artscapeレビュー
建築に関するレビュー/プレビュー
「メイド・イン・トーキョー:建築と暮らし 1964/2020」展
会期:2019/10/11~2020/01/26
ジャパン・ソサエティー[米国、ニューヨーク]
ニューヨークのジャパン・ソサエティーに足を運んだ。エントランスの吹き抜けには、これまでなかった奈良美智の大きな作品が設置されている。これは購入したわけではなく、長期貸与の形式をとって、今後も定期的に変えていくという。
さて、訪問の目的は、アトリエ・ワンとディレクターの神谷幸江によって上階のギャラリーで企画された「メイド・イン・トーキョー:建築と暮らし 1964/2020」展である。「メイド・イン・トーキョー」は、東京の複合建築を調査した彼らのプロジェクトの名称でもあるが、今回の狙いは、タイトルに含まれる二つの年号からもうかがえるように、前回と今回のオリンピックの時代における東京建築を比較することだ。それゆえ、会場では仮設壁で囲まれた空間を入れ子状につくり(両側の端部が湾曲したかたちは、スタジアムの見立てらしい)、その外側を1964年、内側のエリアを2020年に割り当て、模型、写真、映像、ドローイングなどを用いて、作品を紹介する。興味深いのは、壁には開口部を設け、二つの時代を同時に観察できる場所があちこちに生じていることだ。会場デザインも、アトリエ・ワンが手がけている。
またいくつかのビルディング・タイプ やテーマを設定し、おおむね入口から順番に「競技場」、「駅」、「リテール」、「オフィス」、「カプセル」、「住宅」といったジャンルごとに各時代の代表作を選んでいる。総花的に多くの事例を紹介するというよりは、作品の数はかなり絞り込んでいる。例えば、《国立代々木競技場》と《新国立競技場》、《そごう》と《GINZA SIX》、《中銀カプセルタワービル》と《9h》、《塔の家》と《西大井のあな》などだ。やはり、すでに半世紀以上に及ぶ歴史の審判を受けた定番の名作を並べると、どうしても近年できたばかりの東京建築は重厚さや大胆さに欠ける印象を受けるが、こうした状況そのものが時代の変化を示しているのかもしれない。
なお、同展は、建築だけでなく、ハイ・レッド・センター、山口勝弘、小沢剛、AKI INOMATA、竹川宣彰、風間サチコなど、建築や都市に関わる新旧のアーティストの作品や活動も紹介し、別の角度から、それぞれの時代の雰囲気を伝えていた。
2020/01/15(水)(五十嵐太郎)
シュヴァルの理想宮 ある郵便配達員の夢
幻想建築の系譜で語られ、シュルレアリスムの文脈で賞賛され、アウトサイダー・アートの先駆にも位置づけられる、郵便配達夫シュヴァルの理想宮。たった1人で、33年の歳月をかけて完成させた奇想の宮殿の誕生秘話をドラマチックに描いた映画。
南仏の小村で郵便配達をしていた寡黙な偏屈親父シュヴァルが、途方もない宮殿建設を始めたのは、後妻のあいだに娘が生まれて間もない40歳を過ぎたころ。配達の途中で石につまづいて倒れたのがきっかけで、石を集め始めた。以後、毎日30キロ以上を歩く配達の仕事が終わってから、さらに数キロ歩いて石を拾っては積み上げ、奇想天外、前代未聞の建物を営々と築いていく。もちろん建築の知識などあろうはずもなく、雑誌や絵葉書で見た世界中の建築を想像でつなぎ合わせ、野山を歩くなかで培った自然の力にゆだねてつくり上げていったのだ。村人には変人扱いされたが意に介さず、憑かれたように没頭した。ここらへんがアウトサイダー・アートたるゆえんだ。
溺愛していた娘が若くして亡くなり深く悲しむが、代わりに前妻とのあいだにもうけた息子が大人になって訪ねてきて、一家で近くに住み始める。このころから“宮殿”は徐々に知られるようになり、シュヴァルを変人扱いしていた村人の態度も軟化。しかし、宮殿が完成するころ息子が亡くなり、やがて後妻にも先立たれてしまう。シュヴァルはさらに長生きして家族の墓廟をつくり、88歳の長寿をまっとうした。
映画は事実に基づいているものの、脚色も多い。例えば、シュヴァルは愛娘のために「宮殿」を建てたように描かれているが、果たしてそうだろうか。また、前半ではシュヴァルが奇人変人として描かれているのに、後半では家族に愛され、村人に尊敬される好々爺に収まってしまったことにも違和感を覚える。シュヴァルはそんな小さなコミュニティに収まるような器ではないだろう。娘がどうなろうが、村民にどう思われようがどこ吹く風、ひたすらつくり続けただろうし、最後まで偏屈・変人だったと思いたい。そうでなければあんな夢(悪夢?)のような宮殿はつくれないはずだ。希代の偉業を陳腐な美談に仕立ててしまったのがちょっと残念。
公式サイト:https://cheval-movie.com/
2020/01/13(月)(村田真)
インポッシブル・アーキテクチャー ─建築家たちの夢
会期:2020/01/07~2020/03/15
国立国際美術館[大阪府]
いわゆる「建築展」が抱えるジレンマや限界は、美術作品と異なり、「実物」の建築そのものを会場に持ってきて展示できないため、必然的に「図面」「模型」「写真や映像」すなわち建築物に付随する周縁部や資料で補うしかない、という点にある。これに対して本展は、20世紀以降の国内外における「未完のアンビルト建築」に焦点を当てることで、「建築展につきもののジレンマや限界」を逆手にとり、解消する試みでもある。
ロシア・アヴァンギャルドのマレーヴィチやタトリン《第3インターナショナル記念塔》(1919-20)で幕を開け、その遺伝子を遠く受け継ぐザハ・ハディド(彼女の卒業制作は《マレーヴィチ・テクトニク》[1976-77])へ至る本展において、プランが未完に終わった理由はさまざまだ。革新性ゆえコンペで落選したプラン(ドイツ初の高層建築を目指してガラスの摩天楼を提案したミース・ファン・デル・ローエ)。コンペ自体への批評性を盛り込んだ挑発的な野心案(「日本趣味を基調とする東洋式」という条件を拒絶し、バウハウスやル・コルビュジエから学んだインターナショナル・スタイルを提案した前川國男の《東京帝室博物館建築設計図案懸賞応募案》[1931]や、4本の巨大な柱から8層のフロアを吊り下げた仏塔のような巨大建造物を提案した村田豊の《ポンピドゥー・センター競技設計案》[1971]。両者はベクトルこそ相反するが、「建築表象による文化的ヘゲモニーの闘争」という側面を合わせもつ)。
さらには、未来的な都市計画としての壮大な構想(連結可能なユニットによる増減可能な構造体として海上都市を描く黒川紀章の《東京計画1961―Helix計画》や菊竹清訓の《海上都市1963》などのメタボリズム。居住空間のユニットをインフラと交通を担うケーブルで連結するヨナ・フリードマンの《可動建築/空中都市》[1956-])。純粋な思考実験に近いもの(牧歌的な風景に航空母艦や巨大なボルトを組み合わせた合成写真を、新たな都市のヴィジョンとして1950年代末~60年代に提示したハンス・ホライン、60年代以降に雑誌上にドローイングやダイヤグラムを発表したアーキグラムやスーパースタジオ)。解体/構築の力学や線の運動を可視化したドローイング(コンスタン[コンスタン・ニーヴェンホイス]による《ニュー・バビロン》の素描[1956-74]、ダニエル・リベスキンドの《マイクロメガス:終末空間の建築》[1979])。
また、1933-36年に日本に滞在するも、日本での建築設計例がほとんどないブルーノ・タウトが、現・近鉄(近畿日本鉄道株式会社)から依頼を受け、生駒山頂の遊園施設にホテルと住宅団地を追加する小都市計画を構想していたことを今回初めて知った。タウトが描いた「遠望図」を見ると、ヨーロッパの城塞都市のような景観が山頂から広がっており、もし実現していたら、筆者の住む大阪市内から見える生駒山の風景が今とは異なっていただろうと想像され、興味深い。
未完=潜在的な可能性と捉えれば、そこには現状に対する批評性が胚胎する。例えば、上述のフリードマンは《可動建築》と《空中都市》の構想を今日的な視点から見直し、大幅に修正した《バイオスフィア:ザ・グローバル・インフラストラクチャー》(2017)を発表している。ソーラー・パネルなどの技術的進化によってエネルギーや水の個人による管理が可能になることで、インフラを担う中空の架構が不要になり、ネットによるコミュニケーションや在宅勤務が充実すれば、都市に住む必要性もなくなる。こうした思考において、クラウド化やノマド性を拡張していくことで、「土地の所有」の概念や「国境」「国家」のラディカルな解体へと繋がっていく。
本展のほぼラストを締めくくるのは、ザハ・ハディド・アーキテクツ+設計JVの《新国立競技場》(2013-15)である。妥当かつ必然的な配置だが、ザハの紹介がこのプランのみであり、「新国立競技場案をめぐるスキャンダル」に収束してしまう点は残念に感じた。実現されなかったほかのプランの展示もあれば、よりザハの思考やその革新性が伝わったのではないだろうか。また、同様に、行政機構との政治的・経済的事情で決定後に白紙撤回となった近年の例として、SANAAによる滋賀県立近代美術館の改修・新棟建設計画にも言及があれば、「美術館と建築」というパースペクティブが浮上し、「美術館で建築展を開催する意義」がより際立っただろう。
アンビルト建築はまた、「建築の不在とともに何が不可視化されているのか」という、建築と政治(性)をめぐる問いをネガのように浮かび上がらせる。例えば、1942年の「大東亜建設記念営造計画」のコンペで一等を獲得した、丹下健三の《大東亜建設忠霊神域計画》は、富士山麓に建設した神殿と皇居を「大東亜道路・鉄道」で結ぶことで、強い象徴的存在へと視線が向かうモニュメンタルな空間構成を壮大な都市計画レベルでつくり上げるものだが、この未完のプランの縮小版が「原爆ドーム」へと視線を集約させる広島平和記念公園の設計であることは、すでに指摘されている。あるいは、宮本佳明の《福島第一原発神社》(2012)は、1万年以上にわたって高レベル放射性廃棄物を安全に保管するために、原子炉建屋に象徴的なシンボルとして和風屋根を載せ、「原子炉を鎮める」神社として祀るという構想である。こうした例を含めて考えることで、本展の射程は、ユートピア的なヴィジョンや観念的な思考実験を超えて、よりアクチュアルに深まるのではないだろうか。
関連レビュー
インポッシブル・アーキテクチャー
もうひとつの建築史|村田真:artscapeレビュー(2019年02月15日号)
インポッシブル・アーキテクチャー もうひとつの建築史|五十嵐太郎:キュレーターズノート(2019年03月01日号)
2020/01/07(火)(高嶋慈)
パラサイト 半地下の家族
飛行機の中でポン・ジュノ監督の映画『パラサイト』を鑑賞した。もっとも、後から映画のスクリーンに合わせて、美術監督が豪邸の空間を設計したことを知り、映画館でも見たくなった。途中から出てくる、異様な地下空間はさすがにセットだと思っていたが、どうやら地上部分もセットだったらしい。ちなみに、シャンデリアなどのアイテムによって豪華さを示すのではなく、建築雑誌に登場するような大きなガラス張りのリビングなど、モダンなデザインによって高級さが演出されている。韓国映画やドラマは、冬ソナ・シリーズをはじめとして、『私の頭の中の消しゴム』 、『イルマーレ』 、『建築学概論』など、しばしば建築や建築家が重要な役割を占めているが、本作ももうひとつの主役は、金持ちの住宅と貧乏人の半地下の住処ということになるだろう。前者はそれぞれが個室に分かれ、家族はバラバラであるのに対し、後者はほとんどプライバシーを獲得することができないものの、助けあう家族のイメージを空間で体現している。
興味深いのは、お手伝いというポジションが重要な位置づけになっていることだ。なるほど、その家の施主でもないし、家族の一員でもない他者でありながら、もっとも密接に住宅に関わる職業である。そして日中、家族が外に出かけているときも、家で作業をしている。実際、『パラサイト』において、家政婦は建築家が設計した住宅の秘密を知っており、その家の特殊ルールを決めたり、家族に大きな影響を与えるなどして、住宅という空間を影で支配していた。レム・コールハースが設計したボルドーの家を題材としたドキュメンタリー映画『コールハウス・ハウスライフ』でも、もはや住人が暮らしていないために、家政婦が主役だった。亡くなった主人の思い出を語る墓守のようでもあり、常に掃除という行為を通じて、住宅のあらゆる表面を触っている。特に空間の特徴に対して定型化された所作は、ほとんどコレオグラフィーに近い。こうした家政婦の重要性も、豪邸ならではかもしれない(ドラマ「家政婦は見た!」を想起せよ)。それにしても、『パラサイト』の終盤の激しい展開は予想できない。ここで抑圧された階級差や、隠された空間の分節が突如むきだしとなり、凄まじいカタルシスを迎える。
2020/01/04(土)(五十嵐太郎)
上海のリノベーション建築群
[中国、上海]
中国は新しい奇抜な建築ばかり増やしているというイメージを持たれがちだが、実際は日本以上に保存やリノベーションに力を入れている。例えば、上海の外灘に並ぶ近代の様式建築群は、まるごとファサードが保存されており、世界でも稀なエリアを形成している。船からイルミネーションに彩られた夜景を鑑賞すると、浦東の現代建築群と対照的な眺めを楽しむことができる。日本では横浜にかつて様式建築が数多く残っていたはずだが、かなり消えてしまった。政府の力が強く、土地の私有性がない分、残そうとしたら本格的に街並みも残せるのが、中国の有利な点だろう。
今回、上海で訪問したいくつかのリノベーション建築を紹介しよう。およそ5年ぶりの訪問となった《1933老場坊》は、もともとイギリス人の建築家が設計したもので、オーギュスト・ペレや、アントニン・レーモンド風の外観をもつ近代建築である。不思議な空間構造は本来、立体的な屠殺場として機能的につくられたからだ。かわいい水路もおそらく血が流れていたはずであり、細い空中通路の視界をさえぎる異様に高い壁も牛を歩かせるためだろう。もっとも、これは現在、おしゃれなお店が多い人気スポットに変容しており、リノベーションの力を感じさせる事例だ。
また浦東の隈研吾による《船厰1862》は、造船所をシアターと超高級の商業施設に改造したものである。インスタ映えするレンガのスクリーンだけかなと思いきや、内部のリノベーション空間がカッコいい。斜めに切り込む通路、意表をついて吹抜けの中心軸に位置する構造体、サインなど、見所も豊富だ。
ウェストバンドもリノベーションによる展示施設が多い。エリアの北部にある格納庫をリノベートした《余徳耀美術館》は、藤本壮介が手がけた。ガラスアトリウムのカフェ、ラウンジのバカでかさに彼らしさを感じる。ただ、残念ながら、巨大な空間は展示に活用されておらず、話題の作品《レインルーム》も故障中だった。
柳亦春が設計した《龍美術館》も、ウェストバンドのアート施設である。これは厳密な意味ではリノベーションとは言えないが、旧貨物線を挟んで、半アーチを両サイドにのばす巨大なT字形を反復する建築だ。空間の形式は、卒計でありそうな感じだが、朽ちた産業施設と絡むことで、両者の対比が鮮烈になっている。ここでは、地上は現代美術、広大な地下は書や古美術が展示され、いずれも中国の作家が紹介されていた。やはり日本にはそうない大空間だが、ここを有効に使える現代美術はこれからだろう。
2020/01/02(木)(五十嵐太郎)