artscapeレビュー
VvK Programm 17「フクシマ美術」
2017年01月15日号
会期:2016/12/13~2016/12/25
KUNST ARZT[京都府]
VvK(アーティストキュレーション)の17回目は、KUNST ARZTを主宰する岡本光博がキュレーションした「フクシマ美術」。岡本がこれまで企画した「美術ペニス」(2013)、「モノグラム美術」(2014)、「ディズニー美術」(2015)に続き、自主規制や検閲とアートの問題も内包した、問題提起的なグループ展だ。
出品作品は、「フクシマ」を直接的に主題化したものと、直接的なメッセージ性を超えた射程を持つものとに二分される。前者に属すのが、瓦礫になった被災地の若者と円陣を組んで気合いを上げるChim↑Pom《気合い100連発》と、岡本光博と井上明彦の作品だ。岡本は、放射性汚染土を詰めた黒い袋(フレコンバッグ)に目玉と足を付けてキャラクター化し、「漏れ」を掛け合わせて「モレシャン」と命名。ポップにかわいく変容させて「無害化」することで、逆説的に得体の知れない不気味さを増幅させるとともに、「土地の精霊」を思わせる彼らが打ち棄てられた風景を可視化させる。また、井上は、会津磐梯山や猪苗代湖など福島県の地形を模型化し、汚染土壌の仮置場用の遮水シートでその上を覆った。観客は、靴を脱いでその上を歩くことで、土地の起伏とともに、「何かが隠されている」違和感を足裏への抵抗として感じることになる。
一方、「フクシマ」の直接的な主題化を超えて、「境界線」や、鎮魂と想起の営みについてそれぞれ言及していて秀逸だったのが、やなせあんりと吉田重信。やなせの《線を引く(複雑かつ曖昧な世界と出会うための実践)》は、2015年夏、国会周辺のデモに集った群衆の足元の道路に、「チョークで線を引く」パフォーマンスの記録映像である。問い質す警察官、「こちら側を歩けってこと?」と聞き返す人、「コンタクトレンズを落としたのか」と心配する人。「線を引く」というシンプルな行為が、周囲のさまざまな反応を引き起こし、撹拌しながら、デモという一時的な共同体をいつの間にか二つに分断してしまう。その行為は、擬似的に一体化した群衆の内部に主張や立場などのさまざまな差異が潜在することを露わにするとともに、地震による亀裂という物理的な線、「原発20km圏内」や警察の規制線といった人工的な境界の恣意性、さらに当事者/非当事者の線引き、分断や排除の構造の可視化など、「線(境界線)」が孕む意味の多重性を提示していた。
また、福島県いわき市在住の吉田重信が震災後に取り組む《水葵プロジェクト2016》も紹介された。「水葵」は、湿地の干拓によって姿を消した準絶滅危惧種だが、津波の被害を受けた海岸沿いの水田跡などに自然に群生している姿が発見された。地表がえぐられ、古い地層に眠っていた種子が自然に発芽・開花したものだという。吉田は水葵の花の写真の展示とともに、採取した種子を鉛でくるんで配布し、共に育てていく協力者を募る取り組みを行なった。毎年夏に青紫の花を咲かせる水葵は、一年草のため、種を採取して再び撒かなければ次の年に引き継げない。花の開花と種の採取という、一年毎に繰り返すサイクルや回帰性は、鎮魂の営みであると同時に、想起の営みや記憶の継承それ自体の謂いとしても象徴的だ。元の場所から人の手によって運ばれ、故郷の喪失と移動を繰り返しながら受け継がれていくこと。種の遺伝情報を受け継ぎながらも発芽・開花の度に異なる形態的現われを持つこと。それは、想起の営みが、場所・時間の断絶によって駆動すること、過去の完全な復元ではなく変容を孕むことを、自然の無慈悲なまでの残酷な美しさとともに象徴的に示していた。
2016/12/17(土)(高嶋慈)