artscapeレビュー

SYNKのレビュー/プレビュー

もうひとつの京都──モダニズム建築から見えてくるもの

会期:2011/02/07~2011/05/08

京都工芸繊維大学 美術工芸資料館[京都府]

大きな写真パネルと模型、そして図面が展示場のあちらこちらに置かれている。建築関連の展覧会にありがちな風景だ。模型は模型で実物とは違うし、図面は読めない(これは自分の問題だが)、写真に至ってはとっくに記録媒体としての役割は信じていない。どうしても撮る側の意図が入ってしまうからだ。だから建築の展示が面白いと思ったことはあまりない。それなのに、なぜこの展覧会を紹介しているのか。それは「京都におけるモダニズム建築」という言葉に惹かれたからかもしれない。関東大震災や太平洋戦争の空爆で昔の趣を失ってしまった東京や大阪とは違って、京都にはまだ独特な木造文化の伝統と町並みが残っている。京都という特殊な空間のなかにあらわれたモダニズム建築というものが、どのような姿をしていたのか気になったわけだ。本野精吾邸、聴竹居、京都会館、国立京都国際会館など、1920年代から1970年代までの、古都・京都の中のモダニズム建築を再考する機会である。[金相美]

2011/03/05(土)(SYNK)

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包む──日本の伝統パッケージ展

会期:2011/02/10~2011/05/22

目黒区美術館[東京都]

アート・ディレクターの岡秀行氏(1905-1995)は日本各地を旅するなかで、土地々々の素朴なパッケージに心を惹かれ蒐集をはじめたという。その蒐集品は1960年代から80年代にかけての国内外での展覧会の開催、書籍の刊行を通じて、世界に日本の伝統パッケージの魅力を広めた。今回の展覧会は、1988年に目黒区美術館で開催された展覧会を契機に岡氏より譲り受けた「日本の伝統パッケージ」の数々を23年ぶりに展観するものである。
展示の構成は大きくふたつに分けられる。ひとつは伝統工芸的な商品パッケージ。これはさらに木、竹、笹、土、藁、紙と、おもに素材別に分けられている。多くはお土産品としてつくられたもので、実用というよりは、買う人、貰う人を楽しませる工夫に満ちている。もうひとつは人々の生活に根差した実際的なもの。たとえば藁という素材のみで卵、魚、米などを包む工夫がすばらしい。また、結納目録、千歳飴など、ハレの行事に見られる包みの持つ華やかな演出効果にも感動する。会場では一部のパッケージのみではあるが、外観ばかりではなく内容をも紹介する3D映像が上映されている。これはとてもよかった。美術館という場である以上しかたがないのだが、展示において私たちが見ることができるのは「包まれたもの」だけである。何が包まれているのかも、包むという行為も、受け手が行なうであろう包みを解くという楽しみも知ることができない。3D映像は、長期の保管が困難な自然素材のパッケージをアーカイブするうえでも、ものを媒介にした人びとの行動を記録するうえでも、とても優れた手段ではないかと思う。
展示されている「伝統パッケージ」は岡氏が自ら集めたものであり、その時点ではまだ各地で実際につくられ、使われていたものである。さらに、目黒区美術館のコレクションは1988年の展覧会の際に新たに集められたものがほとんどであり、必ずしも歴史的な意味での記録ではない。今回の展覧会のために求められたパッケージもあるという。となれば、ここで「伝統」とは何を意味しているのだろうか。
「たしかに最初は『かたち』そのものが魅力であった。どの一つを取っても、それらはあまりにも美しかったし、その見事さに私は当然のことながら酔ってしまった。そのうちに何故か私は『かたち』以上の何かを見始めた。『かたち』の奥に呼吸している人間、しぶとく今日に生き続けている人間そのものへと、私の関心は変わって行った」と岡氏は書く(岡秀行「包装の原点」[『包む──日本の伝統パッケージ』展覧会図録、11頁])。岡氏がこれらのパッケージに見た「伝統」とは、ものそれ自体のことではなく、「包む」という行為に現われた日本人の美意識であり、素材と対峙する心の継承のことなのである。それゆえ、デザイナーとしての岡氏はプラスチックなどの素材を否定するわけでも、過去への回帰を提唱しているわけでもない。氏のコレクションは、伝統パッケージから「日本人の価値観や自然観を探り、あるいは日本人固有の美の倫理を追究する試み」(同、15頁)であり、そこに見られる精神や価値観はけっして過去に留まるものではなく、これからのものづくりに生かされるべきひとつの指針なのである。[新川徳彦]

2011/03/03(木)(SYNK)

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『ケータイのデザイン』

著者:ヒヨコ舎
発行日:2010/12
発行:アスペクト
価格:1,600円(+税)
サイズ:A5変型、128ページ

1985年のショルダーフォンから現在、そしてまだ実現されていないコンセプトモデルまで、過去四半世紀にわたる期間に日本で発売・発表されたさまざまな携帯電話の写真集。面白いのはその構成。「The Future」「Today」「Classic」の順に3つの部に分かれている。過去から未来へと時系列に辿るのではなく、未来から過去へとデザインの変遷を遡る。そしてもっとも多くのページが割かれているのが「The Future」である。ここで未来の携帯電話として紹介されている製品は、ひとつを除いてすべてコンセプトモデル。携帯電話のデザインがこれからどのような方向を目指すのかを示すものである。その未来像には二つの種類があるようだ。ひとつは将来の技術やサービスの変化や進歩の方向性を設定し、それに基づいた新しい端末の提案。もうひとつは、コミュニケーションのありかたの変化を設定し、そこから新しいサービスをも提案するもの。もちろん両方の未来像をともに取り入れているものもある。これらのモデルの発表年はさまざまであるが、古いものでは2001年に発表されたものも含まれている。すなわち、ここに示されているのは、そのほとんどが過去にデザイナーたちが夢見た未来なのだ。「The Future」においてデザイナーたちがテレコミュニケーションにどのような未来を見ていたのかを考え、「Classic」でカタチのないその存在を彼らがどのようにハードウェアに落とし込んできたのかを振り返る。そして「Today」のページの少なさに、ケータイデザインの「今」の儚さを憂うのだ。[新川徳彦]

2011/03/03(木)(SYNK)

小林礫斎 手のひらの中の美──技を極めた繊巧美術

会期:2010/11/20~2011/02/27

たばこと塩の博物館[東京都]

福住廉氏がすでにここでレビューを書かれているとおり、まさに「超絶技巧」としか形容しようのないミニチュアの数々である。硯箱や煙草盆、印籠などの工芸品から、独楽や人形などの玩具、画帖や集印帖、和洋の絵画や豆本まで、身の回りのあらゆるものがミニチュア化されている。ケースのガラス越しに見ているにもかかわらず、息を詰めていないと吹き飛ばしてしまうような錯覚に陥る。ただ小さいだけではない。チラシや図録の写真ではそのスケール感は実感できない。まるでふつうの大きさの工芸品を見ているかのようだ。それほど微細な細工が施されているのだ。
今回の展覧会はおもにミニチュアの工芸作品を手掛けた小林礫斎(1884-1959)の技巧に焦点を当てたものだが、これらの作品の誕生にはコレクターであった中田實(1875-1946)のはたした役割がとても大きいようだ。礫斎は中田氏との出会い以前からミニチュアを手掛けていたのだが、「通常の礫斎作品を掌に乗ると表現するとすれば、中田コレクションは指先の世界」(『ミニチュア 増補改訂版』たばこと塩の博物館、2010、8頁)なのである。作品制作にあって両者の関係は、職人とコレクター、あるいは職人とパトロンのしあわせな出会いという以上に、ずっと密接なものであったようだ。
中田實は茶人の家に生まれ、一橋高商を経て日本郵船で会計係を務め、1922(大正11)年に退職。以来趣味生活を送ってきたという。昭和11年の『東京朝日新聞』趣味のページに中田氏へのインタビューが二回にわたって掲載されている(1936年11月3日、4日)。それによれば氏は小学生の頃からの切手蒐集家であったが、加えて昭和初年頃から「最小物(ミニチュア)」の蒐集を始める。しかも「ただ集めるだけでは承知が出来なくなり、自分で作ったり、人に註文して作らせたりして段々微に入り細を穿つような小さなものが殖えて来」たという。単なるコレクターであることに飽きたらず、彼は自らミニチュアの制作を始めたのである。中田氏自身が手掛けたのは「デザインと表装」。そして画を担当した小林立堂と細工を担当した礫斎を、彼は自分の「仕事」の「又とない協力者」であると述べている。コレクターの情熱が優れた職人たちの技巧と結びつき、かくも超絶的な作品の数々を生み出していったのか。となれば、いったい作品の誕生にとってどちらが主でどちらが従であったのだろうか。中田氏の遺族がたばこと塩の博物館に寄贈したコレクションには当時の新聞記事のスクラップなどの関連資料も含まれているといい、興味が尽きない。次の機会があれば、ミニチュア制作を「私のこの仕事」と呼び、その「デザイン」を行なった中田實の視点からこれらの作品世界を見てみたい。[新川徳彦]

2011/02/26(土)(SYNK)

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スーザン・ピーチ展「playing your f(l)avour」

会期:2011/01/19~2011/02/26

studio J[大阪府]

スーザン・ピーチ(Susan Pietzsch, 1969-)は旧東ドイツに生まれ、ヴィスマール大学ハイリゲンダム応用美術専門学校宝飾学科を修了、近年はコンセプチュアルなジュエリー作品やオブジェ、インスタレーションを手がける。studio Jでの3度目の個展となる今回は、砂糖で出来たカラフルなビーズのブローチや、数珠がぺしゃんこになったような形のチョコレートバーのブローチを発表した。食べられ、また朽ちていくものをアクセサリーの素材とすることは最近のピーチの関心事のひとつである。彼女はそれを通じて、富や権力、虚栄の象徴ゆえに高価な素材の持つ永久性をジュエリーに求めるわれわれの価値観を打ち破ろうとする。
もっとも、ピーチのアクセサリーはなにもかもが食物のような非永久的な素材でできているわけではない。砂糖のブローチのクリップは18金製であり、チョコレートバーのブローチは、漆によるヴァージョンもある。また今回は、チョコレートに似せた磁器製のブローチも出品された。つまり、ピーチの作品は、ジュエリーに対する素材上の転覆に留まらず、だまし絵の効果のような視覚上の転覆をも射程に入れている。砂糖菓子のブローチの高価なクリップは服に付ければ見えなくなり、チョコレートと漆のブローチを両方、胸に付けてネックレスのようにすると、なんの素材のアクセサリーなのかわからなくなる。
転覆の試みはさらに、視覚以外の感覚領域にも及ぶ。食物によるアクセサリーは身に付ければおそらく匂いを発し、雨に濡れれば溶け、お腹がすけば食べられる。つまるところ、ピーチがジュエリーに与えようとする新たな価値感とは、理性により形作られた伝統的概念の単なる否定というよりも、ジュエリーがあたかも身体の一部としてわれわれの五感を通して認識され、かつ身体のように、儚くも再生可能なものとして存在し得ることなのではないか。実際、展覧会タイトルにある(l)の字が、まさに彼女のジュエリーが「(理性的、視覚的な)好み(favour)」と「(味覚的、嗅覚的な)味(flavour)」のどちらでも楽しめることを示唆するように思えるのだ。[橋本啓子]

2011/02/26(土)(SYNK)