artscapeレビュー
デザインに関するレビュー/プレビュー
早川良雄ポスター展
会期:2011/03/05~2011/06/05
国立国際美術館[大阪府]
日本の本格的なグラフィック・デザイナーの第一世代が河野鷹思や原弘であるなら、亀倉雄策や早川良雄は第二世代にあたる。そしてこの巨匠たちはいずれも1951年の日本宣伝美術会創設に関わり、日本のデザイン界を牽引した。今回の早川良雄(1917─2009)のポスター展は、作家自身により国立国際美術館に寄贈された作品を中心とする66点のポスターにより、このデザイン界の巨人の足跡を辿ろうとするものだ。
目を惹きつけずにいられないのは、1950年代前半に発表され、以降、伝説のポスターとして語り継がれてきた「カロン洋裁」と「近鉄百貨店の秀彩会」のポスターだろう。単純な形態と色彩に還元された女性のイラストレーションが画面に大胆に配され、「図」である衣服が「地」となり、その上に置かれた2種類の書体──早川自身が考案した手描きの「カストリ明朝」と硬書体──が全体をぴりっと締める。関西のデザイナーたちはこれらのポスターに並々ならぬ衝撃を受けた。のちに早川らに次ぐ世代の代表格となる田中一光は、駅のホームで見た「カロン洋裁」のポスターの「知的な凶暴性、前衛的なメンタリティー」にすっかり心を奪われ、それが当時の主流であったアール・デコや分離派、バウハウス流構成主義への反発であるように感じたと記している(『田中一光自伝──われらデザインの時代』白水Uブックス、2004)。
時代を下るにつれ、早川のポスターには人の心をそっと包み込むような柔らかさとパステル調の鮮やかな色彩が表われる。1980年代のINAXのためのポスターは、柔らかな形と色が印象的なキャッチコピーと巧みに釣り合わされ、ある意味、当時のポストモダンの雰囲気を伝えるだろう。初期から晩年にかけての変化は、時代時代の流行に沿うものとも反発するものとも受け取れ、グラフィック・デザイナーという仕事の面白さと困難さを改めて実感した。[橋本啓子]
2011/03/13(日)(SYNK)
もうひとつの京都──モダニズム建築から見えてくるもの
会期:2011/02/07~2011/05/08
京都工芸繊維大学 美術工芸資料館[京都府]
大きな写真パネルと模型、そして図面が展示場のあちらこちらに置かれている。建築関連の展覧会にありがちな風景だ。模型は模型で実物とは違うし、図面は読めない(これは自分の問題だが)、写真に至ってはとっくに記録媒体としての役割は信じていない。どうしても撮る側の意図が入ってしまうからだ。だから建築の展示が面白いと思ったことはあまりない。それなのに、なぜこの展覧会を紹介しているのか。それは「京都におけるモダニズム建築」という言葉に惹かれたからかもしれない。関東大震災や太平洋戦争の空爆で昔の趣を失ってしまった東京や大阪とは違って、京都にはまだ独特な木造文化の伝統と町並みが残っている。京都という特殊な空間のなかにあらわれたモダニズム建築というものが、どのような姿をしていたのか気になったわけだ。本野精吾邸、聴竹居、京都会館、国立京都国際会館など、1920年代から1970年代までの、古都・京都の中のモダニズム建築を再考する機会である。[金相美]
2011/03/05(土)(SYNK)
包む──日本の伝統パッケージ展
会期:2011/02/10~2011/05/22
目黒区美術館[東京都]
アート・ディレクターの岡秀行氏(1905-1995)は日本各地を旅するなかで、土地々々の素朴なパッケージに心を惹かれ蒐集をはじめたという。その蒐集品は1960年代から80年代にかけての国内外での展覧会の開催、書籍の刊行を通じて、世界に日本の伝統パッケージの魅力を広めた。今回の展覧会は、1988年に目黒区美術館で開催された展覧会を契機に岡氏より譲り受けた「日本の伝統パッケージ」の数々を23年ぶりに展観するものである。
展示の構成は大きくふたつに分けられる。ひとつは伝統工芸的な商品パッケージ。これはさらに木、竹、笹、土、藁、紙と、おもに素材別に分けられている。多くはお土産品としてつくられたもので、実用というよりは、買う人、貰う人を楽しませる工夫に満ちている。もうひとつは人々の生活に根差した実際的なもの。たとえば藁という素材のみで卵、魚、米などを包む工夫がすばらしい。また、結納目録、千歳飴など、ハレの行事に見られる包みの持つ華やかな演出効果にも感動する。会場では一部のパッケージのみではあるが、外観ばかりではなく内容をも紹介する3D映像が上映されている。これはとてもよかった。美術館という場である以上しかたがないのだが、展示において私たちが見ることができるのは「包まれたもの」だけである。何が包まれているのかも、包むという行為も、受け手が行なうであろう包みを解くという楽しみも知ることができない。3D映像は、長期の保管が困難な自然素材のパッケージをアーカイブするうえでも、ものを媒介にした人びとの行動を記録するうえでも、とても優れた手段ではないかと思う。
展示されている「伝統パッケージ」は岡氏が自ら集めたものであり、その時点ではまだ各地で実際につくられ、使われていたものである。さらに、目黒区美術館のコレクションは1988年の展覧会の際に新たに集められたものがほとんどであり、必ずしも歴史的な意味での記録ではない。今回の展覧会のために求められたパッケージもあるという。となれば、ここで「伝統」とは何を意味しているのだろうか。
「たしかに最初は『かたち』そのものが魅力であった。どの一つを取っても、それらはあまりにも美しかったし、その見事さに私は当然のことながら酔ってしまった。そのうちに何故か私は『かたち』以上の何かを見始めた。『かたち』の奥に呼吸している人間、しぶとく今日に生き続けている人間そのものへと、私の関心は変わって行った」と岡氏は書く(岡秀行「包装の原点」[『包む──日本の伝統パッケージ』展覧会図録、11頁])。岡氏がこれらのパッケージに見た「伝統」とは、ものそれ自体のことではなく、「包む」という行為に現われた日本人の美意識であり、素材と対峙する心の継承のことなのである。それゆえ、デザイナーとしての岡氏はプラスチックなどの素材を否定するわけでも、過去への回帰を提唱しているわけでもない。氏のコレクションは、伝統パッケージから「日本人の価値観や自然観を探り、あるいは日本人固有の美の倫理を追究する試み」(同、15頁)であり、そこに見られる精神や価値観はけっして過去に留まるものではなく、これからのものづくりに生かされるべきひとつの指針なのである。[新川徳彦]
2011/03/03(木)(SYNK)
『ケータイのデザイン』
1985年のショルダーフォンから現在、そしてまだ実現されていないコンセプトモデルまで、過去四半世紀にわたる期間に日本で発売・発表されたさまざまな携帯電話の写真集。面白いのはその構成。「The Future」「Today」「Classic」の順に3つの部に分かれている。過去から未来へと時系列に辿るのではなく、未来から過去へとデザインの変遷を遡る。そしてもっとも多くのページが割かれているのが「The Future」である。ここで未来の携帯電話として紹介されている製品は、ひとつを除いてすべてコンセプトモデル。携帯電話のデザインがこれからどのような方向を目指すのかを示すものである。その未来像には二つの種類があるようだ。ひとつは将来の技術やサービスの変化や進歩の方向性を設定し、それに基づいた新しい端末の提案。もうひとつは、コミュニケーションのありかたの変化を設定し、そこから新しいサービスをも提案するもの。もちろん両方の未来像をともに取り入れているものもある。これらのモデルの発表年はさまざまであるが、古いものでは2001年に発表されたものも含まれている。すなわち、ここに示されているのは、そのほとんどが過去にデザイナーたちが夢見た未来なのだ。「The Future」においてデザイナーたちがテレコミュニケーションにどのような未来を見ていたのかを考え、「Classic」でカタチのないその存在を彼らがどのようにハードウェアに落とし込んできたのかを振り返る。そして「Today」のページの少なさに、ケータイデザインの「今」の儚さを憂うのだ。[新川徳彦]
2011/03/03(木)(SYNK)
「倉俣史朗とエットレ・ソットサス」展
会期:2011/02/02~2011/05/08
21_21 DESIGN SIGHT[東京都]
ポストモダンのデザインによって世界を驚かせたエットレ・ソットサスのメンフィス・プロジェクトに倉俣史朗が参加した1981年を起点とし、両者の親交と作品をたどる展覧会。もっとも、実質的には倉俣を再評価するための企画と言ってよいだろう。倉俣の《トワイライト・タイム》(1985年)の脚は、伊東豊雄のせんだいメディアテークのチューブを予見していたなど、いかに時代を先駆けていたかを検証できる。彼の軽さや透明感、あるいは無重力への志向は、直接的には妹島和世、隔世遺伝的には石上純也や中村竜治を含むゼロ年代の建築家にまで影響を与えていたと考えられるではないか。
2011/02/27(日)(五十嵐太郎)