artscapeレビュー

すべての僕が沸騰する 村山知義の宇宙

2012年09月15日号

会期:2012/07/14~2012/09/02

世田谷美術館[東京都]

2012年2月から神奈川県立近代美術館 葉山、京都国立近代美術館、高松市美術館、世田谷美術館と巡回してきた「村山知義の宇宙」展は、期待に違わぬ面白さだった。画家、イラストレーター、舞踏家、建築家、演出家、小説家など、さまざまなジャンルを横断し、常に挑発的な作品を発表し続けた村山の全体像を、おそらく初めて概観できるこの展示の意味について語るにはいささか役不足なので、ここでは彼と写真とのかかわりについて、いくつかの角度から指摘するに留めたい。
村山が1922年にベルリンに約1年間滞在した時期は、まさに写真という表現メディアが大きくクローズアップされ始めた時期だった。モホイ=ナジがバウハウスに招聘されて、フォトモンタージュやフォトグラムなどを積極的に授業に取り入れ始めるのが1923年、画期的な小型カメラ、ライカA型がエルンスト・ライツ社から発売されるのが1925年である。当然ながら村山もまた、ドイツで写真の表現力を強く意識したに違いない。
だが1923年に帰国し、「マヴォ」の運動を精力的に展開するなかで、「コンストルクチオン」(1925)のようなコラージュ作品の一部に、フォトモンタージュが取り入れられていることを除いては、彼自身が写真作品を発現することはなかった。ただ彼自身のダンス・パフォーマンスが、写真として記録されることで広く知られるようになったのは確かだし、堀野正雄の写真をフィーチャーした「グラフ・モンタージュ」の「首都貫流──隅田川アルバム」(『犯罪化学』1931年12月号)で「監督・編集」を担当するなど、「芸術写真」から「新興写真」へと大きなうねりを見せていた当時の写真界においても、重要な役割を果たしたのではないかと思う。写真が村山の創作活動全般に、どのような影響を及ぼしたのかについては、今後きちんと検証していくべきテーマのひとつだと思う。日本の近代写真史にも、この異才の活動を組み込んでいくべきだろう。

2012/08/17(金)(飯沢耕太郎)

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