artscapeレビュー

SYNKのレビュー/プレビュー

民藝運動の作家達──芹沢銈介を中心として

会期:2011/03/13~2011/07/18

大阪日本民芸館[大阪府]

熟練した職人による堅実な造形と無心の仕事から生み出される健康な美。そうした民衆の用いる日常品の美しさに着目した柳宗悦は、陶芸家・濱田庄司や河井寛次郎らとともに無名の職人たちがつくった民衆的工芸品を「民藝」と名付け、その真髄を説いた。1927年に発表された柳の論文「工藝の道」に感銘を受けた、染色家・芹沢銈介(1895-1984)もまた彼らの活動、すなわち「民藝運動」に参加、さらには沖縄の伝統的な染色である「紅型(びんがた)」に導かれ、「型絵染」と呼ばれる独自な染色表現を確立していった。「型絵染」という名称は、芹沢を重要無形文化財保持者と認定する際、文化財保護審議会が新たに考えたもの。芹沢の仕事の大きな特徴のひとつは、その多様性にある。観賞用の屏風や額絵から、着物、風呂敷、のれん、うちわ、葉書、カレンダー、ポスター、挿絵や本の装丁に至るまで、じつにさまざまだ。同展でも、多様なジャンルにわたる芹沢の型絵染作品が紹介されている。自然のモチーフを意匠化したその表現は大胆で、洗練されたモダンささえ感じさせる。[金相美]

2011/04/16(土)(SYNK)

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鍾局──生きることの枠で/西村のんき──のんきの戒壇めぐり

会期:2011/03/28~2011/04/02

Gallery AMI & KANOKO[大阪府]

自分をカボチャだと思う画家。闇の中で光と戯れ、光の中で闇と戯れ、私たちは自由に次元を飛び越え、宇宙を知るというアーティスト。日本と韓国を行き来する二人の作家の展覧会だ。韓国の作家・ 鍾局は《カボチャ》と題された絵画連作8点を出品、西村のんきは《のんきの戒壇めぐり》というインスタレーションを展示していた。木炭の黒で縁取られた白いカボチャ。ごつごつしていて、存在感を放つ。西村の作品は、6畳の和室いっぱいに二重に張り合わせた紙で迷路をつくったもの。その迷路(紙)には蓮や蛙、龍などが描かれている。それぞれの作品も興味深かったが、とくに面白かったのはギャラリーを訪ねた日に行なわれていた「評論を書くことを考えてみる。」会(共催:大阪大学文学部美学研究室)。展覧会の作品を実際に見て、評論文を書き、それを作家のまえで発表する。物書きにとっては冷や汗が出る作業だろうし、作家たちも同じ思いかもしれない。2人の作家と4人の発表者、多くの聴衆による白熱した議論は4時間も続いた。もちろん決まった答えはない。つくることと見ること、そして伝えること。おのおのの思いはどこまで共有でき、どこまで共有すべきだろうか。[金相美]

2011/04/09(土)(SYNK)

竹原義二/原図展 素の建築

会期:2011/03/09~2011/04/10

大阪くらしの今昔館[大阪府]

展覧会場に入ると、どこからともなく木の香りが漂う。久しく忘れていた匂いだ。続いて、無垢の木材からなる剥き出し=「素」の架構空間、素材と構造それ自体が目の前に立ち現われ、リアリティをもって迫ってくる。建築家自身が言うように、ここには「逃げ」がない。材質の魅力・木組みの技(本展では建築に用いられている木組み工法を実際の映像でみることができる)言うなれば竹原義二の美学が集約されている。建築家と職人の仕事すべてを集約する、ありのままの顕わな「構造」が生み出す迫力を、架構空間の中を歩き、柱を触って確かめた。竹原の事務所ではいまでも手で図面を引くという。たくさん展示された竹原の手描き原図には、建築家の熟慮と苦労の痕跡が刻み込まれている。スチール模型(100分の1スケール)の多さは、竹原のこれまでの設計活動の長きを感じさせる。もうひとつ展示のなかで興味深かったのは、造形作家・有馬晋平のスツール《スギコダマ》。これもまた、一つひとつ異なる素材が活かされ、手の技が根幹を成し、使い込むことで味わいを増す点で、竹原の「素の建築」の思想と重なりをみせている。簡素でいて有機的なフォルムは、スギの「木霊(木魂)」を宿した「小玉」を意味する。すべすべとした柔らかなテクスチュアは、作り手の確かな技術に裏打ちされている。いすに刻まれた年輪は見た目にもうつくしいばかりか、手で触れれば自然が創りだす刻みを感じ取ることができる。「全ては無に始まり有に還る」「建築は何も無い場所から立ち上がる」。これは竹原の設計思想だが、建築が建ちあがるまでのすべての営み──ことに人との協働──年月と共に生き続ける建築のあるべき道を彷彿とさせるその構えには、胸を打たれる心地がする。思考と素材と手技が織りなす美のありようを実感した展覧会だった。[竹内有子]

2011/04/06(水)(SYNK)

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EV(電気自動車)が約束する未来展

会期:2011/03/20~2011/04/05

世田谷文化生活情報センター「生活工房」[東京都]

電気自動車の歴史、日本EVクラブや生活工房がこれまで行なってきた電気自動車普及活動の報告、電気自動車にまつわる疑問への答え、そしてこれからの電気自動車に対する企業の取り組みを紹介する展示会である。
電気自動車の開発が推進される理由はおもにふたつある。ひとつは、石油資源の将来的な枯渇と価格高騰への備えである。もうひとつは、化石燃料の使用がもたらすといわれる地球温暖化への危惧である。電気がクリーンなエネルギーであることが、その大前提になる。しかしながら、この展覧会が始まる直前、3月11日に発生した東日本大震災により生じた東京電力福島第一発電所の「想定外」の事故によって、電気はクリーンなエネルギーであるという前提が崩れてしまった。もちろん、電気は原子力発電によってのみつくられるわけではない。しかし、現時点での電気自動車は、その普及に深夜の余剰電力を前提としている。また、脱化石燃料が電気自動車普及への大きなモチベーションになっているので、火力発電による電力供給はその目的に逆行する。展覧会に関連して開催された日本EVクラブの舘内端代表のトークにおいても、「EVは原発と共犯なのか?」というテーマで議論が盛り上がったという。
会場には、電気自動車オーナーに取材したレポートも掲出されていた。いずれも排気ガスが出ないことを電気自動車のメリットのひとつとしてとらえているようだ。会場の通路には明るい緑色のカーペットが敷かれ、同系色のビニルひもを用いた簡易な間仕切りが下げられている。展示パネルには、車から植物の芽が出るシンボルマークが添えられている。エコ一色である。しかし電気自動車によって本当に問題は解決されうるのだろうか。疑問は残る。自分の足下はきれいになったとしても、排気ガスの出る先が火力発電所の煙突に変わっただけということはないのだろうか。原子力発電は問題を空間的に地方へ、時間的には未来に転位させてきたとはいえないのだろうか。デザインには問題を明らかにし、それを解決に導くチカラがある。一方で問題を覆い隠し、あたかもそれが解消したかのように見せかける作用もある。電気自動車の利用によって化石燃料に起因する問題の本質が解消されうるものなのか、そこにデザインがはたしている役割も常に検証していかなければならないだろう。当初の意図とは異なるかもしれないが、この展覧会は自動車、あるいは私たちが享受しているさまざまな利便性とエネルギー消費との関わりを考え直す、とても良い企画であった。[新川徳彦]

2011/04/05(火)(SYNK)

祝いのカタチ

会期:2011/03/04~2011/03/29

見本帖本店[東京都]

日本パッケージデザイン協会の創立50周年を記念した展覧会。102人のデザイナーたちが、それぞれ1点ずつ、「祝い」をテーマとしたオリジナルの作品を制作。誕生、進学、結婚等々、デザイナーたちが作品に設定した「祝い」の場は多様。結果的にデザインされたカタチもさまざまだ。汎用的な包みもあれば、特定の祝いの場のための品もある。伝統的なハレの場ばかりではなく、365日すべてを祝いの日に変えてしまおうという提案も。吉田雄貴氏の「包んでようやく感じる輪郭」は、見えない箱を包むガラスのリボン。「お祝いの気持ちをかたちづくろうと、具体的なモノを極力無くしていったら包むという行為だけ残りました」というコメントに、祝うという行為の本質はなんなのかを考えさせられた。
いずれも驚きやユーモアが込められたステキな提案ばかりだったのだが、私にとって「祝い」のイメージに直結するのは、やはり紅白の色の組み合わせ、水引や熨斗のかたちになってしまう。じっさいそのイメージは、協会の50周年シンボル、特設ウェブサイト、展覧会の案内ハガキ、作品集の表紙にも現われている。
では、このような「祝い」のイメージが古くからの日本の伝統なのかといえば、そうとも言えないらしい。作品集『祝いのカタチ』(六曜社、2010)の巻頭に寄せられた民俗学者の神崎宣武氏の解説によれば、上層階級におけるしきたりはさておき、たとえば「赤白」をめでたい色調として広く日本人が共有するようになったのは、近世以降のこと。そして「今日に伝わる祝儀や不祝儀にまつわる『形式文化』の醸成は江戸時代にある、とみてよいのだ」という。さらに、そのイメージが一般に強化されるのは、明治時代、日章旗の制定とともにあると神崎氏はいう。となれば、私たちが共有している「祝事」のイメージはせいぜい100年余の歴史しかもたないともいえる。「祝い」が伝統的な場に限られなくなってきた現代、これからの100年のうちに私たちが共有する「祝いのカタチ」もその姿を変えていくのであろうか。[新川徳彦]

2011/03/25(金)(SYNK)