artscapeレビュー
美術に関するレビュー/プレビュー
梁丞佑「B side」
会期:2022/05/06~2022/05/29
コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]
韓国出身の梁丞佑(ヤン・スンウー)は、第36回土門拳賞を受賞した『新宿迷子』(禪フォトギャラリー、2016)に代表されるような、被写体に肉薄した社会的ドキュメンタリーで知られている。だが、今回の展示にそのような写真を期待する観客は、やや肩透かしを食ったように感じるのではないだろうか。梁自身が展覧会に寄せたテキストに書いているように、「アンダーグラウンドな人や場所を撮った写真」を「A面」とするならば、今回は「B面」、つまり「撮りたいものを撮りたい時に撮ったものを、まとめた写真達」の展示ということになる。
だが、その「B面」の写真がとてもいい。梁のなかにあった思いがけない側面が輝き出しているというべきか、写真家としての彼のあり方をもう一度考え直したくなる写真群が並んでいた。「撮りたい時に撮った」写真だから、被写体の幅はかなり広い。北関東で仕事をしていた時期に撮影した写真が多く、そのあたりの、やや索漠とした空気感が滲み出ているものもある。だが、東京や九州の写真もあり、必ずしも風土性にこだわっているわけではない。むしろ強く感じられるのは「心がザワザワする」ものに鋭敏に反応する梁の感性の動きの方だ。
奇妙なもの、怖いもの、それでいて思わず笑ってしまうようなもの――とはいえ、それらをわざわざ探し求めて撮影しているというよりは、むしろ相手が発する気配をそのまま受け止め、定着したような写真が多い。須田一政の仕事に通じるものもあるが、梁の方がよりざっくりとしたおおらかさ、視野の広さを感じる。たしかに「B面」には違いないのだが、むしろ梁の写真家としての本来的な姿は、こちらに強く表われているようにも思えてきた。面白い鉱脈を掘り当てたのではないだろうか。
関連レビュー
梁丞佑「新宿迷子」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年03月15日号)
2022/05/06(金)(飯沢耕太郎)
森村泰昌:ワタシの迷宮劇場
会期:2022/03/12~2022/06/05
京都市京セラ美術館 新館 東山キューブ[京都府]
京都では24年ぶりとなる森村泰昌の大規模な個展。ただし、展示されるのは、撮影現場でのテストや「ひとり遊び」としてポラロイド写真で撮られた、ほぼ未発表のセルフポートレイト823枚。森村は、2016年のデジタルカメラ導入以前はフィルムで撮影していたため、現場での確認や調整のためにポラロイド写真を用いていた。「完成作品」に至るまでのさまざまなプロセス──ときに「引用画像」を胸に貼り付けてのポーズや表情の確認、衣装や小道具、ライティングの調整、腕や上半身に及ぶメイクのテストなど──が提示される。そこには、背景スクリーンの後ろにのぞく舞台裏、撮影機材、アシスタントの手、メイク・衣装・カツラを着ける前の森村の素顔や身体、そして私秘的な欲望など、「作品から排除されるもの」がきわめて生々しく写りこんでいる。その「メイキング過程」は同時に、森村が1985年以来歩んできた作家活動の、もうひとつの記録でもある。また、ポラロイド写真はフィルムと異なり複製不可能であり、「一回性」が刻印されている。「作品未満」である存在が「唯一性を持つ」という逆説。普段は表に出ない作家活動の履歴、排除された「作品未満」の集積という意味で、いわば「回顧展のネガ」だ。
展示会場には5つの入り口が用意され、決まった順路はなく、劇場の幕のようにドレープを描いて垂れ下がる重厚な布が、迷路のように配置される。その布の壁の前に浮かぶように展示された写真群は、「作品」と「資料」のあいだの宙吊り状態を暗示する。あるいは、布の壁は、「作品」の上演を待つ、開演前の舞台に降ろされた幕でもある。だが、その「幕」の向こう側をスリットからのぞくと、使用された衣装と靴、愛読書が並ぶ舞台裏のような空間(《衣装の隠れ家》)が広がっており、仮面を剥いでもその下に別の仮面が現われるようで、見る者を煙に巻く。迷路、見世物小屋、劇場のハイブリッド。また、写真群の配置にはシリーズごとのゆるやかなまとまりはあるものの、年代順や順路といった秩序の放棄は、アーカイブという迷宮を空間的に実装する。
本展では、90年代の「女優シリーズ」に関連した写真が(インパクトの面でも)目につく。森村は、全裸のマリリン・モンローや緊縛シーンではあえて「つくりものの胸」を強調し、風ではためくマリリンのスカートの下に「勃起した偽のペニス」を装着するなど、「女性ではない身体」「男性の身体であること」を戦略的に露呈させていた。そこには、ヘテロセクシュアル男性の性的欲望に応えてつくられた女性像を、男性の身体で演じ直すことで、男性の性的消費の視線を無効化させ、返す刀で潜在的なトランスフォビアをあぶり出す批評性がある。さらに、「裸身や素顔のまま、女性の衣装やカツラをまとう」という「変身途中」のポラロイド写真の数々は、ジェンダーが「記号と演じられるもの」であることを示すと同時に、そうした批評の力を「作品」以上に有してもいる。
ここで、本展を別の角度から見るならば、「ポラロイド写真で撮影したセルフポートレイトの膨大な集積が作家自身の人生という時間の厚みを示す」例として、今井祝雄の「デイリーポートレイト」が想起される。今井が1979年5月30日からライフワークとして継続している「デイリーポートレイト」は、「前日に撮影した写真を手に持ち、1日1枚撮影する」というシンプルな行為の蓄積だ。だが、「手に持った前日の写真」には入れ子状に「その前の日に撮った写真」が写りこむため、(目視できなくとも)「撮影開始日から流れた時間」が1枚=1日ごとに加算されていくことになる。写真を列柱状に積み上げた展示では、「時間の層」が物理的に可視化されるとともに、列を追うごとに、次第に年齢を刻んでいく今井の顔の漸進的な変化がうかがえる。本展もまた、「複製不可能な一回性の蓄積により、作家の人生に流れた時間が『作品』を形成し、あるいは『作品』に飲み込まれ、不可分のものとなる」事態を指し示して圧巻だった。
関連記事
art trip vol.3 in number, new world/四海の数|高嶋慈:artscapeレビュー(2020年02月15日号)
2022/05/06(金)(高嶋慈)
布の翼
会期:2022/04/15~2022/05/08
染・清流館[京都府]
染色作品を中心に展示する「染・清流館」では珍しい、社会性の強い現代美術作品のグループ展。「布と染色」という切り口から、沖縄・在日・日本国憲法第九条といった戦後日本社会の構造を問う好企画だ。展覧会タイトル「布の翼」には、空爆にも使われる「金属の翼」と対比させ、作家の創造力やメッセージをのせて運ぶ媒体という意味が込められている。
沖縄出身の照屋勇賢の代表作のひとつ《結い、You-I》(2002)は、紅型で鮮やかに染められた振袖だが、文様には花や鳥、ジュゴンに加え、戦闘機、落下傘で降下する兵士、オスプレイが混じり、伝統工芸と米軍基地が同居する。アメリカによる琉球文化の侵食、あるいはそれすらも飲み込んで融合しようとするしたたかさの表現ともとれるが、紅型がアジア太平洋戦争で壊滅的な打撃を受け、戦後は米軍兵士向けの商品をつくりながら復興を遂げたことを考えると、照屋の作品は「伝統文化と基地の共存」といった表層的な見方にとどまらず、紅型が辿った苦難の歴史を包含するものだと言える。また、日清戦争以降の戦前の日本では、日の丸や軍艦、戦闘機などの図案を配置した「戦争柄の着物」が流行したことを思い起こせば、「基地柄の着物」として「戦後の沖縄」に反転させた照屋の作品は、沖縄においてはまだ「戦争」が終わっていないこと、そして身に付ける人の意思表示を伝える装置としての「衣服」を示唆する。
「誰がその紅型を身にまとうのか」という照屋の問いかけと呼応するように、見る者の立ち位置を問うのが、染色の技法で絵画を制作する河田孝郎の《那覇1999》(2000)である。抽象化された家屋の壁を思わせる矩形に、「基地のフェンス越しにこちらを見つめる子ども」の像が染められ、その背後には、沖縄の家屋に使用される赤瓦の屋根がわずかに見える。フェンスで民家と区切られた「こちら側」すなわち「基地の中」に鑑賞者を強制的に転移させる仕掛けは、私たち観客こそ沖縄に一方的に基地を押し付けている共犯者であることを突きつける。
そして、戦争放棄をうたう日本国憲法第九条の条文を、日米の権力関係や視点のズレから問い直すのが、柳幸典のインスタレーションである。《The Forbidden Box》(1995)では、開くことを禁じられた玉手箱(あるいはパンドラの箱)を思わせる鉛の箱から飛び出した布に、原爆のキノコ雲がプリントされ、第九条の条文、その英訳、元になったマッカーサー草案の英文が裏表に重ねられ、日米の視点のズレとともに「読まれにくさ」を可視化する。床に置かれた《Article 9 2016》(2016)では、散らばった電光掲示板に第九条の条文が流れ、バラバラに分節化されて静止したのち、文字が一斉に消えて沈黙する。解体と機能不全のなかに、「公共に向けたメッセージ」として修復を待つ希求がわずかにのぞく。
一方、本展のなかで唯一、個人的な視点から問うのが、染織作家の呉夏枝(お・はぢ)の初期作品である。《三つの時間》(2004)では、祖母の出身地の済州島で、祖母・母・自身のチマチョゴリを着て撮影した写真が、祖母の遺品の麻布に転写される。白、赤、ピンクのチマチョゴリを着て一本の道に立つ呉は、奥へ遠ざかり、振り返り、正面を向き、再び手前へ近づく。祖母と母の記憶である衣服をまとい、「この道に祖母が立っていたかもしれない」と想像しながら記憶を演じなおす呉。その再演の舞台である「道」は、個々の人生の歩み、母から娘への血縁の連なり、民族が強いられた移住と、多義的なメタファーに満ちている。また、祖母の白いチマチョゴリに染めと刺繍を施した《三つの花》(2004)は、あえて皮膚に触れる内側に染めを施すことで、「これをまとった祖母の記憶に触れたい」という切実な思いが美しく昇華されている。そして、「身にまとう人への想像」を介してそれは、「布と染めに託された周縁化された声」として、再び、冒頭の照屋の紅型と出会い直すのだ。
関連レビュー
照屋勇賢《結い, You-I》──多次元の美の問いかけ「翁長直樹」|影山幸一:アート・アーカイブ探求(2018年03月15日号)
呉夏枝「-仮想の島- grandmother island 第1章」|高嶋慈:artscapeレビュー(2017年04月15日号)
2022/05/06(金)(高嶋慈)
惑星ザムザ
会期:2022/05/01~2022/05/08、2022/05/14,15
小高製本工業株式会社 跡地[東京都]
布施琳太郎がキュレーターを務め、17組のアーティストが参加する展覧会。なにより目を引くのは会場となった古いビル。製本工場だった6階建ての建物全体を使っているのだが、入り口はひとつなのに内部は大きく2つに分かれている。もともとL字型の敷地に建てられたのか、それとも斜向かいの土地に建て増したのか知らないが、この特徴的な空間をうまく活かした展示になっている。建物は坂の途中にあるため3階の入り口から入り、6階まで作品を見ながら階段を上っていき、別の階段で降りて2階、1階を見て裏口から出るという順路。ぼくが訪れたのは夜で、しかも映像作品が多いため室内は暗く、まるで迷宮巡りをしているような楽しさがあり、つい2往復してしまった。
ザムザとはいうまでもなく、カフカの小説『変身』の主人公の名前。布施のステートメントによれば、「『惑星ザムザ』はテキスト以前の物質から思考を開始する。それは芸術作品の制作の根拠を、書物的な理性ではなく、インクや愛液、紙、明滅、線、面、電気信号、塩基配列、振動、空気といったマテリアルに求めることだ。これら物質が、安定したテキストやコンテキストに到達することなく、身勝手な生命活動を開始した状況を観測することこそ『惑星ザムザ』の目的である」。いくつかの作品を見た順にピックアップしてみよう。
名もなき実昌の《いつかはきえる(記号が並ぶので省略)》は、床に砂で絵を描いて、ところどころにバナナの皮を置いたインスタレーション。見るものはその上を歩けるので、絵は会期中どんどん崩れ、変化し、消えていく。踏みつける絵というと「踏み絵」があるが、ここに描かれているのは聖像のような侵しがたいイメージではなく、壁紙に使われるような装飾パターンなので、バナナの皮を踏むより抵抗は少ない。田中勘太郎の《上書きの下のミイラ》は、工場に放置されていた印刷機械やダクトなどの廃棄物を重しにした押し花を展示。いたいけな花とそれを押しつぶす暴力的な産業廃棄物の対比は、まるで美女と野獣のようだが、お互い死にかけたものどうしのお見合いともいえる。
横手太紀の《When the cat’s away, the mice will play》は、暗い床にブルーシートに覆われたなにかがうごめく作品。なにかわからないがずっとうごめいているのだ。見逃しそうになるが、その横の暗い洗面所には《Building Flies》という作品もある。鏡に「この部屋には大量の■■■が住みついている あなたのスマートフォンにも彼らが写り込んでいるかもしれない」といった手書きの文字が、スマホの光で浮かび上がる(そのスマホにはなにかが写っている)。これはおもしろい。MESの《Stellar’s End/恒星の終り》は、宙吊りにした球体にレーザー光を当て、さまざまな記号や形態を描き出していく作品。タイトルは「恒星の終わり」だが、ゆっくり回転する宙吊りの球体は地球を連想させずにはおかない。例えば1点に当てられた光が徐々に円環状に広がり、球全体を覆っていく様子は、まるで巨大隕石が地球に衝突して衝撃波が広がるさまを想像させる。また、光はすぐに消えず、ゆっくり回転しながら残像を広げていくので、地球環境が徐々に蝕まれていくプロセスを見せつけられるようだ。どれもこの古いビルの特性を活かしたサイトスペシフィックな展示で、この社会に対する違和感や地球に対する危機感が表われている。
2022/05/04(水)(村田真)
竹久直樹「スーサイドシート」
会期:2022/04/29~2022/05/22
デカメロン[東京都]
アーティ・ヴィアカントの《イメージ・オブジェクト》は、物理展示よりウェブサイトに掲載された作品写真の価値を高めるという転倒を起こした作品であり、ほとんどの人は記録写真しか目にすることがないなら、記録写真を作品にする方がいいという2010年代前半のイメージ論でもある。このとき、記録写真にとどまらないイメージはもうひとつのオブジェクトとして鑑賞者に提示されるのである。
展覧会「スーサイドシート」は、運転ができない作者の竹久直樹がロケでいつも車の助手席に乗るところに由来する。事故で真っ先に死ぬ席に乗るにつけてマクドナルドに寄り、帰ってはマクドナルドに寄ることが写真で、モニターではスマートフォンで写真のログを見直す様子の録画が流れる。モニターには、積み込み報告の写真、行き先のGoogleマップ、メモ用の写真。さまざまな用途の写真が流れる。たまにピンチインされる写真は、映り込んだものに対する撮影者の驚きや記憶を手繰り寄せたい様子を示す。マウスと同じサイズのミニカーは、ミニカーであると同時に「アエラスプレミアムらしきもの」であるがゆえに、あなたの背後にあるアエラスプレミアムのフロントの写真のようなものでもある。写真は死と指標性と偶発性によって語られてきたわけだが、車も竹久を死に近づける。その車の写真も実物も竹久にはいま同じに見えているのかもしれない。自作の前提となることを展示するにつけて、車を見ていたら写真は見えないし、写真をじっと見ていたらモニターも車も見えないインストール。それぞれは視界で交わることがないが、等質のものとして設置される。
《イメージ・オブジェクト》がオブジェクトよりもイメージにアウラを見出しうる時代の宣言だったなら、竹久はイメージもオブジェクトもシミュラークルも等価だ、あるいはすべては事故が起こる写真なのだと発したといえるだろう。もっと被写体と事故が選定された時代を語り得るものも今後見たい。写真の実在論としてのメメントモリ、indexの指示性と指標性、プンクトゥムとストゥディウムの往還、使用における身振り。これらとイメージ・オブジェクトを物差しにすることで、現在的な個人の写真のリアリティをさらりと示した展覧会で、面白かったです。
デカメロン/TOH「新宿流転芸術祭」:https://www.shinjukurutengeijutsusai.com/
2022/05/04(水・祝)(きりとりめでる)