artscapeレビュー

デザインに関するレビュー/プレビュー

小林礫斎 手のひらの中の美──技を極めた繊巧美術

会期:2010/11/20~2011/02/27

たばこと塩の博物館[東京都]

福住廉氏がすでにここでレビューを書かれているとおり、まさに「超絶技巧」としか形容しようのないミニチュアの数々である。硯箱や煙草盆、印籠などの工芸品から、独楽や人形などの玩具、画帖や集印帖、和洋の絵画や豆本まで、身の回りのあらゆるものがミニチュア化されている。ケースのガラス越しに見ているにもかかわらず、息を詰めていないと吹き飛ばしてしまうような錯覚に陥る。ただ小さいだけではない。チラシや図録の写真ではそのスケール感は実感できない。まるでふつうの大きさの工芸品を見ているかのようだ。それほど微細な細工が施されているのだ。
今回の展覧会はおもにミニチュアの工芸作品を手掛けた小林礫斎(1884-1959)の技巧に焦点を当てたものだが、これらの作品の誕生にはコレクターであった中田實(1875-1946)のはたした役割がとても大きいようだ。礫斎は中田氏との出会い以前からミニチュアを手掛けていたのだが、「通常の礫斎作品を掌に乗ると表現するとすれば、中田コレクションは指先の世界」(『ミニチュア 増補改訂版』たばこと塩の博物館、2010、8頁)なのである。作品制作にあって両者の関係は、職人とコレクター、あるいは職人とパトロンのしあわせな出会いという以上に、ずっと密接なものであったようだ。
中田實は茶人の家に生まれ、一橋高商を経て日本郵船で会計係を務め、1922(大正11)年に退職。以来趣味生活を送ってきたという。昭和11年の『東京朝日新聞』趣味のページに中田氏へのインタビューが二回にわたって掲載されている(1936年11月3日、4日)。それによれば氏は小学生の頃からの切手蒐集家であったが、加えて昭和初年頃から「最小物(ミニチュア)」の蒐集を始める。しかも「ただ集めるだけでは承知が出来なくなり、自分で作ったり、人に註文して作らせたりして段々微に入り細を穿つような小さなものが殖えて来」たという。単なるコレクターであることに飽きたらず、彼は自らミニチュアの制作を始めたのである。中田氏自身が手掛けたのは「デザインと表装」。そして画を担当した小林立堂と細工を担当した礫斎を、彼は自分の「仕事」の「又とない協力者」であると述べている。コレクターの情熱が優れた職人たちの技巧と結びつき、かくも超絶的な作品の数々を生み出していったのか。となれば、いったい作品の誕生にとってどちらが主でどちらが従であったのだろうか。中田氏の遺族がたばこと塩の博物館に寄贈したコレクションには当時の新聞記事のスクラップなどの関連資料も含まれているといい、興味が尽きない。次の機会があれば、ミニチュア制作を「私のこの仕事」と呼び、その「デザイン」を行なった中田實の視点からこれらの作品世界を見てみたい。[新川徳彦]

2011/02/26(土)(SYNK)

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スーザン・ピーチ展「playing your f(l)avour」

会期:2011/01/19~2011/02/26

studio J[大阪府]

スーザン・ピーチ(Susan Pietzsch, 1969-)は旧東ドイツに生まれ、ヴィスマール大学ハイリゲンダム応用美術専門学校宝飾学科を修了、近年はコンセプチュアルなジュエリー作品やオブジェ、インスタレーションを手がける。studio Jでの3度目の個展となる今回は、砂糖で出来たカラフルなビーズのブローチや、数珠がぺしゃんこになったような形のチョコレートバーのブローチを発表した。食べられ、また朽ちていくものをアクセサリーの素材とすることは最近のピーチの関心事のひとつである。彼女はそれを通じて、富や権力、虚栄の象徴ゆえに高価な素材の持つ永久性をジュエリーに求めるわれわれの価値観を打ち破ろうとする。
もっとも、ピーチのアクセサリーはなにもかもが食物のような非永久的な素材でできているわけではない。砂糖のブローチのクリップは18金製であり、チョコレートバーのブローチは、漆によるヴァージョンもある。また今回は、チョコレートに似せた磁器製のブローチも出品された。つまり、ピーチの作品は、ジュエリーに対する素材上の転覆に留まらず、だまし絵の効果のような視覚上の転覆をも射程に入れている。砂糖菓子のブローチの高価なクリップは服に付ければ見えなくなり、チョコレートと漆のブローチを両方、胸に付けてネックレスのようにすると、なんの素材のアクセサリーなのかわからなくなる。
転覆の試みはさらに、視覚以外の感覚領域にも及ぶ。食物によるアクセサリーは身に付ければおそらく匂いを発し、雨に濡れれば溶け、お腹がすけば食べられる。つまるところ、ピーチがジュエリーに与えようとする新たな価値感とは、理性により形作られた伝統的概念の単なる否定というよりも、ジュエリーがあたかも身体の一部としてわれわれの五感を通して認識され、かつ身体のように、儚くも再生可能なものとして存在し得ることなのではないか。実際、展覧会タイトルにある(l)の字が、まさに彼女のジュエリーが「(理性的、視覚的な)好み(favour)」と「(味覚的、嗅覚的な)味(flavour)」のどちらでも楽しめることを示唆するように思えるのだ。[橋本啓子]

2011/02/26(土)(SYNK)

せんだいスクール・オブ・デザイン 2010年度秋学期成果発表シンポジウム

会期:2011/02/17

せんだいメディアテーク 1Fオープンスクエア[宮城県]

第一部は、せんだいスクール・オブ・デザインの第一期の各スタジオによる発表が行われた。Futureラボを担当した石上純也と平田晃久も駆けつけたが、二人のスタジオの成果は、それぞれ彼らの特徴がよく反映されていたのが印象的だった。五十嵐スタジオでは、文芸批評誌『S-meme』を制作したが、右から開くと、縦書きで非仙台サイドの特集「ウェブの時代に紙の媒体ができること」、逆に左から開くと、すべて横書きの仙台サイドの内容になる。受講生のグラフィックデザイナーと製本部の協力によって、手品みたいな特殊装幀の本を実現した。なお、2月4日の学内発表会では、本屋のフィールドワークで知ったビッグイシューのユニークな販売員、鈴木店長を招き、大学で実演販売を試みた。彼がすごいのは、こちらが関心あるテーマを伝えると、だったら何号と何号のこれ、と即座に返答し、バックナンバーをすぐ取り出せること。過去の内容をすべて記憶しているのだ。まさに本屋の原点であり、未来の書店を先どりしているように思われた。
その後、第二部としてパネルディスカッション「デザイン教育のグローバルビジョン」が開催された。阿部仁史はUCLA学科長として優秀な教員確保も兼ねて、外部の企業と連携していく大学の戦略を語り、アーティストの中村政人は3331Arts Chiyodaや富山のヒミングなど、地域を活性化させる大学外の活動を紹介し、文部科学省の神宮孝治は大学教育の現状を報告し、せんだいスクール・オブ・デザインをいかに継続させながら、地域とのつながりをつくっていくべきかが討議された。

2011/02/17(木)(五十嵐太郎)

Presentation Zen

発行日:2009/09/04

「デザイン」とは、見た目や可視的なものだけを意味する言葉ではないということを、ガー・レイノルズ氏の著述は改めて教えてくれる。彼が提唱する〈Presentation Zen〉とは、禅の理念を旨とするプレゼンテーションのデザイン術のこと。氏は、アップル本社のマネージャー時代に、マックのユーザー団体を対象に講演やデモンストレーションを行なった豊富な経験をもつ。現在は、関西にある私立大学の准教授で、経営学やマルチメディア・プレゼンテーションを教えている、その分野に関してはいわばプロ中のプロ。著書『プレゼンテーションzen──プレゼンのデザインと伝え方に関するシンプルなアイディア』(ピアソン・エデュケーション、2009)はプレゼン以前の心構え・アプローチに始まり、構想の段階から発表までを幅広く扱う。本書はビジネス部門でベストセラーになったが、教師や学生にとっても有用だろう。続編『プレゼンテーションzenデザイン──あなたのプレゼンを強化するデザインの原則とテクニック』(ピアソン・エデュケーション、2010)は、スライドの事例を豊富に掲載し、ヴィジュアル面に特化している。そして、彼の充実したブログ(英語)──単なるプレゼン論にあらず、人生哲学についても触れられていて勇気づけられる──を読むならば、私たち誰もが可能性を秘めた主役であって、自らが常になにかを能動的につくりあげながら生きている「デザイナー」なのだということに気付かされる。いずれにおいても、ガー・レイノルズの趣旨は、視覚的プレゼンの方法をテクニカルに説くものではない。コミュニケーション・デザインの内奥を論じているのだ。[竹内有子]

2011/02/15(火)(SYNK)

20世紀のポスター[タイポグラフィ]──デザインのちから・文字のちから

会期:2011/01/29~2011/03/27

東京都庭園美術館[東京都]

株式会社竹尾が蒐集したポスターコレクション約3,200点のなかからタイポグラフィを扱ったもの113点を選び、展示するもの。展示は1900年代から1990年代までを、おもに「印刷技術」と「表現様式」によって4つの時代に区分し、多様なタイポグラフィとその表現の変化を追う。
出品されている作品を見てゆくと、公共団体による啓蒙活動や、デザイン団体の展覧会告知が多いことに気がつくだろう。企業のものであっても商品ではなく、イメージ広告が中心である。とくにテキスト中心のポスターにその傾向が強い。この展覧会のために選ばれたポスターがどれほど時代を代表するのかわからないが、そこからは「タイポグラフィを主体とするポスターは、モノを売るためには適していないのか」という疑問が生じる。
図録に収録されている西村美香氏の論考が、この疑問の一端を明らかにしてくれる。たとえば、本展にも出品されている亀倉雄策「ニコンSPポスター」(1957年)は、「クライアントで日本光学がついているものの広告宣伝用というよりも展示会の商品のバックを飾る壁面装飾用であって、もともとは日宣美展出品作品でデザインが先行する実験的作品であった」のである。西村氏は「今日、50年代60年代を代表する日本のポスターとして紹介されているものにはこうしたクライアントのないノンコミッションのものがずいぶんとある」とし、「クライアントもなく大衆に支持もされていないポスターが本当に優れたデザインなのであろうか」と疑問を呈する。はたして、タイポグラフィの試みはどれほど大衆に影響を与え得たのか。どれほどクライアントの要求に応え得たのか。表現に込められたデザイナーの思想、理想は十分に理解できるが、作品への評価には現実社会との接点がよく見えない。同じことが今回の展示、セレクションの方針にも言える。
会場の展示解説はシンプルだが、図録はとても充実している。作品については、デザイナー/タイトル/内容/制作年/国/クライアント/サイズ/用紙(種類・斤量)/使用書体/印刷技法(+色数、線数)という情報まで記載されている。図録の後半がデザイン史研究者による関連研究に充てられているのも特筆される。また「あなたにとってタイポグラフィとは?」という質問に対し、12人のデザイナーがそれぞれ回答を寄せている。ポスター自体はほかでも見る機会があると思うが、図録はいまのうちに入手しておくべきだろう。[新川徳彦]

2011/02/15(火)(SYNK)

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