artscapeレビュー
頭山ゆう紀『さすらい』/『境界線13』
2009年05月15日号
- さすらい
- 発行所:アートビートパブリッシャーズ
発行日:2008.11.13 - 境界線13
- 発行所:赤々舎
発行日:2008.11.13
ずいぶん前に買っておいた本だが、頭山ゆう紀の2冊の写真集をじっくり見直した。『さすらい』は「東京での出来事にうんざり」していた時、たまたま京都行きの話があり、そのまま過ごした時間、出会った人たちを撮影して封じ込めたもの。『境界線13』は「1人の女の子が、境界線は消えたと歌い、死んだ」という出来事を背骨に、身のまわりにカメラを向けた写真集。モノクローム、やや広角気味のレンズ、左右に少し傾きがちな画面など、基本的なスタイルが同じなので、別々に論じる意味はあまりなさそうだ。
こういう「生」に密着した私小説写真は特に珍しくもないし、これまでもうんざりするほど見てきた。にもかかわらず、頭山の写真が目と心にひっかかってくるのは、基本的に被写体を見つめる姿勢がよく、写真の骨格がしっかりしているからだろう。特に何かに押し潰されるように脱力して、横たわる姿勢をとる人物たちを撮影すると、彼らの存在そのものから滲み出る倦怠や疲れが、写真の中を緩やかに漂い、巡っていくようで「ほお」と声を挙げたくなる。
とはいえ、ここから先がむずかしいところで、「ここで過ごした時間は写真というカタチに濃縮され、これからもここに存在し続ける」(『さすらい』)とか「“時間”と“存在”は静かに闇となって光り続ける。そしてまた新たにここから始まるのだろう」(『境界線13』)といった、ありきたりの「感想」で留まっていると、先細りになるだけだろう。“時間”とか“存在”とかいった言葉が出てきたところで安心していないで、ではその“時間”は自分にとってどんな“時間”なのか、“存在”はどういうカタチをしているのか、しっかり確認しながら進んでいかないと、姿勢のよさだけでは次につながっていかない。両写真集に跋文を寄せている石内都のしつこさを見習うべきではないだろうか。
2009/04/16(木)(飯沢耕太郎)