artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

ジェームズ・ウェリング「Notes on Color」

会期:2009/02/05~2009/03/14

WAKO WORKS OF ART[東京都]

東京都写真美術館から西新宿のWAKO WORKS OF ARTへ。ジェームズ・ウェリングの個展の最終日に間に合った。
ジェームズ・ウェリング(James Welling 1951~)はアメリカ・コネティカット州ハートフォード生まれ。カリフォルニア大学で学び、UCLAで教鞭をとっている写真家だが、作風はどこかヨーロッパ的だ。以前もカラー・フォトグラムや1920年代のノイエ・ザハリヒカイト風の作品を発表したりして、写真史を広く渉猟し、そのエッセンスを巧みに引用してくる。今回の「Notes on Color」のシリーズは、ジャンル的には建築写真ということになるだろうか。故郷のコネチカット州のフィリップ・ジョンソン邸というモダニズム建築を、きっちりと撮影している。ところが、画面の一部がカラー・フィルターでブルー、レッド、グリーンの三原色に処理されていたり、レンズのフレアによって虹のスペクトラムのような光が舞っていたりして、とても不思議な味わいの作品に仕上がっていた。
彼が何を考えているのか、作品からはよくわからないところがあるが、その画像処理のセンスのよさにはいつも感心してしまう。網膜を柔らかくマッサージしてくれる光と色の触感が、たまらなく気持ちがいいのだ。理屈抜きに(理屈はあるのだろうが)、それだけを愉しむだけでもいいような気がしてくる。別室に展示されていた、ネットのようなものをトルソに見立てたフォトグラム作品も、繊細な質感がうっとりするくらいに快い刺激を与えてくれる。

2009/03/14(土)(飯沢耕太郎)

夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史II 中部・近畿・中国地方編

会期:2009/03/07~2009/05/10

東京都写真美術館 3F展示室[東京都]

一昨年の「関東編」に続いて開催された「知られざる日本写真開拓史」の第2弾。今回は「中部・近畿・中国地方編」ということで、各地の大学、教育委員会、郷土資料館などをしらみつぶしに調査し、あらためて見出された所蔵古写真を大盤振る舞いで展示している。今回は展示の全体を「であい」「まなび」「ひろがり(名所と風景、肖像写真、公的記録)」の三部構成とし、1860(万延元)年の遣米使節団に随行した野々村忠実を撮影したダゲレオタイプ写真からはじまって、こんなものもあったのかと何度も驚かされた。なかなか充実したいい展示である。
内田九一撮影の明治天皇と美子皇后の「御真影」、福井の蘭方医、笠原白翁が製作した「堆朱カメラ」など、やはり実物で見ると面白さのレベルが違ってくる。古写真マニアだけでなく一般の人たちにとっても、写真がこんなふうに日本の社会に定着していったのだということがよくわかる貴重な機会になるだろう。個人的には、1891年の濃尾大地震の直後に撮影された彩色記録写真(日本大学芸術学部蔵)のシャープでクオリティの高い映像に驚嘆させられた。紙のようにひしゃげた家、被災現場に呆然と佇む人々など、関東大震災、阪神・淡路大震災などのドキュメンタリーに通じるものがある。
この展覧会シリーズはいつも楽しみにしているのだが、「夜明けまえ」というタイトルがちょっと気になる。幕末から明治にかけては、写真が新しいメディアとして颯爽と登場し、最も輝きを放っていた時代のようにも思えるのだ。英語のタイトルは「Dawn of Japanese Photography」なのだから、すんなり「日本写真の夜明け」でもよかったのではないだろうか。

2009/03/14(土)(飯沢耕太郎)

artscapeレビュー /relation/e_00000858.json s 1202809

『ゼラチンシルバーLOVE』

会期:2009/03/07~2009/04/10

東京都写真美術館 1Fホール他[東京都他]

写真家として長いキャリアを持ち、ピラミッドフィルムの主宰者としてコマーシャル・フィルムも多数製作してきた操上和美の映画監督第一作。主演の宮沢りえの妊娠騒ぎなどもあって話題の映画を、東京都写真美術館のホールで観てきた。
冒頭からいかにも操上らしいクローズアップの質感描写が続く。重厚で切れ味の鋭さをあわせ持つ映像の魅力は全篇に貫かれていて、その点では安心して観ていられる。ストーリーもとても古典的でストイック。見続ける男(カメラマン=永瀬正敏)と見られる女(殺し屋=宮沢りえ)が、永遠に交わらない平行線のような関係を延々と続け、その間に彼女の姿を盗撮した映像に対する男の欲望が異様に昂進していくと言う筋立ては、あまり新鮮さはないがきちんと練り上げられている。ただ映画の後半になるに従って、男と女が実際にクロスしはじめると、緊密な構成に破綻が生じてくるように感じる。「触れることなく、言葉も交わさずに、愛を昇華する──」というのが映画のチラシの謳い文句なのだが、男も女もかなり饒舌に、互いに言葉をかける場面があるのだ。しかもこれは脚本家の責任だと思うが、セリフが堅苦しく、聞いていてちょっと白けてしまう。
もう一つ、永瀬正敏が自分の作品として撮影している写真がどうもぴんとこない。「なぜこんな黴みたいに気持ちの悪い写真を撮っているのか?」と問われて、「僕はこれが美しいと思って撮っているのです」と答える場面があるが、普通のカメラマンならこんな歯が浮くようなことは絶対にいわないだろう。これまた脚本家が勝手に想像して書いたセリフだと思うが、できれば監督としてチェックしてほしかった。いい脚本家と組めば、もっといい映画ができそう。次作はぜひ笑える映画にしてほしい。今回はコメディアンとして優れた素質を持つ永瀬正敏が熱演しているにもかかわらず、笑いが不完全燃焼。

2009/03/14(土)(飯沢耕太郎)

秋元茂「CRYSTALOGRAPHY」

会期:2009/03/03~2009/04/30

gallery bauhaus[東京都]

「CRYSTALOGRAPHY」というのは「結晶図像学」とでも訳せばいいのだろうか。写真家の部屋の中にいつのまにか集まって来たオブジェ群が、知らぬ間に「結晶化」し、まったく違ったものに変容する瞬間があるのだという。4×5判のカメラを用いて、その瞬間を精妙なバランス感覚で固定した端正な写真が並ぶ。ガラス、木片、楽譜、グラスと水など素材はシンプルだが、「偶然性に出来る限り依存せず、被写体を含めたすべてを自己のコントロールの下に置き、思念を過飽和状態にして結晶化の行為を待つ」という科学者のような態度が貫かれていて、ぴんと張りつめた緊張感がある。秋元茂は博報堂写真部を経てフリーランスで活動するベテランだが、このような職人的な技巧の冴えをきちんと見せてくれる写真家も少なくなってきた。1Fに展示されていた田辺聖子、蜷川幸雄、樹木希林などのポートレートも、隅々まで神経が行き届いていてなかなかよかった。
ところでgallery bauhausに行ったのは、秋元の個展を観るだけではなく、その前の横谷宣展で購入した作品を取りに行くためでもあった。オーナーの小瀧達郎さんと話をして驚いたのだが、なんと横谷の作品は51点(!)も売れたのだという。5万円台という手頃な価格設定ということもあっただろうが、ほとんど無名の写真家の初個展ということを考えると、これは驚くべき数字である。口コミやブログでじわじわと人気が高まり、初めて写真作品を購入するような人が次々に訪れて買っていったらしい。横谷本人の修行僧を思わせる特異なキャラクターもさることながら、やはり彼の写真そのものに力があるということだろう。いい作品はきちんと動く。そのことを証明する快挙といえるのではないだろうか。

2009/03/13(金)(飯沢耕太郎)

小栗昌子「トオヌップ」

会期:2009/03/03~2009/03/31

ギャラリー冬青[東京都]

名古屋出身の小栗昌子は、1999年に岩手県遠野に移住した。『遠野物語』に憧れて夏に旅行したのがきっかけで、たまたま出会ったお祭りや住人たちの佇まいに魅せられ、そのまま居ついてしまった。写真展と同時に刊行された写真集『トオヌップ』(冬青社)の「あとがき」にはこんなふうに書いている。
「……私は心の中にある芯が揺さぶられ、
ひとつの蓋が外されたような気がしたのです。
そして同時に“この場所を撮りたい”と強く思いました。
その時の思いを今でもはっきりと憶えています。
今も胸に抱きつつ、この場所に立っています。」
小栗が書いている「ひとつの蓋が外されたような」感覚を、写真を見るわれわれもまた共有できる気がする。「トオヌップ」の写真に写っている人々や風景からは、始源的な生命力としかいいようのないエネルギーの波動が直接伝わってきて、われわれの閉ざされた心の覆いを取り払ってしまうのだ。こんな光や風に包み込まれて、愛おしく逞しい遠野の人たちとともに暮らしていたい──そんなことを強く思ってしまう。
前作の『百年のひまわり』(Visual Arts、2005)でも強く感じたのだが、小栗昌子の一見オーソドックスで何の変哲もない写真には、不思議な力が備わっている。見ているうちにじわじわとその世界に みとられ、「これでいいのだ」という確信が育ってくるのだ。本当にいい写真家だと思う。彼女が遠野で写真を撮り続けているということを思っただけで心が安らぐ。

2009/03/10(火)(飯沢耕太郎)