artscapeレビュー
SYNKのレビュー/プレビュー
台徳院殿霊廟模型
増上寺宝物展示室[東京都]
昨年、徳川将軍家の菩提寺である増上寺に、「台徳院殿霊廟模型」の常設展示を目的として、宝物展示室が開設された。台徳院殿霊廟とは、1632年に徳川家光公(三代)が秀忠公(二代)を祀るため、境内に造営した御霊屋。これは国宝に指定され、「日光東照宮に先立つ原型」ともいうべき豪華絢爛な建築群であったが、大戦の火災で焼失してしまった。これまではその姿を限られたモノクロ写真から想像するしかなかったのだが、英国王室に献上後ロイヤル・コレクションとして長らく保管されてきた同模型が、100年以上の時を超えて里帰りした。といってもこれはただの建築模型ではない。明治期に東京美術学校の高村光雲(彫刻)、古宇田実(建築)らの監修のもとに制作された、非常に精巧な10分の1スケール(全体で4×6メートル)のもの。1910年の日英博覧会で展示後、キュー・ガーデンの室内で公開されたが、その後に解体、倉庫で保管されていたという。このたびそれを修復したうえで組み立て直し、内部の構造と装飾が見えるようにと、本殿の屋根と本体を外して別々に展示している。狩野探幽ら名だたる絵師や棟梁が参加して造営されたオリジナルと同じ構築材料・工法・彩色技法を用いて、建築細部まで忠実に再現した技術と執念。とにかく明治の超絶技巧といっていい。明治時代に来日した英国人デザイナー、クリストファー・ドレッサーは日光東照宮を激賞したことで知られるが、その訪問より先に増上寺を訪ねて、同霊廟の壮麗さにも感服している。同模型は、歴史的資料の点からしても価値が高い。[竹内有子]
2016/12/17(土)(SYNK)
マリメッコ展
会期:2016/12/17~2017/02/12
Bunkamuraザ・ミュージアム[東京都]
1951年、アルミ・ラティアによってヘルシンキに創業したフィンランドを代表する企業のひとつ、マリメッコ社の60年の歴史を、ヘルシンキのデザイン・ミュージアムの所蔵品でたどる展覧会。展示は3つのパートに分かれている。第1章はアルミ・ラティアの思想と代表的なファブリックの紹介。第2章では創業から現在まで、マリメッコ社の歩みを時系列で辿る。第3章ではパターンや色彩、デザイナーに焦点を当てて、マリメッコという企業、ブランドのアイデンティティを探る。
社名のマリメッコは女性の名前である「マリ(mari)」にドレスを意味する「メッコ(mekko)」を付けたもので、「マリのドレス」を意味する。また「マリmari」は創業者アルミ(Armi)の綴りを並べ替えたもので、マリメッコという企業がアルミ・ラティアの強い個性によって成長したことを物語っている。他方で、マリメッコが優れたデザインを生み出し、成功してきた要因は自由な作品づくりにあるといわれている。1964年にマイヤ・イソラがデザインした《ウニッコ》(ケシの花)をめぐるエピソードはそのひとつだろう。当時アルミ・ラティアはマリメッコの商品に花柄の図案は使わないと明言していたにも関わらず、この図案を採用。《ウニッコ》は現在でもマリメッコのイメージをかたちづくる代表的な図柄になっている。1968年から1976年までマリメッコ社で働き、現在京都のテキスタイルブランドSOU・SOUのデザイナーを務める脇阪克二によれば、マリメッコ社にはノルマやテーマ等の要求が一切なく、求められたことは「BE YOURSELF」だけだったという(『脇阪克二のデザイン』パイインターナショナル、2012年8月、29頁)。1974年から2006年までマリメッコ社のデザイナーを務めた石本藤雄は本展のためのインタビューで「売れないものでもつくらせてくれた」「売れないかもしれないけれども商品化を考えてくれる人たちが社内にいた」と語っている(本展図録、183頁)。1953年から1960年までデザイナーを務めたヴオッコ・ヌルメスニエミは「私がマリメッコでつくるものについて、アルミは何ひとつ口を出しませんでした。本当に何ひとつも」と述べている(本展図録、178頁)。売れないデザインは商品としてはやがて廃番になるのだが、それでも売れ筋を狙うのではなく、自由な作品づくりが可能だったのはなぜだろうか。これは私見だが、マリメッコのファブリックがスクリーン印刷だったことが理由のひとつだったのではないか。20世紀初頭に登場し、戦後ファブリックのプリントに多用されるようになったスクリーン印刷は、従来の織や染め、木版や銅版によるプリントと比べて量産のための初期費用が安く、それは少量生産も容易な技術であることを意味する。つまり万が一そのデザインが売れなくても、損失が少なくてすむのだ。もちろん、他社も同様の技術を用いることができたのでそれだけをマリメッコ社の成功の理由にはできないが、技術がデザイナーの自由を拡大したことは間違いないし、自由で多様なデザインがあったからこそ、その中からヒット作品が生まれたのではないだろうか。他方で、すべてのデザインが売れたわけでないことを考えれば、デザイナーの「自由」と販売面を含めた経営との関係がどのようなものであったのか、さらに詳細を知りたいところだ。
作品は鮮やかだが、展示スタイルはやや平板で彩りに欠ける。たとえば過去のショップの再現展示などがあっても良かったのではないか。解説では1979年のアルミ没後から1980年代の停滞と、1991年にCEOに就任したキルスティ・パーッカネンによる復活にも触れられていて、マリメッコ社の経営がつねに順風満帆だった訳ではないことが分かる。[新川徳彦]
2016/12/16(金)(SYNK)
武士と印刷
会期:2016/10/22~2017/01/15
印刷博物館[東京都]
「武士と印刷」。ストレートで魅力的なタイトルだ。しかしながら困惑させられる部分もある。なぜならば、「武士」という文字からは戦いがイメージされ、他方で「印刷」からは文化の香りがするからだ。もちろん「文武両道」という言葉に見られるように、両者を兼ね備えることは理想的人間像のひとつでもある。ここでの「武士」とは誰なのか。「印刷」とは何なのか。本展タイトルが定義するところを追っていくと、この企画の骨子が見えてくるようだ。
まず「武士」。さまざまな階層があるが、ここでは将軍および藩主クラスに限定されている。時代は戦国時代以降、江戸時代末期まで。というのも、2016年が徳川家康没後400年であることが本企画の背景にあるからだ。家康が生まれた戦国時代には大内(周防)・朝倉(越前)・今川(駿河)の戦国三大文化が花開き、それぞれ大内版、越前版、駿河版とよばれる印刷事業を行なっていた。今川氏のもとで人質時代を過ごした家康はそうした文化の影響を受けていると考えられる。じっさい、家康は伏見版とよばれる書物の印刷に木製活字をつくらせ(慶長4~11年/1599~1606)、駿河版の印刷には銅活字をつくらせている(慶長11~元和2年/1606~1616)のだ。「印刷」は技術のことではなく出版とほぼ同義だが、これらが大衆向けの出版物とは異なり利益を目的としたものではないことから、ここでは印刷という言葉を用いているという。そのほか、藩校の出版物は対象外とされている。これらの制約条件で定義した結果、本展でいう「武士による印刷」とは、戦国時代から江戸時代までのリーダーたちがなんらかの使命感で刊行したもの、政治を司るためのマニュアル、あるいは藩主が自分の趣味としてつくった印刷物ということになる。
使命をもってつくられた印刷物の最大のものは水戸藩第二代藩主・徳川光圀が編ませた『大日本史』だろう。趣味と教養が一致した著名な例は、古河藩主・土井利位が約20年をかけて観察した雪の結晶を収録した『雪華図説』か。なかには写本で十分ではないかと思われる内容のものもあるが、現代の自費出版同様、印刷物であることにステータスがあったようだ。「マニュアル」には武断政治から文治政治に転換するにあたって統治のために必要となった法に関するもののほか、実戦を経験することがなくなった武士たちのための兵法書などがある。
展示第1部は「武者絵に見る武士(もののふ)たちの系譜」。
洋画家・悳俊彦氏のコレクションによる歌川国芳の武者絵は第2部とは直接には関わらないが、江戸時代の庶民が抱いていた武士のイメージと実際の武士たちの姿とのギャップを物語る。第2部は「武士による印刷物」。展示室いっぱいに並んだ書物の数に圧倒される。展示は印刷に関わった人物別におおむね時代順になっており、印刷物の内容別ではない。展覧会の主役はあくまでも「武士」なのだ。
展示の最初に示されている「藩主印刷マップ」には、藩主が印刷に関わった藩が全国にわたっていることが示されている。ということは、これら武士による印刷物の存在は、地方における文化レベルの高さを物語るものなのだろうか。印刷物には奥付や版元が示されていないものが多く明確なことは言えないが、「武士による印刷」には大衆向けの出版物同様に「印刷都市江戸」の存在が大きいという。参勤交代の制度により、藩主には江戸藩邸で生まれ、江戸で多彩な文化、新しい知識に触れて育った人が多い。江戸には印刷出版のシステムも整っていた。それゆえ、江戸の環境が印刷藩主を育んだのだと、本展を企画した川井昌太郎・印刷博物館学芸員は指摘する(本展図録282頁)。そして「印刷都市江戸」の文化、システムは、明治維新とともに「印刷都市東京」へと引き継がれていくことになるのだ。[新川徳彦]
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印刷都市東京と近代日本|SYNK(新川徳彦):artscapeレビュー
2016/12/13(火)(SYNK)
セラミックス・ジャパン 陶磁器でたどる日本のモダン
会期:2016/12/13~2017/01/29
渋谷区立松濤美術館[東京都]
幕末の開港以来、他の工芸品とともに日本の陶磁器は欧米のジャポニスム・ブームに乗って海外に大量に輸出された。しかしそのブームは長くは続かなかった。明治半ばになるとブームは下火になり従来の日本趣味の輸出工芸は衰退へと向かう。輸出工芸の衰退は作家主義の近代工芸への転換の契機として工芸史において叙述されるが、陶磁器分野において「陶芸家」になり得たのはごく一部の人たちのみで、その他大勢、産地の陶磁器業者たちは、新たな製品、新たな市場を模索せざるを得なくなる。製品の市場、人々の生活様式が変われば、求められる製品やその意匠も変化する。陶磁器業者や産地は売れる製品を開発すべくさまざまな努力を重ねた。美術品から実用的な器へ、あるいは碍子や点火プラグのような産業用用途へ、窯業技術を応用した製品のジャンルは拡大し、意匠においては欧米の陶磁器製品を模倣したり、日本のアジア進出に伴って東洋趣味の製品が現れた。さらに、第二次世界大戦中には不足した金属に代わってそれまでにないさまざまな製品が陶磁器で代替されるようになった。しかしながら、これら名も無い多数の陶磁器メーカー、産地の仕事が美術館における近代陶磁の展覧会に取り上げられることは極めてまれなことで、本展のように明治から第二次世界大戦中まで、約70年間という長期にわたる日本の陶磁器産業の製品開発をデザインという側面から概観する展覧会は寡聞にして先例を知らない。
展示は4章で構成されている。第1章「近代化の歩み」では、ヨーロッパでの博覧会参加後の日本風上絵付けの隆盛、ゴットフリート・ワグネルの指導による技術改良、ジャポニスムの終焉とアール・ヌーボー様式の台頭への対応、試験場の設立など、明治期における陶磁器産業近代化の過程を辿る。明治初期において薩摩焼が海外で好評を得たため各地で類似の意匠による焼きものが作られ海外に輸出されたが、ジャポニスムの終焉とともに独自の技術、意匠によって局面を打開しようとした産地もあった。第2章「産地の動向」ではそうした産地の独自性が紹介されている。第3章「発展・展開」では、大正から昭和初期にかけての近代的な都市生活に適合的な陶磁器製品、意匠の開発、いわゆるデザイン、デザイナーが登場した様子、陶磁器試験場の多様な試みを見る。終章は戦中期。資源節約のための規格化や技術革新、金属代替製品などの試みに焦点を当て、戦後の陶磁器デザインへの展望へとつなげる。
最初に述べたとおり、本展は作家ではなく、作品でもなく、産業としての陶磁器──セラミックス──に焦点を当てており、会場にはうつわ以外に、照明器具、噴水器、洗面台、汽車土瓶、瀬戸ノベルティ(陶人形)、火鉢やストーブ、タイルなどの建築材料まで、多様な製品が並ぶ。ただしタイトルに「陶磁器でたどる日本のモダン」とあることから分かるように、本展の視点は陶磁器における近代デザイン運動にあり、それらが製品として成功し、売れたかどうか──どれほどのものが人々の生活の場に届いたかどうか──については十分に検証されていない。とくに陶磁器試験場の試みはいわゆる研究開発(Research & Development)であり、そこには商品化されていないものも含まれることに留意したい。国内、欧米、アジアといった製品市場の違いとデザイン開発との関係についてもさらに検討すべき課題だろう。また日本独自の製品、意匠が模索された一方で、ヨーロッパ陶磁のコピー商品が大量につくられてきた事実も忘れるわけにはいかない。ともあれ、本展は近代陶磁器デザインの歴史研究を深めるきっかけとなるだろう画期的な企画だと思う。[新川徳彦]
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2016/12/12(月)(SYNK)
大田区居住90年記念 川瀬巴水─大田区制70周年記念─
会期:2016/10/09~2016/12/25
大田区立郷土博物館[東京都]
昭和22年(1947年)、東京の旧35区が整理統合され東京23区となった。このとき、大森区と蒲田区が合併し大田区が誕生した。2017年は大田区生誕70周年の年ということで、大田区とゆかりの深い版画家・川瀬巴水(1883-1957)の作品の、昭和22年から絶筆となった「金色堂」まで、写生帖や順序摺を含む約80点を紹介する企画。巴水は大正15年(1926年)11月に大森新井宿子母澤に転居。昭和5年(1930年)には馬込に居を構えて亡くなるまでを過ごした。戦時中、那須塩原に疎開していた時期はあるが、巴水は39年間の版画制作活動のうち、31年間を大田区で展開したことになる。2016年は大田区に居住して90年目の年でもあるという。
巴水の代表作品、人気作品は関東大震災以降から昭和初期にかけてのものが中心で、展覧会でもその時期の作品が紹介されることが多い。それにも関わらず、大田区立郷土博物館が所蔵する約500点の巴水作品から、あえて代表的な作品群を外して戦後の作品に絞った今回の展示はなかなかマニアックな企画(それでも代表作のひとつで地元ゆかりの作品《馬込の月》(1930)は、本展とは別に「馬込文士村」コーナーに展示されていた)。「風景が版画に見えるようになった」と巴水は語っていたそうだが、じっさい何気ない風景が見事に絵になっている作品が多い。
終戦時、巴水は62歳。大田区が誕生した昭和22年には64歳。そこから昭和32年に74歳で没するまでの十数年間に制作された巴水作品には他の時期と比較してどのような特徴があるのか。清水久男(大田区立郷土博物館学芸員)によれば、それは関東大震災前の仕事への回帰だという。版元・渡邊庄三郎(1885-1962)が始めた新版画は関東大震災後に変容する。震災被害に遭った経営を立て直すために作品はマーケット──主として海外──の嗜好に沿うことが第一となった。すなわち色数が削加し、全体に明るく鮮やかな色調へと変化した結果、作品は「描きすぎてくどくなった」(巴水)。作品は海外によく売れたが、国内にあっては江戸の錦絵への接近、広重に似ていることへの批判があった。戦後はそうしたマーケットの縛りから外れて、ほんらい庄三郎が創りたかった版画、巴水が描きたかった作品に回帰した。その背景には、終戦直後には進駐軍にどんな作品でもよく売れた(そのため新版画には海外への土産物的作品が増えたという話もあるので、詳細は検討を要する)こと、庄三郎も巴水に自由に描かせたことがあるという。
ただし、それによって作品が良くなったかどうかについては、意見が分かれるようだ。西山純子(千葉市美術館学芸員)は「終戦を62歳で迎えた巴水の、以後の作品の多くが生彩を欠くのはやはり否めない」という(「川瀬巴水のこと」『川瀬巴水展──郷愁の日本風景』2013年11月、13頁)。震災以降、巴水作品のモチーフ、構図、色彩には大いに版元の手が入っている。戦後の作品が生彩を欠くとしたら、それは巴水の問題だったのか、それとも版元の問題だったのか。あるいは欧米人好みで国内においては批判された震災後新版画が、現代の日本において高く評価されていることをどのように考えたらよいのか。
川瀬巴水生誕130年の2013年から翌年にかけて大田区立郷土博物館や千葉市美術館などで開催された展覧会で巴水の人気はこれまで以上に高まっているようだ。人を呼べる企画だという判断があったのだろうが、3期にわたって約500点が出品された前回の回顧展では無料だった入館料が有料になってしまった。一般500円という観覧料は同種の展覧会と比較すると妥当かもしれないが、区立博物館ということを考えればせめて小中学生は無料であって欲しい。[新川徳彦]
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2016/12/10(土)(SYNK)