artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

記憶の島─岡本太郎と宮本常一が撮った日本

会期:2012/07/21~2012/10/08

川崎市岡本太郎美術館[神奈川県]

岡本太郎と宮本常一が日本の民俗を撮影した写真を見せた展覧会。あわせて約200点の写真と、宮本が収集した各地の民具や岡本による立体作品も展示された。「風景」「女」「こども」「民俗」などのテーマに沿って、それぞれのモノクロ写真が対照的に展示されたため、まず気がつくのは二人の相違点である。
岡本が撮影したのは、祭りや儀式などハレの場が多い。非日常的な現場の動きや熱、音が伝わってくるかのような迫力のある写真だ。被写体の正面にわざわざ回り込み、肉迫しようと試みる、ある種の図々しさすら感じられる。むろん日常の暮らしを写した写真もあるにはあるが、それにしてもアングルや構図がやけに美しい。
一方、宮本の写真に写し出されているのは、家屋や町並み、労働に勤しむ人びとなど、日常の暮らしであるケの場面。岡本に比べると中庸な写真と言えるが、宮本の関心はありのままの生活をありのままに記録することにあったのだろう。土地の人間を背後からとらえた写真には、呼吸をあわせながらそっとシャッターを切る宮本の姿が透けて見えるかのようだ。
芸術と民俗学の対称性。たしかに岡本の写真の重心が「表現」にあるのに対し、宮本のそれは「記録」にあると言える。だが、両者の写真に共通点がないわけではない。それは、失われつつある民俗へのまなざしだ。高度経済成長の陰で忘れられつつあった「裏日本」の暮らしを、ともに写真に焼きつけることで留めようとしていた点は明らかである。
しかし、だからといって、それは必ずしもロマンチックなノスタルジーにすぎないわけではない。なぜなら、写真と民具、そして作品が集められた会場には、人間にとって本質的な「ものつくり」の精神が立ち現われていたからだ。岡本が立体作品を制作したのと同じように、村人たちも自分たちの暮らしをつくっていたのだ。芸術と民俗学に、いや、アーティストと無名の人びとに通底する根源的な創造性と想像性を、岡本と宮本は見抜こうとしていたのではなかったか。
「表日本」の成長が頭打ちとなり、新たな方向性が模索されているいま、岡本と宮本のまなざしは、来るべき社会をつくる私たちにも向けられているのかもしれない。

2012/10/04(木)(福住廉)

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小沢さかえ展「海底オーケストラ」

会期:2012/10/05~2012/11/17

MORI YU GALLERY KYOTO[京都府]

京都ではほぼ3年ぶりという小沢さかえの個展が開催されている。画面の多様な筆致、描かれたモチーフ、色彩。これまでの小沢の作風やイメージを鮮やかに裏切る印象のものがいくつもあり、密かに興奮した。森の動物や小動物、少女など、以前からしばしばその画面に登場していた存在も今回の発表では多くがあまり主張しておらず、少し気味悪さが匂う混沌の世界や色鮮やかな光景にそっと紛れこむように描かれている。踊るような魚の群れ、揺らぐ植物、白い花などに囲まれて凛と佇む女性を描いた《昨日の夢まで何マイル》、《鴨川》や《ドナウ川》といった川の連作など、観る側の想像力に迫ってくるような、濃密な物語を潜めた迫力を今展の多くの作品に感じた。あるところではダイナミックにあるところでは精緻な筆触と色彩を目で追っていくと、その世界に自分の身を任せて、屈曲する水の流れに漂っているような感覚になる。心地よくも頼りない揺らぎの描写もまた魅力的だった。

2012/10/03(金)(酒井千穂)

始発電車を待ちながら 東京駅と鉄道をめぐる現代アート 9つの物語

会期:2012/10/01~2013/02/24

東京ステーションギャラリー[東京都]

東京ステーションギャラリーにて、現代美術展「始発電車を待ちながら」を見る。いずれも駅や鉄道に関わるアート作品だが、前半は一般受けがよさそうな作家、パラモデル、ミニチュア風に撮影した東京駅と東武ワールドスクエアの1/25の東京駅の模型写真を並べた本城直季、クワクボリョウタらが続く導入部とし、後半はヤマガミユキヒロなどを紹介する。あいちトリエンナーレ2013の公式デザイナーの廣村正彰も、既存の煉瓦壁を活用した人が通り過ぎる映像作品で参加している。

2012/10/03(火)(五十嵐太郎)

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動く絵、描かれる時間:ファンタゴマスリア

会期:2012/09/28~2012/10/17

横浜市民ギャラリー[神奈川県]

横浜市民ギャラリーの恒例企画展「ニューアート展NEXT」。今回は、映像表現をテーマに、金澤麻由子とSHIMURA brosがそれぞれ映像インスタレーションを展示した。とりわけ印象深かったのが、後者。いくつかのシリーズを発表したが、なかでも映像を物質化した作品が秀逸だった。
ブラックキューブに入ると壁面に一点の光が映っているが、それが何の図像なのかまったくわからない。プロジェクターから投射されていることはわかるが、音もないから映像作品なのかどうかすらおぼつかない。すると、突然機械音とともに会場の一角から煙が吹き出しはじめた。それとともに目の前の光点がしだいに縦に広がってゆき、やがて細い線となってはじめて気がついた。煙はプロジェクターから投射される光を物質として際立たせるための仕掛けであることを。
会場内に充満した煙は、暗闇では視認することができないが、光線の周囲を激しく揺れ動いているのがはっきりと見える。まるで一枚の帯のようだ。
しばらくして光線が左右にゆっくり動き出すと、その先にはいくつもの鏡面が設置されていたため、光線は会場内を乱反射し始め、光の帯は幾重にも重層化した。光に包まれる経験はとくに珍しくもないが、何本もの光の帯に身体を貫かれる経験はそうそうない。
光と闇で構成されている映像。映画では自明視されている大前提を、映画とは異なるかたちで浮き彫りにした、アートならではの作品である。しかも、それをこれほどシンプルに表現した作品はほかに知らない。「混浴温泉世界2012」でアン・ヴェロニカ・ヤンセンズが似たような作品を発表していたが、SHIMURA brosのほうが視覚的にもコンセプトの面でもすぐれていたように思う。

2012/10/03(水)(福住廉)

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小林紀晴「遠くから来た舟」

会期:2012/09/28~2012/11/06

キヤノンギャラリーS[東京都]

目新しいテーマというわけではない。日本各地に点在する「聖地」、そこで行なわれるさまざまな祭礼や年中行事は、これまで多くの写真家たちが撮影してきた。1970年代の内藤正敏、土田ヒロミ、須田一政らの仕事がすぐに思い浮かぶし、その後も高梨豊、鈴木理策、石川直樹らが、個性的なアプローチを展開してきた。とはいえ、今回展示された小林紀晴の「遠くから来た舟」は、彼なりの必然性と粘り強い思考と実践によって成立したものであり、その写真家としての経歴のエポックとなるいい作品だと思う。
小林はよく知られているように、20歳代の多くの時間をアジア各地の旅に費やし、2001年の同時多発テロを挟んでニューヨーク滞在も経験した。その後、「海外にばかり眼が向いていた反動」で、「日本の聖なる地」にカメラを向けるようになる。しかも小林の生まれ故郷の長野県諏訪は勇壮な「御柱祭」が数え年の7年ごとに行なわれる土地であり、彼の父親もその祭りによく参加していたという。青森の「ねぶた祭り」から沖縄・与那国島の「マチリ」まで、そうやって撮影された祭礼の写真群は、だがそれほど神秘的にも、威圧的にも感じない。小林の旅の写真の基本的なスタイルである、被写体との等身大の向き合い方がここでも貫かれており、背伸びすることなく自分自身の目と足を信じてシャッターを切っていることが伝わってくる。大小68点のプリントの展示構成にも工夫が見られる。連続性よりも非連続性を強調して、写真が闇の中で次々に点滅していくように、効果的に配置しているのだ。
もうひとつ感心したのは、会場で配布されていた展示作品のリストを兼ねた作品解説のテキストである。小林の文章力には以前から定評があるが、そのレベルが格段に上がっているのだ。「すべては盃のなかで起きていたこと。少しずつ飲みほされていく」。これは最後の68枚目の写真に付されたキャプションだが、作品全体を見事に締めくくるとともに、さらに「遠くから来た舟」のイメージへと読者を誘う。写真家、文章家としての階梯を、また一段上ったのではないだろうか。

2012/10/02(火)(飯沢耕太郎)