artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

浅田政志「浅田家 赤々・赤ちゃん」

会期:2009/04/16~2009/05/17

AKAAKA[東京都]

今年の木村伊兵衛写真賞を受賞したばかりの浅田政志の展覧会がいっせいに開催されている。本展のほかにもパルコギャラリー(4月3日~27日)とコニカミノルタプラザ(4月21日~30日)で「浅田家」展が開かれた。だがこれらの展示は受賞記念展の色合いが強く、作品も写真集『浅田家』(赤々舎、2008)に収録済みのものばかりである。唯一本展でのみ、彼の新作を見ることができた。
「浅田家」の面々が登場する撮り下ろし作品は、これまでのシリーズの延長上であまり新味はない。ただ会場に飾られていた父親が描いた絵、母親と兄嫁が作った造花やぬいぐるみは、味わい深くて実によかった。それよりも、数はまだ15点ほどだが、他の家族を撮影した「みんな家族」のシリーズは、次の展開が期待できるものだった。このシリーズも、コンセプトは「浅田家」と共通していて、家族があるシチュエーションの人物群像に成りきってコスチューム・プレイを演じている。東京都写真美術館で展示された、やなぎみわの「マイ・グランドマザーズ」と同じようなコンセプトだが、浅田の作品は開放感があって気持ちよく見ることができる。家族全員が楽団を演じたり、野球の試合をしたり、結婚式に参加したりという設定が、日常の延長で無理がなく、その作り込み方もかなり「ゆるい」からだろう。だがそれが逆に、今の日本の家族像をややシニカルな哀しみを込めて描き出しているようにも見える。
ところで、今回の浅田政志の木村伊兵衛写真賞の受賞については少し異論がある。浅田の作品がつまらないというのではなく、どうも「穴馬」的な受賞が続いているような気がするのだ。木村伊兵衛写真賞にしっかりとした権威があり、そこに風穴を開けるということなら浅田のようなトリッキーな作品でもいいが、もはやそんな正統性などはまったく感じられない。とすると、同じ赤々舎から写真集が出ている写真家でいえば津田直や黒田光一やERICのような、折り目正しい「正統派」を選んだ方がいいのではないだろうか。

2009/04/16(木)(飯沢耕太郎)

頭山ゆう紀『さすらい』/『境界線13』

さすらい
発行所:アートビートパブリッシャーズ
発行日:2008.11.13
境界線13
発行所:赤々舎
発行日:2008.11.13

ずいぶん前に買っておいた本だが、頭山ゆう紀の2冊の写真集をじっくり見直した。『さすらい』は「東京での出来事にうんざり」していた時、たまたま京都行きの話があり、そのまま過ごした時間、出会った人たちを撮影して封じ込めたもの。『境界線13』は「1人の女の子が、境界線は消えたと歌い、死んだ」という出来事を背骨に、身のまわりにカメラを向けた写真集。モノクローム、やや広角気味のレンズ、左右に少し傾きがちな画面など、基本的なスタイルが同じなので、別々に論じる意味はあまりなさそうだ。
こういう「生」に密着した私小説写真は特に珍しくもないし、これまでもうんざりするほど見てきた。にもかかわらず、頭山の写真が目と心にひっかかってくるのは、基本的に被写体を見つめる姿勢がよく、写真の骨格がしっかりしているからだろう。特に何かに押し潰されるように脱力して、横たわる姿勢をとる人物たちを撮影すると、彼らの存在そのものから滲み出る倦怠や疲れが、写真の中を緩やかに漂い、巡っていくようで「ほお」と声を挙げたくなる。
とはいえ、ここから先がむずかしいところで、「ここで過ごした時間は写真というカタチに濃縮され、これからもここに存在し続ける」(『さすらい』)とか「“時間”と“存在”は静かに闇となって光り続ける。そしてまた新たにここから始まるのだろう」(『境界線13』)といった、ありきたりの「感想」で留まっていると、先細りになるだけだろう。“時間”とか“存在”とかいった言葉が出てきたところで安心していないで、ではその“時間”は自分にとってどんな“時間”なのか、“存在”はどういうカタチをしているのか、しっかり確認しながら進んでいかないと、姿勢のよさだけでは次につながっていかない。両写真集に跋文を寄せている石内都のしつこさを見習うべきではないだろうか。

2009/04/16(木)(飯沢耕太郎)

「思い通りに消せない記憶」/「イン・マイ・マザーズ・フットステップス」*

会期:2009/04/11~2009/05/17

トーキョーワンダーサイト渋谷[東京都]

「遠くて身近な歴史──1968年そしてホロコースト」とサブタイトルがついた、東京でのアーティスト・イン・レジデンスの成果の発表展。アメリカのマッカラムとタリーは、「1968年」という特別な年にスポットを当てている。いうまでもなく、世界的に革命の気分が盛り上がり、スチューデント・パワーがピークに達した年であった。彼らが東京で制作した作品は、街頭デモや三億円事件などの報道写真を元にして絵を描き、その上にシルクスクリーンにプリントされた写真をややずらして重ねている。その「ズレ」がとても効果的で、3D画像のようにぼんやりと浮かび上がってくるイメージが、事件が記憶のなかで風化し、幻想と現実の間に宙吊りになった雰囲気を見事に表現していた。ほかにアメリカの黒人公民権運動をテーマに、趣味よくまとめた映像作品もあった。
イギリスとイスラエルの国籍を持ち、ドイツで活動するユダヤ人のガバルシュは、母親、サラの第二次世界大戦中の記憶を辿る写真作品を出品していた。ドイツ生まれのサラはオランダに逃れるが、特別警察に逮捕され、強制収容所に送られる。ガバルシュはその足跡を追って、ベルリン、オランダ、ポーランド、チェコを徒歩旅行し、そこで出会った風景をカメラにおさめた。それが今回出品された「イン・マイ・マザーズ・フットステップス」のシリーズである。
展示室は照明が落とされ、順番に1枚か2枚ずつ灯りがついて写真とテキストを照らし出すようになっている。その間隔がかなり長いので、全部の作品を見終えるには時間がかかる。せいぜい数10分なのだが、正直いらいらしてくる。つまり、母親が味わった否応なしの強制力の片鱗を、観客も味わうように仕掛けられているのだ。その意図はよく理解できるのだが、やはり後味が悪いことに変わりはない。ホロコーストのような重いテーマを扱うときに、このような「強制収容所」的な展示は諸刃の剣なのではないだろうか。「特別な体験なのだから、あなたも我慢しなさい」と言わんばかりの態度は傲慢としかいいようがない。押しつけではない「悲惨さ」の伝え方がありそうな気がする。

*ブラッドレー・マッカラム&ジャクリーヌ・タリー「思い通りに消せない記憶」/イシャイ・ガルバシュ「イン・マイ・マザーズ・フットステップス」

2009/04/15(水)(飯沢耕太郎)

篠山紀信「NUDE!! NO NUDE!? By KISHON」

会期:2009/04/01~2009/04/22

NADiff A/P/A/R/T[東京都]

地下のNADiff gallery、2FのG/P+ArtJam Contemporaryとmagical ARTROOM、さらに4Fのカフェまで、NADiff A/P/A/R/T(恵比寿)の全館を使った「裸祭り」である。桜の季節にふさわしい企画ともいえるのだが、なぜ急に篠山紀信のヌードがこれほどあふれかえっているのかといえば(『美術手帖』『広告批評』も特集を組んだ)、「50年にわたるNUDE PHOTOをリミックスした」写真集『NUDE by KISHIN』(朝日出版社、Shirmer/Mosel)のプロモーションという側面が強いのではないかと思う。それと昨今の経済事情の悪化と社会の閉塞感を反映して、「何か元気になるもの」が意識的に求められているのではないだろうか。「侍JAPAN」のWBC優勝祝賀と同じムードが感じられる。
たしかに篠山紀信のヌードは晴れがましく、祝祭的な気分に満ちあふれている。逆にいえば、ヌードにつきまとってきた淫靡さ、エロティシズムの闇の部分がここまでまったく見えてこないのも奇妙といえば奇妙だ。モデルになっている女性たちは、あたかもきらびやかな鎧を身に着けているように、堂々と立派な肉体をカメラの前にさらしている。そのあたりに物足りなさを感じる人もいるかもしれないが、ここまであっけらかんとエロス礼賛を貫かれると、呆れつつもたしかに気持ちが昂揚してくる。いわゆる「草食系男子」がどんな反応をするのか(あるいはまったく反応しないのか)はわからないけれど。
2Fの二つのギャラリーで展示されていた「1960~70年代のヴィンテージ写真」は、別な意味で面白かった。カルメン・マキや秋川リサの若かりし頃の写真を見ているとヌードもまた「ドキュメンタリー」であることがよくわかる。ここでもポジティブな姿勢は貫かれていて、彼女たちの肉体の輝きがそのピークの瞬間で捉えられている。

2009/04/08(水)(飯沢耕太郎)

野町和嘉「聖地巡礼」

会期:2009/03/28~2009/05/17

東京都写真美術館 地下1階展示室[東京都]

かつて1980年代~90年代の一時期、日本にも「ヴィジュアル雑誌の時代」が訪れかけたことがあった。『月刊PLAYBOY』(集英社)、『マルコポーロ』(文藝春秋)、『DAYS JAPAN』(講談社)といった雑誌が次々に創刊され、写真家をフィーチャーした特集が口絵ページを飾った。そんな時代にアフリカ、チベット、中近東と、文字通り地球を駆け回って活躍していたのが野町和嘉で、その圧倒的な迫力を備えた写真群は読者に衝撃を与えた。行動力と映像センスを兼ね備えた、こんなにスケールの大きな写真家が日本に出てきたことに驚かされたし、実際彼の『ナイル』や『サハラ』や『メッカとメジナ』などのシリーズは国際出版の写真集として次々に刊行され、世界中で読者を獲得していった。
今回の「聖地巡礼」展は、その野町の新作「ガンガー」を中心とした回顧展である。衰えない創作意欲とともに、今は彼のような写真家にとってきつい時代になりつつあることをひしひしと感じる展示でもあった。雑誌のインタビューでお会いした時、「かつては一つのジャンルで100人の写真家が食えていたのに、今は10人で充分になってきている」と語っていたが、これは掛け値なしの実感だろう。雑誌の廃刊が相次ぎ、特集記事などでもエージェンシーの写真の使い回しが目立ってきている。だがそれでもなお、ガンジス川の源流から河口までを宗教儀式を中心に撮影した「ガンガー」や、やはり2000年代になって集中して取り組みはじめた「アンデス」のシリーズなど、人間という存在の最も純粋な瞬間である「祈り」の場面に据えられた彼の視点には、いささかの揺るぎもない。大河の流れのようにゆるやかにうねりつつ進む写真展示。ずっと長く見続けていたいという思いに誘われる。

2009/04/05(日)(飯沢耕太郎)

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