artscapeレビュー
書籍・Webサイトに関するレビュー/プレビュー
カタログ&ブックス | 2021年7月1日号[テーマ:猫]
テーマに沿って、アートやデザインにまつわる書籍の購買冊数ランキングをartscape編集部が紹介します。今回のテーマは、東京国立近代美術館で開催中の「隈研吾展 新しい公共性をつくるためのネコの5原則」にちなんで「猫」。「芸術・アート」ジャンルのなかでこのキーワードに関連する、書籍の購買冊数ランキングトップ10をお楽しみください。
「猫」関連書籍 購買冊数トップ10
1位:名画に学ぶにっぽん筆ペンイラスト(NHKテキスト 趣味どきっ!)
鳥獣戯画、歌川国芳の猫、尾形光琳の紅白梅図屛風……。名画のタッチを筆ペンで再現し、イラストに仕上げる方法を解説する。なぞり描きお手本付き。NHK Eテレ「趣味どきっ!」2021年2・3月のテキスト。
2位:『花束みたいな恋をした』オフィシャルフォトブック
ふたりの部屋、駅からの帰り道、猫に名前をつけた日。もう巻き戻せない恋……。終電後に恋に落ちたふたりの忘れられない5年間を描いた2021年1月公開映画の写真集。場面写真や菅田将暉、有村架純のオフショットが満載。
3位:職業としてのシネマ(集英社新書)
80年代以降、『テレーズ』『ギャルソン!』『ガーターベルトの夜』『サム・サフィ』『TOPLESS』『ミルクのお値段』『パリ猫ディノの夜』等の配給作品のヒットでミニシアター・ブームをつくりあげた立役者の一人である著者が、長きにわたって関わった配給、バイヤー、宣伝等の現場における豊富なエピソードを交え、仕事の難しさや面白さ、やりがいを伝える一冊。
業界で働きたい人のための「映画業界入門書」である一方、ミニシアター・ブーム時代の舞台裏が余すところなく明かされており、映画愛好家にはたまらない必読書である。
4位:タマ、帰っておいで REQUIEM for TAMA
この絵はアートではない。猫への愛を描いた……。2014年に亡くなった愛猫「タマ」。天に召されたその日から、横尾忠則が描き続けた91点のタマの絵に、タマに捧げた多くの文章を添えた画文集。
5位:身近なものから始めるリアル色鉛筆レッスン
すぐに描くことができて、手軽で面白く、楽しい色鉛筆。塗り方等の基本から、リアルに表現する描き方までを丁寧に解説。食べ物、植物、猫、鳥など、精緻に描かれた作品も紹介する。
6位:郷土玩具ざんまい
ゆるすぎる顔のだるま、絶妙にデフォルメされた招き猫、ヤンチャな姿で踊る福助。九州は福岡の郷土玩具店「山響屋」の店主が紹介する郷土玩具の数々は、ツッコミどころ満載の魅力にあふれるものばかり。
「この絵付け、かなりぶっ飛んでますね」
「雑そうに見えて、意外と計算されつくしてるのかも」
「ブサイクなのになんだかかわいい」
など、自身も全国の郷土玩具約1500点を収集し、現代のサブカルチャーにも親しむ著者の自由な視点から、古今のおもしろい郷土玩具を縦横無尽に紹介するビジュアルブック。九州を中心に、北は北海道から南は沖縄まで、全国の個性派郷土玩具約350点が大集合、その魅力を縦横無尽に紹介します。
7位:めでたしめずらし瑞獣珍獣
人間が想像した神秘のいきものの世界。日本や中国の絵画・工芸240点超を紹介!
四神・鳳凰・獅子・龍・虎・獏・麒麟・飛龍・犀・白澤・蝙蝠などの中国由来の瑞獣や、鹿・猿・狛犬・狐・鳩・鼠・兎・犬・猪・鶴・霊亀・孔雀・猫・鯨といった日本のめでたい動物、異国の珍獣を蒐集!狩野派・琳派・円山派・若冲・蕭白・暁斎ら豪華絵師の作品も堪能できます。
8位:世界童話 物語のその先へ 塗り絵ブック
塗り絵で童話の世界を旅しましょう
シンデレラ、いばら姫、親指姫、人魚姫、かぐや姫、ラプンツェル、赤ずきん、ヘンゼルとグレーテル、長靴をはいた猫、アラジンと魔法のランプ、不思議の国のアリス、秘密の花園、オズの魔法使いなど、みんなが知っている世界の童話をテーマにしたかわいい塗り絵がいっぱい!
好奇心旺盛な女の子マノンが思い描く大好きな童話の場面や、物語の一歩先まで想像をふくらませた世界が、かわいい塗り絵になりました。達成感を味わえる細かな描写の見開きも、気軽に塗れる小さな絵もあり、その日の気分で楽しめます。
絵はすべて、つまようじを使ったやわらかな線で描かれています。色を塗るときは、色鉛筆、カラーペン、カラーインクや水彩絵の具、ボールペンなどで、自由な塗り方を楽しんでください。メッセージカードや、しおりとして使えるカードも付いています。
9位:向田邦子 暮しの愉しみ(とんぼの本)
料理上手で食いしん坊。器、書画、骨董にも熱中し、暇さえあれば旅に出る。大好きな猫と暮らし、着る物も身の回りの物も楽しげに、けれどしっかりと自分の眼でお気に入りを選んでいく……。自分らしく暮らすヒントが満載。
10位:Nelco Necoの塗り絵BOOK 春夏秋冬 おしゃまな猫の物語
おしゃまな猫ちゃんたちが、お母さんの目の届かないところでいろんなことをしちゃう。私たちが子どものころにやりたかったこと、憧れた夢の世界を、手描きで描いた、ちょっとレトロでロマンチックな塗り絵BOOK。春夏秋冬、季節感も楽しみながら、おしゃまな猫たちが繰り広げる様々なできごとをシーンで塗れます。塗りごたえのある大判で、それぞれの絵柄の物語(ストーリー)を感じながら塗り進めると、まるで絵本のようなあなただけの素敵な塗り絵BOOKが完成します。巻末についた塗り絵は切り取ってミニカードとして使えます。
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artscape編集部のランキング解説
現在国立近代美術館で開催されている「隈研吾展 新しい公共性をつくるためのネコの5原則」では、隈がこれまで手掛けた建築などに加えて、なんと「地面に近いネコの視点」から都市での生活や公共性を見直すリサーチプロジェクトを発表しています。
路地裏にふと佇み、しばしの寄り道にいざなってくれる猫。あるいは、われわれ人間と気ままに寄り添い、生活を共にする猫。長らく家で飼う動物の代表格とされてきた犬の推計飼育頭数よりも、猫の推計飼育頭数が上回ったことが少し前に話題になりましたが、それから数年経ったいまでもその形勢は維持されたままのようです(一般社団法人ペットフード協会による「全国犬猫飼育実態調査」より)。そんな「猫」を軸にした今回のランキングにも、さまざまな視点で猫を扱った「芸術・アート」ジャンルの書籍が並びました。
猫は絵のモチーフとしても一貫して人気を誇る存在ですが、1位に輝いた『名画に学ぶにっぽん筆ペンイラスト』は、歌川国芳によるユーモラスな猫のみならず、鳥獣戯画などの“かわいい”浮世絵を筆ペンで模写するというアプローチがとてもユニークです。『郷土玩具ざんまい』(6位)、『めでたしめずらし瑞獣珍獣』(7位)も、古来から人々が猫やそのほかの生き物に注いできた目線がぼんやり浮かび上がってくる二冊。郷土玩具でも絵画・工芸品でも、猫はどこか私たちを脱力させる癒やしの存在であることは変わらない様子です。猫以外にも、異国の珍獣や架空の生き物がどう想像され表現されてきたのかがわかる『めでたしめずらし瑞獣珍獣』は、眺めるだけで楽しいビジュアルブックです。
他方、横尾忠則が愛猫・タマを亡くしてから、在りし日の姿をひたすら描き続けた画集『タマ、帰っておいで REQUIEM for TAMA』(4位)は壮絶。「アートではない。猫への愛を描いた」という、愛情と哀しみが入り交じる絵の筆致とそこに添えられた言葉は、愛する存在を亡くした経験がある読者にとっては胸に迫るものがあるはずです。
愛猫家の文化人は古今東西数多くいるなかで、今年で没後40年を迎える向田邦子の生前の暮らしぶりをたくさんの写真とともに紹介する『向田邦子 暮しの愉しみ』(9位)にも、愛猫たちにまつわるページが。タイのバンコクで出会った瞬間に向田が「感電」し、なんとか頼み込んで譲ってもらったという雄雌2匹のコラットについて書かれたエッセイなども掲載されています。
身近な存在なのに、いつもどこか謎めいていて、人々の心を捉えて離さない。そんな猫たちの魅力を、本のなかでも再発見してみてください。
2021/07/01(木)(artscape編集部)
カタログ&ブックス | 2021年6月15日号[近刊編]
展覧会カタログ、アートやデザインにまつわる近刊書籍をアートスケープ編集部が紹介します。
※hontoサイトで販売中の書籍は、紹介文末尾の[hontoウェブサイト]からhontoへリンクされます
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問題=物質となる身体──「セックス」の言説的境界について
『ジェンダー・トラブル』によって明らかにされた権力と言説によるジェンダー形成の過程。ジェンダー/クィアに関する理論書である同書は、フェミニズムやジェンダー、クィア・スタディーズにおいて画期をなすと同時に、多くの物議を醸した。「ジェンダー」と同じく、「セックス」は言説によって構築されるものなのか。そのとき、身体の物質性はいかに理解されるのか。本書は、『ジェンダー・トラブル』へ寄せられた批判に応答した、その続編であり、バトラーの「もうひとつの主著」である。……
近年、改めて注目が高まるフェミニズムやLGBTQ、ブラック・ライヴズ・マターに代表される「人種」の問題にも接続しうる現代の理論書。
未来派 百年後を羨望した芸術家たち
なぜ百年後を羨望するか?
私たちは、なぜ未来に憧れ、そして失敗するのか。
20世紀、そして21世紀における文化・政治・テクノロジー・広告といったさまざまな人間活動の萌芽であった芸術・社会運動「未来派」。その「未来派」の全容に、宣言・運動・詩法・建築・ネットワーク・ダイナミズム・音楽・ファシズム・起源という9つの切り口で迫り、現代における「未来観」の再考をはかる。哲学者・美術批評家の多木浩二がイタリアで渉猟した膨大な書物や資料をもとに書いた渾身の遺作。
「ピピロッティ・リスト:Your Eye Is My Island ─あなたの眼はわたしの島─」展図録
2021年4月から京都国立近代美術館にて開催されている「ピピロッティ・リスト:Your Eye Is My Island ─あなたの眼はわたしの島─」展の図録。2冊組。
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ピピロッティ・リスト:Your Eye Is My Island ─あなたの眼はわたしの島─|村田真:artscapeレビュー(2021年06月01日号)
ジャパノラマ──1970年以降の日本の現代アート
1970年以降の日本現代アートの〈パノラマ〉 2017年にポンピドゥー・センター・メッスで開催された、「JAPANORAMA: NEW VISION ON ART SINCE 1970」展。〈群島〉(アーキペラゴ)というコンセプトのもと、6つのテーマを設定し、日本の現代視覚文化をパノラマとして描き出したこの展覧会は大きな反響を巻き起こした。 そのフランス語版カタログに多数の作品・展示写真を追加し、展覧会記録資料を大幅に増補した、待望の日本語版。
佐藤雅晴 尾行─存在の不在/不在の存在
佐藤雅晴は、日常風景をビデオカメラで撮影した後、パソコン上のペンツールを用いて慎重にトレースする「ロトスコープ」技法でアニメーション作品や平面作品を制作。現前に映る事物の実在感とともに、不確かさや儚さなどを感じさせる独特の世界観が国内外で高い評価を受けるなか、2019年に45歳の若さで亡くなった。
本書では、代表作《Calling》(2009–2010/2014)、《東京尾⾏》(2015–2016)、《福島尾⾏》(2018)などの映像アニメーション作品、アクリル画などの展覧会出品作を紹介するほか、出品作以外の作品も掲載。現実と非現実が交錯したような作品世界を、様々な展示風景写真とともに表現した一冊。そのほか、佐藤の作品を丁寧に紐解く論文やエッセイも収録し、活動の全貌が初めて作品集としてまとめられる。
ファッション イン ジャパン1945-2020ー流行と社会
もんぺからサステイナブル、さらにその先へ、戦後の日本ファッション史をたどる
戦中戦後のもんぺ、国際的に華々しく活躍する日本人デザイナーの台頭、ゴスロリ……。日本が生み出してきた装いの文化は、その独自の展開で世界を驚かせてきた。豊かな表現を生み出すきっかけとなった明治期以降の社会状況や流行を発端に、戦後から現在に至るまで日本のファッションを包括的に紹介。衣服、写真、雑誌、映像など豊富な資料を通して、 流行の発信者と衣服をまとう私たち、その両者をつなぐメディア、それぞれの視点から各時代のファッションを紐解く。
アイノとアルヴァ 二人のアアルト
互いの才能を認めあい、影響しあい、補完しあいながら作品をつくり続けたアイノ・マルシオ(1894-1949)とアルヴァ・アアルト(1898-1976)。アイノがパートナーになったことで、アルヴァに「暮らしを大切にする」という視点が生まれ、モダニズム建築の潮流のなかで、アアルト建築はヒューマニズムと自然主義が共存する独自の立ち位置を築いた。結婚してからアイノが54歳の若さで他界するまで、二人が協働した25年間というかけがえのない創造の時間を、これまで注目されることの少なかったアイノの仕事に着目しながらたどり、アアルト建築とデザインの本質と魅力を見つめ直す。長年遺族のもとで保管されてきた初公開資料を多数収録し、アアルト・ファミリーへのインタビュー等も収録する充実の一書。
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アイノとアルヴァ 二人のアアルト フィンランド─建築・デザインの神話|杉江あこ:artscapeレビュー(2021年04月15日号)
カタログ&ブックス | 2021年4月1日号[テーマ:夫妻]|artscape編集部:artscapeレビュー(2021年04月01日号)
うきよの画家
2021年5月26日から上野の森美術館ギャラリーとMEMで開催された谷原菜摘子「うきよの画家」、「紙の上のお城」展にあわせて出版された作品集。
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アートを育てるまち、北加賀屋──見に行く場所から、つくる場所へ|小倉千明:artscapeフォーカス(2021年04月15日号)
コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ
人間にとってテクノロジーとはどのようなものなのか。これからのテクノロジーはどうあるべきなのか。テクノロジー自体が自律性を持ち始めたAI時代に、人間と人間、人間と自然、そして人間とテクノロジーが共に生きるための「コンヴィヴィアル・テクノロジー」とは何なのか ── デザイン・イノベーション・ファームTakramで数々の先駆的なプロジェクトを率いてきた気鋭のデザインエンジニア・緒方壽人氏が、先人たちのさまざまな言説を辿り、思考を巡らせながら紐解きます。
日常的実践のポイエティーク
読むこと、歩行、言い回し、職場での隠れ作業…。それらは押しつけられた秩序を相手取って狡智をめぐらし、従いながらも「なんとかやっていく」無名の者の技芸である。好機を捉え、ブリコラージュする、弱者の戦術なのだ―。科学的・合理的な近代の知の領域から追放され、見落とされた日常的実践とはどんなものか。フーコー、ブルデューをはじめ人文社会諸科学を横断しつつ、狂人、潜在意識、迷信といった「他なるもの」として一瞬姿を現すその痕跡を、科学的に解釈するのとは別のやり方で示そうとする。近代以降の知のあり方を見直す、それ自体実践的なテクスト。
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※「honto」は書店と本の通販ストア、電子書籍ストアがひとつになって生まれたまったく新しい本のサービスです
https://honto.jp/
2021/06/14(月)(artscape編集部)
朝吹真理子『だいちょうことばめぐり』
写真:花代
発行所:河出書房新社
発行日:2021/01/30
本書のもとになったのは、1955年創刊のタウン誌『銀座百点』に2015年から2017年にかけて連載されたエッセイである。「あとがき」によると、はじめは歌舞伎の演目をめぐる連載の依頼だったそうだが、打ち合わせの過程で「演目が一行でも出てくればよい」ということになり、結果的に周囲のさまざまな出来事を綴ったエッセイになったとのことである。本書の端々には歌舞伎の演目が──しばしば唐突に──出てくるのだが、その背景にはこうした微笑ましい理由があるようだ。
そんな一風かわった経緯をもつ本書だが、やはり現代有数の小説家の手になるだけあって、唸らされる掌篇がいくつもある。ひとつ2500字ほどの短いエッセイのなかで、時間や空間が目まぐるしく入れかわるにもかかわらず、そこに唐突な飛躍や断絶はほとんど感じられない。それはおそらく、ここに読まれる言葉の連なりがほとんど小説のそれであるからだろう。世の平凡なエッセイと較べてみれば一目瞭然だが、どこを読んでも場面や状況を表現する言葉がこのうえなく精緻であり、結果ほとんどフィクションに近い没入感をもたらしている。そしてときおり差し挟まれる花代の写真が、読者をわずかに現実へとつなぎとめる紐帯として機能する。
先にも書いたように、本書はいわゆるエッセイ集であるには違いないのだが、それでも一冊の書物としての「流れ」が際立っており、なおさらそれが小説めいた印象を増幅する。本書の導入部で目立つのは幼少期の記憶だが、中ほどの「一番街遭難」や「チグリスとユーフラテス」では配偶者との(つまり、どちらかと言えば近過去の)記憶がしばしば呼び出され、それが後半の「プールサイド」や「夢のハワイ」で、ふたたび幼少期の記憶と交差する。こうした異なる時空の合流と分岐が、各々のエピソードをさらに印象深いものにしている。
これらのエッセイのほとんどは、何かを「思い出す」ことに費やされている。数日前、数ヶ月前のような比較的近い過去から、大学生であった十数年前、さらには生まれて間もない数十年前にいたるまで、著者はおのれが経験したありとあらゆることを思い出し、書いている(あるいは「プールサイド」における誕生した日の光景のように、そこにはおのれがじかに経験していないことも含まれる)。かたや、それに対する現在の感慨、あるいは不確かな未来の展望について書くことは、ここでは厳に慎まれているかのようだ。それがなぜなのかはわからない。ふたたび「あとがき」から引くと、本連載を愛読していた読者が、著者をはるかに年配の人物だと想像していたというエピソードは興味ぶかい。これらを書いているあいだ、「思い出の薄い幕」をめくりつづけているようだった、と著者は言う(241頁)。本書を読みながら脳裏をよぎったのは、まさしくそうした「薄い幕」の「めくり方」がきわめて巧みであるということだった。過去を思い出すことと、それについて書くこと──いずれも一筋縄ではいかないこれらの営為の、すぐれて繊細なかたちがここには結晶している。
2021/06/07(月)(星野太)
山田広昭『可能なるアナキズム──マルセル・モースと贈与のモラル』
発行日:2020/09/25
ここ数年のことと言ってよいと思うが、「贈与」をテーマとする日本語の書物が相次いで刊行されている。いくつか挙げていくと、岩野卓司『贈与論』(青土社、2019)、湯浅博雄『贈与の系譜学』(講談社、2020)などが、その代表的なものとみなしうる。むろん、その背後にある著者たちの思惑はさまざまだろうが、これらの書物が好意的に受容される土壌として、どこまでいっても「等価交換」の論理につらぬかれた資本主義への根本的な不信感があるように思われる。そうした一連の新刊書のなかで、ひときわ目をひくのが本書『可能なるアナキズム──マルセル・モースと贈与のモラル』である。
本書は、文化人類学者マルセル・モース(1872-1950)の名前をタイトルに掲げている。そこから読者は、すぐさまモースによる『贈与論』を思い浮かべるだろう。いまからおよそ100年前に登場したこの古典もまた、21世紀に入ってから新たに三つの(!)訳書が現われるなど、やはり大きな注目を集めてきた。本書『可能なるアナキズム』において、モースの『贈与論』がその中心をなしていることは表題からも容易に想像できる。しかし本書において真に注目すべきは、しばしば見過ごされてきた人類学者モースのもうひとつの大きな関心、すなわち社会主義へのコミットが大きく取り上げられていることにある。
著者の見立てはこうである。モースは1890年代から1930年代にかけて『社会主義運動』『ユマニテ』『ル・ポピュレール』をはじめとする社会主義系の雑誌に膨大な数の論説記事を書いていた。しかも、その総数の約3分の2にあたる110本あまりが、『贈与論』が構想・執筆された1920年代前半に発表されている。まさしくこの事実が、モースの『贈与論』における「倫理に関する結論」を理解する鍵になると著者は言う。『贈与論』は、いわゆる「未開社会」の贈与システムを明らかにした社会人類学の書として「のみ」読まれるべきではない。なぜなら、モースはこの人類学的研究を通じて、同時代の西欧社会にも適用可能なひとつの「倫理」を示そうとしたからだ──これが本書の基本的な認識である(8-9頁)。
そこから本書は、モースが示そうとした「贈与のモラル」の内実を徹底的に明らかにする。その対象は『贈与論』をはじめとするモースのテクストにとどまらない。モースの叔父であったエミール・デュルケムはもちろんのこと、ワルラスおよびマルクスの経済理論、さらには柄谷行人、デヴィッド・グレーバーをはじめとする後世の理論を縦横無尽に渉猟しつつ、『贈与論』というこの短くも豊かな論文の謎が次々と浮き彫りにされていくさまを、読者は目にすることになるだろう。そしてもっとも瞠目すべきは、著者がモースの思想を最終的に「アナキズム」へと結びつけていることにある。
本書第一章で指摘されているように、モースはおのれと同時代のアナキズムについて、一貫して否定的な構えを崩さなかった。しかしその一方で、これまで少なからぬ人々が、当のモースの思想のなかに新たなアナキズムの姿を見いだそうとしてきたことも事実である。昨年の急逝が惜しまれたデヴィッド・グレーバーもその一人だった。本書はグレーバーの力強い筆致に見られる「勇み足」(24頁)を糺しつつ、モースにおける「贈与のモラルを内包した交換様式」──これは柄谷行人の語彙で言えば「交換様式D」に相当する──のうちに「可能なるアナキズム」の姿を見いだそうとする。そこに、読者を爽快な気分にさせるようなわかりやすい結論はない。最終章の筆致が典型的に示すように、ここに読まれるのは、理想と現実の狭間にあってけっして安易な結論にいたることのない、共同性をめぐる粘り強い思考の記録である。
2021/06/07(月)(星野太)
善本喜一郎『東京タイムスリップ 1984⇔2021』
発行所:河出書房新社
発行日:2021/05/25
文句なしに面白い写真集だ。善本喜一郎は東京写真専門学校(現・東京ビジュアルアーツ)で森山大道、深瀬昌久に師事し、卒業後は『平凡パンチ』(マガジンハウス)の特約カメラマンとして仕事をしながら、仲間たちと東京・渋谷に自主運営ギャラリー「さくら組」を開設して活動していた。ちょうどその1984年頃に、東京の街頭を6×7判のカメラで撮影したモノクロームの写真群を、新型コロナウィルス感染症の緊急事態宣言中に整理していたら、あまりの面白さに「自分が撮ったことなど忘れて、すっかり見入って」しまったという。その後、写真に写っている場所が今はどうなっているのかが気になり出して、カラー写真で再撮影するようになる。それらの写真を、2枚並べて収録したのが本書『東京タイムスリップ 1984⇔2021』である。
写真を見ていると、風景が大きく変わった場所と、あまり変化のない場所とが混在しているのがわかる。写真集の冒頭に登場する「新宿駅東南口」などは、土地が削られて地形そのものが変わっているし、建物が消えたり、高層ビルが建ったりして大きく変貌したところも多い。とはいえ、新宿の「思い出横丁」や「ゴールデン街」のたたずまいはほぼ同じだし、ガード下の通路などがそのまま残っていることもある。写真からよみがえる記憶も同じで、まったく忘れてしまった場所もあるし、ありありと、視覚だけでなく匂いや手触りまでも含めて立ち上がってくることもある。それぞれの生のあり方に応じて「タイムスリップ」できるところに、本書の魅力があるといえるだろう。やや不思議なことに、これらの写真をSNSに上げると、1980年代の東京を知らない若い世代や外国人からも、ヴィヴィッドな反応が返ってくるという。どうやら記憶を再活性化する写真の力は、世代や国籍を超えて普遍的にはたらくようだ。
特筆すべきなのは、2枚の写真を同じ位置から、同じアングルで撮影する「定点観測写真」として成立させる善本の能力の高さである。建物や街路だけでなく、撮影時間、天候、たまたま写り込んだ通行人にまで配慮してシャッターを切っている。長年、商業写真やポートレートの分野で鍛えてきた技術力の高さが、見事に活かされた写真集ともいえる。
2021/05/18(火)(飯沢耕太郎)