artscapeレビュー

美術に関するレビュー/プレビュー

六本木クロッシング 2010展:芸術は可能か?

会期:2010/03/20~2010/07/04

森美術館[東京都]

3回目を迎えた「六本木クロッシング」。今回は木ノ下智恵子、窪田研二、近藤健一によって選び出された20組のアーティストが参加した。ゼロ年代の現代アートを率先して牽引したスーパーフラットからマイクロポップへといたるサブカル平面路線が周到に排除されていたように、どうやらそれらとは別の系譜を打ち出すことが狙われているようだった。そのための歴史的な起源として動員されたのが、ダムタイプ。展示のトリに《S/N》が上映されていたように、80年代におけるダムタイプを起点として、森村泰昌、高嶺格、ログスギャラリー、宇治野宗輝、照屋勇賢、Chim↑Pomなどにいたるラインを歴史化しようとする意図が明らかである。その野心的な試みは理解できなくはないし、スーパーフラットとマイクロポップを相対化するうえで必要不可欠な作業であることはまちがいないが、その一方で全体的に展示の志向性が過去へと遡行していくことに終始しており、現在の生々しいリアリティや未来のヴィジョンが薄弱になっていたようにも思われた。やんちゃなストリート系を前フリとしてシリアスで思慮深い現代アートを持ってくる展示構成や、そのなかで見せられた作品も新作より旧作が大半を占めていたことが、そうした後ろ向きの印象によりいっそう拍車をかけていたのかもしれない(「また、これ?」と何度呟いたことか!)。そうしたなか、あくまでも前向きの姿勢を貫いていたのが、八幡亜樹と加藤翼。前者は山奥にハンドメイドで建てた「ミチコ教会」を舞台としたドキュメンタリーとも創作ドラマともつかない寓話的な映像作品を、後者は大人数で巨大な木製の構造物を引き倒しては引き起こすプロジェクトの映像作品を、それぞれ映像インスタレーションとして発表した。八幡の映像作品が虚構と実在のあいだをひそやかに切り開いているとすれば、加藤による集団的な力作業もまた起こしているのか倒しているのか曖昧なようにも見える。とらえどころのない空気感と、それを全身で実感しようとあがく運動性。アプローチこそ異なるにせよ、双方はともにキュレイトリアルな文脈からあふれ出るほどの魅力を放っている。

2010/03/19(金)(福住廉)

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北野謙「溶游する都市」

会期:2010/03/05~2010/03/21

UP FIELD GALLERY[東京都]

北野謙はパリ・フォトなどのイベントにも積極的に参加して、国際的に注目を集めはじめている写真家。代表作はさまざまな地域や職業の人たちの姿を一枚の印画紙に重ね合わせてプリントした「our face」のシリーズだが、実はそれ以前の1989~97年に本作「溶游する都市」を制作していた。今回はそれをまとめた大判写真集『溶游する都市/Flow and Fusion』(MEM INC)の刊行にあわせた個展である。
長時間露光によって、街を行き過ぎる群衆や風に揺らぐ樹木などがブレることで、何とも形容しがたい白昼夢のような光景が出現する。手法的には特に目新しいものではないが、場所の選択と画面構成力が優れているので、見る者を引き込む魅力を備えた作品に仕上がっている。2009年のパリ・フォトでは、オリジナル・プリント付きの特装版を含めてこの写真集が60冊売れたそうだ。202ドル(日本での販売価格は1万8900円)という値段を考えると、いかに彼の写真が玄人受けするいぶし銀のようなテイストを備えているかがわかるだろう。北野のようにオリジナル・プリントと質の高い写真集で勝負する写真家がもっと増えてくるといいと思う。

2010/03/18(木)(飯沢耕太郎)

アーティスト・ファイル 2010──現代の作家たち

会期:2010/03/03~2010/05/05

国立新美術館[東京都]

国立新美術館が企画するアニュアル形式のグループ展。3回目となる今回は、アーノウト・ミック、南野馨、OJUN、齋藤ちさと、福田尚代、石田尚志、桑久保徹の7人がそれぞれの空間でそれぞれの作品を発表した。近年の活躍が目覚しいOJUNは、例の単純明快なモチーフを描いた絵を重厚なフレームで枠づけ、それらを壁面に組み立て上げた圧巻のインスタレーションを見せていたが、絵の形式との著しい対比が、身体をフッと軽くするOJUNの絵の内容をよりいっそう際立たせていたようだ。回文で知られる福田尚代による作品は、うらわ美術館の「オブジェの方へ」展ではあまり前景化していなかった「読む」次元が、ここでは大いに強調されていて、読めば読むほど、じつにおもしろい。とくに文庫本のなかから任意の一文だけを見せて、まったく別々の文庫本を同じように並べて、あたかもひとつの物語であるかのように読ませる作品は、「本を読む」経験の楽しさを十分に発揮していた。石田尚志の映像インスタレーションは、絵具が流れていくアニメーションの運動性はたしかに美しいものの、仰々しい音楽が映像とまったく調和していないため、みずから魅力を半減させてしまっていたのが惜しい。こうしたなか、ひときわ際立っていたのが、桑久保徹の絵画作品。海岸を舞台にした夢幻的な光景を描いた絵は、単純な構図であるにもかかわらず、いやだからこそというべきか、数々の色彩が絶妙に調和しており、説明的に明示されているわけではない物語に想像力を効果的に介入させることに成功していた。画面のほぼ中央に水平上に引かれた波打ち際は、彼岸と此岸の境界線のように見えたが、夢のような光景が繰り広げられている砂浜を見ていると、迷いと悩みであふれかえったこの世ではあるけれども、まだまだこちら側でもやっていけるのではないかというささやかな勇気を与えられる。

2010/03/18(木)(福住廉)

VOCA展 2010

会期:2010/03/14~2010/03/30

上野の森美術館[東京都]

毎春好例のVOCA展。ここ数年来の大きな特徴だった、痛々しい内面を少女マンガ的なモチーフによって具象的に描き出す傾向がある程度落ち着き、新たな方向性を求めて試行錯誤するかのように、じつにさまざまな絵画表現が発表されていて、おもしろい。選考委員のひとりである高階秀爾は、毎年図録で発表される選考所感のなかで、出品作品の多様性を褒め称える言葉をほぼ毎年必ず述べているが、批評に課せられている役割はそうした多様性を無邪気に礼賛することではなく、もう一歩踏み込んで、多様性のなかに隠されている優劣を炙り出していくことにあることはいうまでもない。たとえば、近年の活躍が目覚しい風間サチコは謎の巨人と対峙する女子防空隊の戦いぶりを描いた版画作品《大日本防空戦士・2670》を発表したが、かつての旧陸軍第三歩兵連隊兵舎と現在の国立新美術館を融合させて描くなど細部の工夫がおもしろいものの、全体としてのスケール感に乏しく、もう少し大きな画面で迫力と凄味を効かせることができたらと悔やまれてならない。さらに同じく注目を集めている斎藤芽生も、湿気を帯びた言葉を絵に添えるという手法が従来の近代絵画から大きく逸脱しているからこそおもしろかったにもかかわらず、今回展示された作品にはそうした言葉がほとんど見受けられず、いわば「椎名林檎的な世界観」が影をひそめてしまっていたのが残念である。そうしたなか、得体の知れない怪しい魅力を放っていたのが、伊藤彩。作品名に見られる言葉のセンスが光っているうえ、その絵もまるで見たことのない、不可解な世界がなんの迷いもなく描き出されているように見える。絵の展示の仕方もすばらしく、今後の動向がもっとも気になるアーティストである。

2010/03/18(木)(福住廉)

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森村泰昌「なにものかへのレクイエム─戦場の頂上の芸術」

会期:2010/03/11~2010/05/09

東京都写真美術館2階展示室・3階展示室[東京都]

おそらく今年の写真・映像の展覧会でもっとも話題を呼ぶものになるのではないか。東京都写真美術館の2階、3階の展示室、さらに2階カフェの壁まで全部使った、渾身の森村泰昌劇場である。
森村はこれまで美術史のなかの登場人物、女優やポップスターなどに「成りきる」パフォーマンスを展開してきたのだが、2006年の個展「烈火の季節/なにものかへのレクイエム・その壱」(ShugoArts)での三島由紀夫を皮切りに、20世紀を代表する男たちを変身の対象に選ぶようになった。なぜ20世紀なのか、またなぜ女性ではなく男性なのかということについては、彼なりの理屈づけはあるだろう。だが、それをとりたてて問いただす必要もなさそうだ。以前にも増してやりがいのあるテーマに対して、アーティスト魂が燃え上がったということでいいのではないだろうか。
実際、第一章「烈火の季節」(三島由紀夫、浅沼委員長暗殺)、第二章「荒ぶる神々の黄昏」(レーニン、ヒトラー、ゲバラ、毛沢東など)、第三章「想像の劇場」(ピカソ、デュシャン、ダリ、クライン、手塚治虫など)、第四章「1945・戦場の頂上の旗」(天皇とマッカーサー、タイムズスクエアの戦勝パレード、硫黄島、ガンジーなど)という流れの展示を見ると、その何者かに「成りきる」という行為への凄まじい精神と肉体の傾注ぶりに圧倒され、呆然としてしまう。何かに取り憑かれたようなエネルギーの集中と爆発は、もはや神業の域にまで達しているといってよい。
だが、その怒号と叫びが耳に残るパフォーマンスをシャワーのように浴びて、ぐったりと疲れて帰途についた時、どこか釈然としないものが残る気がした。たしかに、いまこの不透明で閉塞感に沈み込む21世紀にあって、くっきりとした輪郭と、凛とした存在感を保つ20世紀の「男」たちを希求する思いは伝わってくる。しかも彼らは単なるマッチョな権力主義者というだけではなく、硫黄島に兵士たちが白旗を立てる新作の映像作品「海の幸・戦場の頂上の旗」が示すように、むしろ暴力的な世界の中で脆さや弱さを隠そうとしない、名もなき無名の庶民たちの代表でもある。その意図の真っ当さは認めざるをえないのだが、以前の森村の作品にあった、どこに連れていかれるのかわからないようなワクワク感があまり感じられなかったのだ。
パフォーマンスがあまりにも完璧過ぎ、これまた以前の森村の作品の中にあふれていた賑やかなノイズが、やや削ぎ落とされているように感じるためなのかもしれない(むろん細部に遊びは仕組まれているが)。「永遠の芸術万歳」「私は独裁者にはなりたくありません」「人間は悲しいくらいにむなしい」といったメッセージが、ストレートに突き刺ささり、思考の水路がとても狭く閉じてしまう。森村自身『美術手帖』(2010年3月号)に「ようやく『20世紀の日本の私』という、どうにも動かせない自分の原点に触れることができた」と書いているのだが、この「動かせない」というのは諸刃の剣ではないだろうか。よもや「20世紀」や「日本」や「私」の絶対化につながることはないとは思うが、もしかするとそんなふうに思う人も出てくるのではと案じてしまうほどの憑依力の強さなのだ。次の作品で、「あれはあれで」とアカンベーをしてくれるくらいだといいのだが。

2010/03/17(水)(飯沢耕太郎)

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