artscapeレビュー

書籍・Webサイトに関するレビュー/プレビュー

難波和彦『建築の四層構造』

発行所:INAX出版

発行日:2009年3月1日

サステイナブル・デザインをめぐる論考。ヴィジュアルなテクノロジー志向ではない。全編にロジカルな思考の手続きを貫く。とくに物理性、エネルギー性、機能性、記号性という建築の四層構造論は、著者にとっての重要な分析装置であると同時に、サステナブル・デザインを導くための理論的枠組になっている。最終章は、アルミエコハウスや箱の家シリーズなど、実践的な事例を紹介する。未来への技術的な提案に富む、実建築論。

詳細:http://www.inax.co.jp/publish/book/detail/d_154.html

2009/06/30(火)(五十嵐太郎)

隈研吾『自然な建築』

発行所:岩波書店

発行日:2008年11月20日

20世紀の建築は、コンクリートという均一な技術によって世界を覆いつくした。それは場所に関係なく、自由な造形を可能にする魔法の材料である。しかし、こうした普遍性は、世界の同一化を推進し、建築の多様性を失う。またコンクリートは、どう見えるかという外観を重視し、モノの存在のあり方を軽視する。が、人間にとっての豊かさを回復するには、生産や構法のレベルから「自然な建築」を再考すべきだ。本書は、隈の手がけた作品を通し、地域の自然素材をいかした、現代的なデザインを提示している。

詳細:http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0811/sin_k443.html

2009/06/30(火)(五十嵐太郎)

井上章一『伊勢神宮 魅惑の日本建築』

発行所:講談社

発行日:2009年5月14日

しばらく文化史的な仕事が続いていたが、久しぶりに井上章一による本格的な日本建築論が登場した。かつて桂離宮や法隆寺でも試みたように、本書でも文献にもとづく実証主義により、伊勢神宮をめぐる言説の変遷や分析を行ない、精神史を追跡していく。
興味深いのは、神秘的ではない、合理主義的な解釈がすでに江戸時代から始まっていたという指摘である。その近代精神は、同時に伊勢神宮からさかのぼる始源の小屋という新しい幻想をもたらすが、18世紀のヨーロッパの建築界でもウィトルウィウス批判を通じて同じ現象が起きていた。また井上は、1900年に伊東忠太が初めて骨格をつくったとされる神社建築史も、江戸時代に用意された知の枠組にのっていたとみなす。
一方で伊勢神宮を芸術として評価する近代的なまなざしは、明治を迎え、西洋との交流から獲得したという。他にも、伊勢神宮は日本特有か、アジアの影響があるのか、あるいは対照的な考えをもつ東大と京大の建築史家など、興味深いトピックが続く。ラストは、最近の考古学批判にも及ぶ。彼の個性でもある意地悪な語り口は気になるが、建築界における最高級の知性を感じる。

詳細:http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2154927

2009/06/30(火)(五十嵐太郎)

北島敬三『JOY OF PORTRAITS』

発行所:Rat Hole Gallery

発行日:2009年5月

Rat Hole Galleryから北島敬三「PORTRAITS」展に合わせて刊行された分厚い写真集が届いた。「PORTRAITS 1992-」の巻と、「KOZA 1975-1980」「TOKYO 1979」「NEW YORK 1981-82」「EASTERN EUROPE 1983-84」「BERLIN, NEW YOYK, SEOUL, BEIJING 1986-1990」「U.S.S.R. 1991」というスナップショットを集成した巻の二部構成、700ページを超えるという大著であり、これまでRat Hole Galleryから出版された写真集のなかでも、最も意欲的な出版物の一つといえるだろう。ずっしりとした重みとハードコアな内容は、これだけの本をよく出したとしかいいようがない。
とはいえ、特に「PORTRAITS」のシリーズについて、展示を観たときに感じたすっきりしない思いが晴れたかといえば、どうもそうではない。倉石信乃による懇切丁寧な解説を読んでも、なぜ北島があらゆる意味付けを拒否するような「『顔貌』それ自体の出現・露呈」にこだわらなければならないのか、まったく理解できないのだ。
倉石が詳しく跡づけているように、白バック、白シャツ、正面向き、というような厳しい条件を定め、なおかつあまり特徴のない「壮年」の人物(老人、子ども、外国人、極端なデブなど特徴のある容貌は注意深く排除される)を選別することによって、見る者の想像力は北島が設定した水路の中に導かれ、それ以外には伸び広がらないように限定される。それはポートレートにまつわりつく「エキゾティシズム」を潔癖に拒否するという志向のあらわれだが、そもそもなぜ「エキゾティシズム」をここまで悪役に仕立てなければならないのか。さらにいえば、それならなぜ「エキゾティシズム」の極端な肥大化というべき彼自身のスナップショットを、わざわざ同じ写真集に別巻としておさめているのか。最近のインタビューで、北島は「『PORTRAITS』と同じような手つきで、スナップショットの写真も扱えるのではないか」(『PHOTOGRAPHICA』Vol.15 2009 SUMMER)と述べているが、その「手つき」とはいったい何なのか。この試みは、倉石が指摘するようにある種の「アーカイブ」の構築なのだが、その「アーカイブ」はいったい誰のためのものなのか。それがモデルのためでも、観客のためでも、ましてや未来の人類のためでもないのはたしかだろう。北島敬三による北島敬三のための「アーカイブ」、それ以上でもそれ以下でもないのではないか。疑問は尽きない。

2009/06/17(水)(飯沢耕太郎)

『震災のためにデザインは何が可能か』

発行所:NTT出版

発行日:2009年6月5日

博報堂の筧裕介氏とstudio-Lの山崎亮氏らが中心となって「震災+designプロジェクト」を組織した。首都圏で震災が起こったという前提のもと、避難所でデザインに何ができるのか、学生が二人一組となってワークショップを行ない、そのデザイン案を競ったものを展示発表した。本書はその成果をまとめたものであり、社会とデザインの関係性についての提言にもなっている。
課題(イシュー)を発見し、それを解決すること。ごく当然のことのように思えるが、ここで注目されているのは単に問題を解くことではない。デザインによって問題を解くことである。既存のものにデザインをプラスし、デザインの力によって課題を解くことによって、単なる問題解決(ソリューション)から一歩前進する。見たいという欲望を喚起させ、共感を生み出す。またここでは震災という課題に対してデザインが適用されているが、デザインという行為を通じて、別の社会的問題の解決にも示唆を与える。
山崎氏はデザインと社会との関係性を問うている。震災は課題の一つであり、きっかけとなっているが、むしろそこからデザインとは何なのかという根源性について思考する。フランスのデザイナー、フィリップ・スタルクが「デザインの仕事に嫌気がさし、2年以内に引退する」と2008年に語ったことを引き合いに出しつつ、商業的なデザインと社会的なデザインを橋渡しする可能性に触れている。スタルクは商業主義的なデザインの限界を認識したのかもしれない。しかし、社会的なデザインはその限界を超える可能性もある。本書の大きな目的は、そうしてデザインと社会を架構していくことにあるのだろう。山崎氏らは、この後さらに別の課題に触れながら、デザインの力を試そうとしているようで、今後の展開が注目される。

2009/06/15(月)(松田達)