artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
レーピン展

会期:2012/08/04~2012/10/08
Bunkamuraザ・ミュージアム[東京都]
レーピンというのは美術史的にどのように位置づけられているのか、落としどころのわからない画家だ。生まれは1844年だから印象派と同世代(ほんの少し若い)で、パリ留学中に印象派の旗揚げに接し大きな影響を受けたものの、画風はそれ以前のリアリズムに徹していたからモダニズムの文脈からは外れる。また、社会的弱者や革命運動を描く一方で、帝政ロシアの貴族や文化人の肖像画も手がけたというのも一筋縄ではいかないところだ。芸術も社会もイケイケの前衛だったロシア革命時には70歳をすぎていたが、当時はどのように見られていたのだろう。亡くなった1930年は社会主義リアリズムが真っ盛りで模範的画家と見なされていたようだが、ソ連崩壊後どのように評価が変わったのか。彼の生きた19~20世紀のロシアほど大きく変動した社会もないから、自分は変わらなくても時代によって保守的と見られたり革新的と見られたりしたんだろう。まあ彼自身はリアリズム絵画しか描けない職人画家だったのかもしれない。
2012/08/19(日)(村田真)
ダニエル・マチャド/森山大道「TANGO」

会期:2012/08/18~2012/09/30
TRAUMARIS SPACE[東京都]
面白い組み合わせの写真展だった。ウルグアイ、モンテビデオ出身のダニエル・マチャドはタンゴ・ダンサーがカップルで踊る姿を画面上で増殖させるシリーズと、バンドネオンとダンサーとの脚を対比させて画面に配したシリーズの二作品を展示した。どちらもタンゴの官能性、音楽のうねりとともに変容していく身体のあり方を見事に捉え切っているが、個人的には後者の方が興味深かった。バンドネオンの本体のメカニズムが、そのまま女性の脚の曲線に接続しているあり方が、シュルレアリスティックと言えそうなほど意表をついた美しさなのだ。そういえば、今回のパートナーである森山大道にも網タイツの脚をクローズアップで撮影した作品があった。二人の作品世界が重なりあって見えてくるのがよかったと思う。
その森山は、2005年の写真集『ブエノスアイレス』(講談社)におさめたタンゴのイメージを再演していた。森山の数ある写真集のなかでも、『ブエノスアイレス』はねっとりと絡みつくような夜の空気感、そのエロティシズムを最も色濃く漂わせている。そのなかでも、特に夜の路上で踊る男女のタンゴ・ダンサーの場面は鮮やかに記憶に残っており、それをかなり大きく引き伸ばしたプリントのかたちで見ることができたのが嬉しかった。カラーとモノクローム、演出写真とスナップショットという二人の写真家の対比がうまくきいていて、展示として成功していたと思う。
2012/08/18(土)(飯沢耕太郎)
カミーユ・ピサロと印象派──永遠の近代

会期:2012/06/06~2012/08/19
兵庫県立美術館[兵庫県]
すべての「印象派展」に参加した唯一の画家で、メンバーの長兄的存在だったカミーユ・ピサロの回顧展。ピサロといえば厳格な構図に基づく安定感のある画風が特徴で、それゆえモネやセザンヌに比べると地味な印象を持っていた。しかし、本展ではピサロの作品の合間に盟友たちの作品を挟むことで、彼らの相互的な影響関係を提示していたのが興味深かった。また、活動期間を偏りなく紹介したことも手伝って、とてもわかりやすい展覧会に仕上がっていた。不満があるとすれば以下の2点。まず、セザンヌとの交流が活発だった時期のコーナーでセザンヌの作品が展示されなかったこと。もうひとつは最終章の扱い方。キャプションでは晩年の仕事をとても好意的に解釈していたが、私には点描画を諦めた時点でピサロは頭打ちになったように思えた。ただ、それらはあくまで私の主観に過ぎない。客観的に判断して、本展が上出来の展覧会であることは間違いない。
2012/08/18(土)(小吹隆文)
奈良美智「君や 僕に ちょっと似ている」

会期:2012/07/14~2012/09/23
横浜美術館[神奈川県]
横浜美術館の奈良美智展へ。11年前に同じ場所で彼の個展を見たとき、画家でありながら、空間の使い方の巧さに感心するとともに、女性がグッズ売り場に大挙するコンサートのような風景に心底驚いたことをよく覚えている。今回は空間演出よりも、板、紙、ブロンズなど、いろいろな素材の試みが印象に残る。興味深いのは、企画展が終わり、常設の部屋に入っても、引き続きコレクションのあいだに奈良の作品を混ぜていたこと。
2012/08/17(金)(五十嵐太郎)
すべての僕が沸騰する 村山知義の宇宙

会期:2012/07/14~2012/09/02
世田谷美術館[東京都]
2012年2月から神奈川県立近代美術館 葉山、京都国立近代美術館、高松市美術館、世田谷美術館と巡回してきた「村山知義の宇宙」展は、期待に違わぬ面白さだった。画家、イラストレーター、舞踏家、建築家、演出家、小説家など、さまざまなジャンルを横断し、常に挑発的な作品を発表し続けた村山の全体像を、おそらく初めて概観できるこの展示の意味について語るにはいささか役不足なので、ここでは彼と写真とのかかわりについて、いくつかの角度から指摘するに留めたい。
村山が1922年にベルリンに約1年間滞在した時期は、まさに写真という表現メディアが大きくクローズアップされ始めた時期だった。モホイ=ナジがバウハウスに招聘されて、フォトモンタージュやフォトグラムなどを積極的に授業に取り入れ始めるのが1923年、画期的な小型カメラ、ライカA型がエルンスト・ライツ社から発売されるのが1925年である。当然ながら村山もまた、ドイツで写真の表現力を強く意識したに違いない。
だが1923年に帰国し、「マヴォ」の運動を精力的に展開するなかで、「コンストルクチオン」(1925)のようなコラージュ作品の一部に、フォトモンタージュが取り入れられていることを除いては、彼自身が写真作品を発現することはなかった。ただ彼自身のダンス・パフォーマンスが、写真として記録されることで広く知られるようになったのは確かだし、堀野正雄の写真をフィーチャーした「グラフ・モンタージュ」の「首都貫流──隅田川アルバム」(『犯罪化学』1931年12月号)で「監督・編集」を担当するなど、「芸術写真」から「新興写真」へと大きなうねりを見せていた当時の写真界においても、重要な役割を果たしたのではないかと思う。写真が村山の創作活動全般に、どのような影響を及ぼしたのかについては、今後きちんと検証していくべきテーマのひとつだと思う。日本の近代写真史にも、この異才の活動を組み込んでいくべきだろう。
2012/08/17(金)(飯沢耕太郎)


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