artscapeレビュー
VIDEOs - Critical Dreams -
2015年10月15日号
会期:2015/08/22~2015/09/20
ヴィデオというメディウムの物質性に遡行的に焦点を当てたグループ展。記録や物語の伝達手段と見なされたヴィデオの使用においては、媒体の物質性が透明化され忘却されているという事実を喚起し、ヴィデオという電子機器を通して「見る」とはどういう経験なのかを改めて問う。
河合政之の《Video Feedback Configuration》シリーズでは、20~30年前に製造された中古のアナログヴィデオ機材が複数のケーブルで接続され、中央のモニターにサイケデリックで抽象的なパターンが生成されている。このシリーズで用いられている「ヴィデオ・フィードバック」とは、アナログなヴィデオ機材を用いて閉回路システムをつくり、出力された電子信号をもう一度入力へと入れ直し、回路内を信号が循環・暴走する状況を作り出す手法のこと。予め用意された映像を一切使わずに、無限に循環するノイズが偶然に生み出すパターンが、多様な形や色の戯れる画面を自己生成的に生み出していく。ただし、コンピューターを含むデジタル的システムでは、こうした電子信号の増幅や暴走はノイズと判断されるため、アナログヴィデオでのみ可能となる。河合の作品では、絡み合うコードに繋がれた機材が、人工物でありながら、血管や神経で接続された臓器のようにも見え、目に見えない信号やノイズの可視化や祭壇のような設えと相まって、呪物的な様相を呈していた。
一方、西山修平の《白の上の白の/white on white on》は、ヴィデオの知覚経験において通常は一体化している映像と音声を切り離し、さらに映像は三原色の光の点滅や矩形の光の明暗の強弱へと還元される。最小限の要素への還元でありつつも、まばたきや心臓の鼓動のようなリズムを感じさせ、河合の作品とともに、ヴィデオという媒体の物質性への探究から、「有機的性質をまとった人工物」という両義的な相貌を引き出している。
また、瀧健太郎と韓成南は、ともに家電という身の回りの電気機器と映像を組み合わせることで、現代社会における映像の受容について批判的に問うている。瀧の《流砂‐ビルト:ミュル#9》では、白く塗った家電ゴミを寄せ集めてつくった奇怪な塊に、さまざまなイメージの断片が脈絡なく投影される。それらは、ネットという広大な海を漂流する夥しい量の画像から切り取られたものであり、現実社会での「ゴミ」の上に重ねて投影され、ゴミの集積はイメージという皮膜をまとうことで、「その正体を隠す」醜悪にして幻惑的なモンスターが出現する。
一方、韓成南の《I vs/de O》は、テレビ、冷蔵庫、掃除ロボット(ルンバ)という3種類の家電に、私的な日記の文章のプロジェクションや監視カメラの映像を組み合わせることで、主体と客体(の転倒)、プライベートと監視、女性に期待されるジェンダー的役割への批評など、様々な問題を提起する作品である。冷蔵庫に収められたプロジェクターからは、母になる直前の日々と、母になった日を綴った作家自身の日記の文章が投影される。その上に、ギャラリーの外の風景や鑑賞者自身がリアルタイムで映った映像が重ねられ、複数の「監視カメラ」の存在を匂わせる。テレビには、赤ん坊の映像とともに、ルンバに仕込まれたカメラが「盗撮」した映像が時折挿入される。家電が象徴するプライベートな生活空間と、その中に張り巡らされた監視のシステム。そこでは、「見る」主体である鑑賞者は、絶えず「見られる」客体へと転倒され、一方的に眼差すという特権性を持ち続けることができない。さらに、これらの家電が掃除や料理といった家事を担うものであることから、女性の主体性への批評も含まれていると言えよう。ここで本作のタイトル《I vs/de O》を振り返るならば、「VIDEOs」のアナグラムであると同時に、大文字の「I」と「O」は、「I(私)」と「Object」の頭文字を指し、見る主体と見られる対象、主体(母になった私)から切り離された客体(赤ん坊)といった複数の意味づけを与えられ、さらに両者の対立と転倒、融合や分離といった可変的な状況を示していることが分かる。本作を読み解く複数のキーワードが込められた秀逸なタイトルだ。
2015/09/05(土)(高嶋慈)