」の集大成。草思社から2003年に刊行された『PERSONA』を定本に、ニューヨークのICP(国際写真センター)とドイツのSteidl社の共同出版で刊行された。
6×6判のカメラを使い、雷門の無地の壁をバックにたまたま通りかかった人たちに声をかけて真正面から撮影する。何とも味わい深い、一言でいえばとても「濃い」人間たちのコレクションである。こういう写真群を見ていると、八つ当たりで申しわけないのだが、やなぎみわの「マイ・グランドマザーズ」のシリーズがどうしても上滑りで単調なものに思えてしまう。鬼海の仕事はノンフィクションであり、やなぎの作品はフィクション的な虚構の世界の再構築だから、比較しようがないという見方もあるだろうが、本当にそうだろうか。鬼海の「浅草のポートレート」のモデルの大部分は、かなり自覚的な演技者なのではないかと思う。彼らのやや特異な風貌や身振りは、長年にわたって鍛え上げられた“藝”であり、鬼海は雷門に小舞台を設定してその演技を記録しているのだ。それ以前に、写真を撮る─撮られるというシチュエーションが、必然的にモデルを演技者に変身させてしまうということもありそうだ。
「浅草のポートレート」と「マイ・グランドマザーズ」がどちらも演劇的設定によってできあがった作品だとすれば、問われるのはその演技の質ということになるだろう。いうまでもなく前者は人間(というより人類)の生の厚みを感じさせる凄みのある存在感を発しており、後者はどう見ても底の浅いお嬢様芸でしかない。やはりこの分野はやなぎには分が悪そうだ。何度も書くように物語化、記号化を徹底させていくべきではないだろうか。

2009/03/07(土)(飯沢耕太郎)

やなぎみわ「マイ・グランドマザーズ」

会期:2009/03/07~2009/05/10

東京都写真美術館 2F展示室[東京都]

やなぎみわの「エレベーターガール」のシリーズが出てきたときには、新鮮なショックを受けたし、近作の物語性の強い「フェアリー・テール」もかなり好きだ。でも「マイ・グランドマザーズ」は僕にはとても相性が悪い。以前もまったく馴染めないと感じたし、その印象は新作を含めて全26点が一堂に会した今回の展覧会でも変わらなかった。
女性たち(男性も3名含む)に50年後の未来を想像してもらい、メーキャップや舞台設定に意匠を凝らしてそのシーンを作り上げるというコンセプトそのものはよく理解できる。モデルとの共同作業は大変だろうが、楽しみもあるだろうし、最終的な仕上げのイメージも細部までしっかりと練り上げられている。にもかかわらず、見ていて居心地が悪いし、何だかしらけてしまうのだ。全員とはいわないが、ほとんどのモデルたちは50年後の未来の自分をポジティブに(何とも能天気に)想像している。むろんそうならない場合が大部分だろう。別に悲惨な未来を押しつけるつもりはないが、彼らのナルシシズムたっぷりの「お遊戯」に付き合わされるのはちょっと勘弁してほしいと思ってしまうのだ。
もしかすると「50年後の自分」というコンセプトに問題があるのだろうか。これが「50年後の他者」だったらどうだろう。目の前にいる人物の50年後を想像してみたら、こんなシュガーコーティングされたようなイメージばかり並ぶだろうか。誰しも自分に甘くなるので、いつもの批評性が薄まってしまっているのではないか。やなぎみわの作品は、完璧に囲い込まれた物語世界を構築した方が精彩を放つように思える。この「マイ・グランドマザーズ」のシリーズはモデルたちの記号化が不徹底で、その人格が中途半端にリアルに透けて見えるのが、居心地の悪さを引き起こしてしまうのかもしれない。

2009/03/06(金)(飯沢耕太郎)

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ダニエル・マチャド「幽閉する男」

会期:2009/02/18~2009/03/03

銀座ニコンサロン[東京都]

作者には悪いが、それほど期待していなかったのに意外に面白かったという展示がある。ウルグアイで建築を学んだあと、2000年頃から写真家として活動を開始し、06年からは東京に在住しているダニエル・マチャドの「幽閉する男」もそんな展覧会だった。
写っているのはウルグアイ内務省法務部の最高幹部だったホセという男の部屋。古色蒼然とした家具が並び、壁には家族の古い写真が額に入れて飾られ、机の上には枯れた花、積み上げられた本には埃がかぶっている。かと思うと、部屋にはまったくそぐわないポップな人形が飾られていたりして、何とも奇妙な、どこか荒廃した不吉な雰囲気が漂っているのだ。どうやらホセは内務省を退職し、同居人だった叔母も亡くなってしまったあと、自分自身をこの部屋の中に「幽閉」してしまったらしい。外部の接触を断たれたことで、部屋はそれ自体が生きもののように成長し、ホセと一体化して饐えた匂いを発しながらうごめき、伸び縮みしているようにも見えてくる。
ホルヘ・ルイス・ボルヘスやガブリエル・ガルシア=マルケスなど、中南米文学のテーマになりそうなこの部屋に向けられたマチャドの視線にも、奇妙に歪んだバイアスがかかっているようようだ。写真機を意味する「カメラ」(camera)という言葉はもともと「部屋」という意味だから、写真のテーマとして相性がいいのだろう。部屋の写真だけを集めたアンソロジーというのも面白いアイディアだと思う。

2009/03/01(日)(飯沢耕太郎)

高木こずえ展「GROUND」

会期:2009/02/27~2009/03/21

TARO NASU GALLERY[東京都]

今年は高木こずえの年になるのではないか。そんな予感もしてくる意欲あふれる展示である。高木は2006年、東京工芸大学在学中に写真新世紀グランプリを受賞し、今後の活躍が期待されている新進写真家だが、本展が商業ギャラリーでのデビュー個展ということになる。
今回発表されたのは「GROUND」と題する新シリーズ。赤く燃え上がるような雑多なイメージの集合体(自分で撮影した写真をCG処理してコラージュしたもの)が、分割された縦横3メートルほどの大画面に撒き散らされるように渦巻いている2点組がメインの作品である。ほかにコラージュの一個一個の要素を抽出して単独で見せるシリーズ、コラージュそのものを凝縮した火の玉のようなイメージが環のように配置された作品もある。つまり「GROUND」の全体は増殖し、伸び縮みする、流動的なイメージ群によって構成されているのだ。
これらの一つひとつの要素がそれぞれどんな意味合いを持っているのか。それを作者に問いかけても、きちんとした答えは返ってこないだろう。いま彼女のなかで起こっているのは、自分自身にもコントロールがきかない核融合や遺伝子の組み換えのようなもので、そこからどんなものが噴出してくるのかは「神頼み」のようなところがありそうだ。逆にいえばそういう状態こそ、アーティストにとっては、最もスリリングで生産的な表現の磁場であるともいえるだろう。しばらくはこの白熱するマグマのような衝動に身をゆだねていてもいいのではないだろうか。
高木はこのあと上野の森美術館で開催される「VOCA展2009」(3月15日~30日)にも出品予定。秋には赤々舎からこの「GROUND」シリーズを含む写真集が2冊同時刊行されるという。24歳の、普通に可愛い小柄な女の子のなかに潜む表現のマグマの埋蔵量は、まだ底が知れないところがある。

2009/02/27(金)(飯沢耕太郎)

元田敬三「MOTODABLACK」

会期:2009/02/16~2009/02/28

森岡書店[東京都]

「MOTODABLACK」というのは、元田敬三の“黒”ということだろうか? 何だか意味が分からず見に行って、なるほどと納得させられた。
写っているのは自動車やオートバイの車体の一部。「CHEVELLE」「PONTIAC」「Harley-Davidson」といったエンブレムやエンジンカバーなどが金属的な光沢を放ち、あとの大部分は漆黒の闇の中に沈んでいる。いや違う。闇そのものが輝いているというか、その黒々としたディテールが、異様になまめかしい存在感を発して迫ってくるのだ。カーマニア、メカ好きにはたまらない被写体だろう。僕にはあまりそちらの趣味はないのだが、それでもその冷ややかな物質感にはぐっと来るものがあった。元田敬三といえば、新宿二丁目から歌舞伎町界隈の路上の住人たちを、正面から捉えたスナップショットの写真家という印象が強かった。今回の新作は相当の覚悟をきめた大転換といえるだろう。“黒”の厚みと輝きを出すため、カメラはあえて大型の4×5インチ判を使っているという。気合いが入った4×5のストロボ一発撮りという意欲的な試みは、まずは成功したといえるのではないか。
なお会場では、町口覚のアート・ディレクションによる写真集シリーズ「M」の第8弾として刊行された『MOTODABLACK』(マッチアンドカンパニー)も販売されていた。シンプルですっきりした装丁・レイアウトがなかなかかっこよく、売行きも上々のようだ。展覧会はこのあと大阪のNadar OSAKAにも巡回(3月3日~15日)。

2009/02/26(木)(飯沢耕太郎)