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大田区居住90年記念 川瀬巴水─大田区制70周年記念─

2017年01月15日号

会期:2016/10/09~2016/12/25

大田区立郷土博物館[東京都]

昭和22年(1947年)、東京の旧35区が整理統合され東京23区となった。このとき、大森区と蒲田区が合併し大田区が誕生した。2017年は大田区生誕70周年の年ということで、大田区とゆかりの深い版画家・川瀬巴水(1883-1957)の作品の、昭和22年から絶筆となった「金色堂」まで、写生帖や順序摺を含む約80点を紹介する企画。巴水は大正15年(1926年)11月に大森新井宿子母澤に転居。昭和5年(1930年)には馬込に居を構えて亡くなるまでを過ごした。戦時中、那須塩原に疎開していた時期はあるが、巴水は39年間の版画制作活動のうち、31年間を大田区で展開したことになる。2016年は大田区に居住して90年目の年でもあるという。
巴水の代表作品、人気作品は関東大震災以降から昭和初期にかけてのものが中心で、展覧会でもその時期の作品が紹介されることが多い。それにも関わらず、大田区立郷土博物館が所蔵する約500点の巴水作品から、あえて代表的な作品群を外して戦後の作品に絞った今回の展示はなかなかマニアックな企画(それでも代表作のひとつで地元ゆかりの作品《馬込の月》(1930)は、本展とは別に「馬込文士村」コーナーに展示されていた)。「風景が版画に見えるようになった」と巴水は語っていたそうだが、じっさい何気ない風景が見事に絵になっている作品が多い。
終戦時、巴水は62歳。大田区が誕生した昭和22年には64歳。そこから昭和32年に74歳で没するまでの十数年間に制作された巴水作品には他の時期と比較してどのような特徴があるのか。清水久男(大田区立郷土博物館学芸員)によれば、それは関東大震災前の仕事への回帰だという。版元・渡邊庄三郎(1885-1962)が始めた新版画は関東大震災後に変容する。震災被害に遭った経営を立て直すために作品はマーケット──主として海外──の嗜好に沿うことが第一となった。すなわち色数が削加し、全体に明るく鮮やかな色調へと変化した結果、作品は「描きすぎてくどくなった」(巴水)。作品は海外によく売れたが、国内にあっては江戸の錦絵への接近、広重に似ていることへの批判があった。戦後はそうしたマーケットの縛りから外れて、ほんらい庄三郎が創りたかった版画、巴水が描きたかった作品に回帰した。その背景には、終戦直後には進駐軍にどんな作品でもよく売れた(そのため新版画には海外への土産物的作品が増えたという話もあるので、詳細は検討を要する)こと、庄三郎も巴水に自由に描かせたことがあるという。 ただし、それによって作品が良くなったかどうかについては、意見が分かれるようだ。西山純子(千葉市美術館学芸員)は「終戦を62歳で迎えた巴水の、以後の作品の多くが生彩を欠くのはやはり否めない」という(「川瀬巴水のこと」『川瀬巴水展──郷愁の日本風景』2013年11月、13頁)。震災以降、巴水作品のモチーフ、構図、色彩には大いに版元の手が入っている。戦後の作品が生彩を欠くとしたら、それは巴水の問題だったのか、それとも版元の問題だったのか。あるいは欧米人好みで国内においては批判された震災後新版画が、現代の日本において高く評価されていることをどのように考えたらよいのか。
川瀬巴水生誕130年の2013年から翌年にかけて大田区立郷土博物館や千葉市美術館などで開催された展覧会で巴水の人気はこれまで以上に高まっているようだ。人を呼べる企画だという判断があったのだろうが、3期にわたって約500点が出品された前回の回顧展では無料だった入館料が有料になってしまった。一般500円という観覧料は同種の展覧会と比較すると妥当かもしれないが、区立博物館ということを考えればせめて小中学生は無料であって欲しい。[新川徳彦]

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