artscapeレビュー
SYNKのレビュー/プレビュー
店頭デザイン大解剖展:つい買いたくなるお店の「しかけ」とは?
会期:2011/02/01~2011/05/08
印刷博物館P&Pギャラリー[東京都]
スーパーマーケットやコンビニエンスストアで私たちが手にとる商品の魅力は、そのモノ自体のデザインばかりではなく、店頭での展示方法にも大きく影響される。メーカーの販売担当者も、店舗の責任者も、いかに商品を目立たせ、差別化し、どのようにすれば迷う消費者の背中を一押しできるか、日々しのぎを削っている。「店頭デザイン大解剖展」は、そのような商品の魅せかたを紹介する展覧会である。
展示は店頭デザインの事例と、デザインプロセス紹介のふたつのパートで構成されている。前者には、「つい見る」「つい気になる」「つい選ぶ」「つい納得する」「つい好きになる」という「店頭行動5つのキーワード」によって解説が付されている。例えば、会場に入った正面には、カップヌードルを円錐状に積み上げたクリスマスツリー。その存在感に圧倒される。壁際の展示台に近づくと流れ出すメロディ。えっと思って足を止める。書籍やCDに付けられた解説文。手書きのPOPは専門家の批評と比べても説得力がある。ユニクロの「秩序」と、ヴィレッジヴァンガードの「計画された無秩序」の対比も興味深い。また、新しい機能を持つ商品、使ってみなければ効果がわからない製品ほど、展示の工夫によって説得力が増すことがよくわかる。独自性のある、あるいは物語性のあるパッケージは、その製品をお気に入りにしてもらうための重要な鍵だ。もうひとつのパートでは、プレミアムモルツの展示台を事例に、消費者行動の「分析」「提案」「検証」のプロセスを解説している。私たちの購買行動がどのように分析され、誘導されているのか、デザインや販売に携わる者ばかりでなく、消費者も知っておくと良いと思う。購入する商品の選択に自分の主体性などほとんど働いていないのだ。[新川徳彦]
2011/03/19(土)(SYNK)
ラファエル前派からウィリアム・モリスへ
会期:2011/02/25~2011/03/27
美術館「えき」KYOTO[京都府]
ラファエル前派兄弟団とそれに続く第二世代のウィリアム・モリスやエドワード・バーン=ジョーンズらを中心に、彼らの絵画と装飾芸術のなかに通底する、諸芸術の統合への志向に照明を当てた展覧会。「ラファエル前派」を狭義にではなく、「ラファエル前派主義」ないしは「ラファエル前派に関与/と共通点をもつ芸術家たち」という広い意味に解釈し(一般に唯美主義とされる作家たちの作品までをも含めているところが興味深い)、アーツ・アンド・クラフツ運動に代表される、19世紀後期の英国芸術の潮流を概観している。同運動は、モリス・マーシャル・フォークナー商会の設立以前、モリスとバーン=ジョーンズらによる家具製作に端を発している。だが、ラファエル前派のメンバーたちは画家が本業でありながら、格下と見なされていた装飾芸術を自ら製作しつつ、純粋美術と装飾芸術を再び一体化しようとする点において、モリスらのアーツ・アンド・クラフツ運動が継承する反アカデミズムの根幹を成していた。本展に出品された絵画の「額縁」には、彼らの手で製作されたものがあるが、その思想の一例ともいえよう。絵と額縁は調和し、両者が協力し合って共に輝きを増している。また、油彩画のなかに描かれた装飾芸術が、観者にリアリティをもって迫ってくる理由もそこにある。今回の展覧会の見どころは、バーン=ジョーンズが人物を、ヘンリー・ダールが花・地面のデザインを行なったモリス商会の《タペストリー:東方三博士の礼拝》(251×373cm)。モリスがデザインした《ステンドグラス:シンバルとリュートの奏者》もまた素晴らしい。モリスたちの装飾芸術は、彼らの制作に対する信条と態度、その誠実でいて清らかな美によって、私たちを惹きつけてやまない。しばし時を忘れて見入った。[竹内有子]
2011/03/18(金)(SYNK)
生誕150年記念 アルフォンス・ミュシャ展
会期:2011/02/05~2011/03/21
堺市博物館[大阪府]
チェコ出身の画家、アルフォンス・ミュシャの生誕150周年を記念して開催された回顧展。ミュシャがフランスにおけるアール・ヌーヴォーの代表的作家として活躍をする「パリ時代」と、その後の滞在地となった「アメリカ時代」、祖国に帰ってライフ・ワーク《スラブ叙事詩》に取り組むことになる「チェコ時代」という三部構成で、初期から晩年にかけての作品約170点が展観された。この区分のなかで、短い活動期間でありながら、非常に際立った作品群を残したのが、デザイナー時代のミュシャだ。本展ではその嚆矢となったサラ・ベルナールのポスター作品をはじめとして、各種装飾パネルやモエ・エ・シャンドンのメニュー、ビスケット缶などベル・エポック期の華やかな風俗をしのばせるもの、デザイナー向けの図案集『装飾資料集』に至るまで、アール・ヌーヴォーの豊かな作例を見ることができる。魅惑的な女性像・渦を巻きながら流れ出す髪・意匠を凝らしたローブの流麗な襞・顔周りの光輪のモザイク状装飾やアラベスク模様・繊細な色調が創りだす「ミュシャ様式」は、アール・ヌーヴォーの隆盛を導いた。だが、ミュシャ作品の魅力はただそれだけに留まるものではない。その装飾文様が有する「象徴」の力がいかに強いものであるか。彼のグラフィック作品は、念入りに構想された構図のうちに、複雑な理念的象徴体系を包含しているのだ。このことは、ミュシャがゴーギャンと交友し、また神秘主義に没頭していたことを考えれば不思議ではない。アール・ヌーヴォーの巨匠としてのミュシャのポスター芸術は、装飾性・諸芸術の統合・象徴主義・綜合主義に特徴づけられる世紀末芸術の様相に照らしてみれば、新たな魅力を発見できるだろう。国内最大のミュシャ・コレクションで知られる堺市のこと、今後さらに個性的なテーマに特化した展覧会にも期待したい。[竹内有子]
2011/03/13(日)(SYNK)
早川良雄ポスター展
会期:2011/03/05~2011/06/05
国立国際美術館[大阪府]
日本の本格的なグラフィック・デザイナーの第一世代が河野鷹思や原弘であるなら、亀倉雄策や早川良雄は第二世代にあたる。そしてこの巨匠たちはいずれも1951年の日本宣伝美術会創設に関わり、日本のデザイン界を牽引した。今回の早川良雄(1917─2009)のポスター展は、作家自身により国立国際美術館に寄贈された作品を中心とする66点のポスターにより、このデザイン界の巨人の足跡を辿ろうとするものだ。
目を惹きつけずにいられないのは、1950年代前半に発表され、以降、伝説のポスターとして語り継がれてきた「カロン洋裁」と「近鉄百貨店の秀彩会」のポスターだろう。単純な形態と色彩に還元された女性のイラストレーションが画面に大胆に配され、「図」である衣服が「地」となり、その上に置かれた2種類の書体──早川自身が考案した手描きの「カストリ明朝」と硬書体──が全体をぴりっと締める。関西のデザイナーたちはこれらのポスターに並々ならぬ衝撃を受けた。のちに早川らに次ぐ世代の代表格となる田中一光は、駅のホームで見た「カロン洋裁」のポスターの「知的な凶暴性、前衛的なメンタリティー」にすっかり心を奪われ、それが当時の主流であったアール・デコや分離派、バウハウス流構成主義への反発であるように感じたと記している(『田中一光自伝──われらデザインの時代』白水Uブックス、2004)。
時代を下るにつれ、早川のポスターには人の心をそっと包み込むような柔らかさとパステル調の鮮やかな色彩が表われる。1980年代のINAXのためのポスターは、柔らかな形と色が印象的なキャッチコピーと巧みに釣り合わされ、ある意味、当時のポストモダンの雰囲気を伝えるだろう。初期から晩年にかけての変化は、時代時代の流行に沿うものとも反発するものとも受け取れ、グラフィック・デザイナーという仕事の面白さと困難さを改めて実感した。[橋本啓子]
2011/03/13(日)(SYNK)
ハウスメイド
会期:2011/03/05~2011/03/13
大阪アジアン映画祭・ABCホール[大阪府]
いわゆる「名作」というものをリメイクする行為はつねにかなりのリスクをともなう。原作に寄り過ぎてしまうとやっぱり原作は超えられないといわれるし、原作を徹底的に解体してしまうと原作の面影の無さに怒りをぶつけられる。綱渡りのような危険で厄介な作業だ。2010年5月、韓国で公開された、イム・サンス監督の映画『ハウスメイド(原題:下女)』も同じ立場だったと思う。韓国映画史上もっとも優れた映画監督の一人とされる、キム・ギヨンの1960年作『下女』のリメイク作であるからだ。人間のエゴを、卓越した心理描写と独特な表現方法で描き続けた、映画監督キム・ギヨンの原点にして頂点に立つ名作と言われる作品だ。『下女』のリメイク版というレッテルは、それだけで乗り越えるべき壁になり、逆に宣伝にもなるはず。予想通りと言ったら失礼だが『ハウスメイド』に関する批評家たちの評価はそれほど芳しくなかったが、興行成績は良好だったようだ。ある意味勝負師としてのイム・サンス監督の一面が垣間見られる部分。この作品は昨年韓国で発売されたDVDですでに観たのだが、「大阪アジアン映画祭2011」のオープニング作品として招待されたことで、今回やっとスクリーンで観ることができた。ちなみに、今年で6回目を迎えた「大阪アジアン映画祭」は日本でもっとも歴史の浅い国際映画祭のひとつではあるが、日本未公開の、良質なアジア映画を紹介しているイベントだ。『ハウスメイド』は今年の夏公開予定だ(配給:ギャガ)。
主人公のウニは上流階級の家でメイドとして働くことに。そこには優しい主人と双子を妊娠中の妻、6歳になる娘、そして昔からそこで働くベテランメイドが暮らしている。ある日ウニは、主人に求められるまま関係を持ち、妊娠してしまう。未公開作品なので、あらすじの紹介はここまでにして、宣伝用小冊子にある文句を引用することにしよう。「彼女(ウニ)の【無垢】が凶器になる時、豪華邸宅は震撼の館に変わる」とある。これは『ハウスメイド』には当てはまらない表現だと思う。そこにはキム・ギヨン監督の下女が見せた、鳥肌が立つほどの狂気も破壊力も、緊張感さえもないからだ。またウニは無垢ではない。汚れのない、保護されるべき存在ではなく、ただ無知で無力な小市民に過ぎない。それは演出力の問題というより、イム・サンス監督(脚本も担当)が50年前の韓国と現在の韓国の違いをいかに認識しているかの問題である。だからこの映画を楽しむ方法は2つ。日本の観客には難しいと思うが、『下女』と『ハウスメイド』を比較してそこから見えてくる韓国社会の変化(資本主義や家族主義の澎湃[ほうはい])に驚くか、または原作の存在など忘れて『ハウスメイド』として楽しむかだ。[金相美]
2011/03/09(水)(SYNK)