artscapeレビュー
映像に関するレビュー/プレビュー
パリよ、永遠に
映画『パリよ、永遠に』(監督:フォルカー・シュレンドルフ)を見る。ナチスが占領していたパリから撤退する前に、オペラ座、ルーブル、エッフェル塔、駅や橋などを含む、有名建築を爆破せよというヒトラーの命令が出された。そこで、これを止めさせるべく、ホテルにいるドイツの将軍のもとにスウェーデンの総領事が訪れた。その二人の駆け引きの一夜を描いたものである。舞台となるホテルにも、ナポレオンの歴史的なエピソードが付随していたように、建築や都市は記憶を集積する空間の器だ。しかも、二人の会話は、まちは誰のものか、という問いかけをはらむ都市論にもなる。幸い、パリは破壊されずに、われわれが花の都を享受しているように、未来に生きているわれわれのものでもある。ところで、中東の人質事件を受けた日本の立ち振る舞いに、果たしてこのインテリジェンスはあったのだろうか?
2014/02/03(火)(五十嵐太郎)
永遠の0
映画『永遠の0』を見る。山崎貴の過去作『ALWAYS』などと同様、特撮/CGは見応えがあり、日本映画としてかなり頑張った作品だと思う(もっとすぐれた原作がつけば、本当に傑作がつくれるのでは)。が、物語の内容は、『ALWAYS』と同様、のれない。なるほど、内容は必ずしも好戦的ではないが、自己犠牲の美化ではある。そして、なぜ若者が絶望的な特攻を強要されたのかという当時の背景や社会が説明されないために、結局、不治の病にかかった現代の純愛物語(これも社会を描かない)のようだ。すなわち、死を避けられない特攻は、不治の病と同様、ロマンティックに涙を流させる装置であり、大ヒットするのもうなずける。もうひとつ気になったのは、歴史への態度である。戦時下を描いた最近の最高峰の歴史/小説であるローラン・ビネの『HHhH』と、エンタメの『永遠の0』を比較するのは申しわけないが、やはり歴史を遊んでいると思うのだ。つまり、現代の視点から都合のいいありそうな登場人物をつくり、作家が自分の意見を彼らに語らせ、過去を理想化するフィクションである。一方、『HHhH』は、プラハに送り込まれた二人の青年によるナチスの「野獣」ハイドリッヒの暗殺事件を描いたものだが、著者が歴史と葛藤しながら、著者の都合のいい想像を入れることを、いかに避けながら執筆するかを苦しみながら書いたものだ。歴史を扱うことに関して、頭が下がるような労作である。
2014/02/03(月)(五十嵐太郎)
ザ・イースト
映画『ザ・イースト』を見る。民間のセキュリティ会社の依頼を受けた元FBIの女性が、企業を攻撃する環境テロリストの集団に潜入捜査していくうちに、やがて彼らの思想と行動にひかれていく。国家や既存の善悪の枠組が機能しないグローバル資本主義の世界において、何が「正義」なのかが揺らぐ、社会派のすぐれた作品である。現代社会の一断面をうまく切り取りながら、類例がない設定によるサスペンスとしても面白い。
2014/02/02(日)(五十嵐太郎)
セデック・バレ
映画館で見逃した『セデック・バレ』をようやくDVDで見る。日本統治下の台湾で起きた原住民の武装蜂起事件を描いた作品だが、恥ずかしながら、1930年の霧社事件そのものを全然知らなかった。二部構成で、合計4時間半である。凄まじく気合いの入った大作だ。最近、日本映画にこういうレベルの作品がないことを寂しく思う。日本への不満が蓄積していたとはいえ、霧社事件の大量殺戮が連鎖するきっかけは、実に些細なトラブルだった。むろん、映画の作りがそうなっていることを差し引いても、興味深いのは、日本人が見ても、セデック族を支配し、事件を契機に容赦ない反撃をする日本人よりも、セデック族に感情移入させることだろう。それはセデック族がたとえ民族が滅んでも、負けを覚悟で、誇りのために闘うこと、女性や子どもが集団で自決を選ぶからである。これは太平洋戦争時の日本の悲惨なメンタリティを先取りしたかのようだ。ただし、日本と違い、セデック族の場合は国家が仕向けたわけではない。
2014/02/01(土)(五十嵐太郎)
標的の村
フォーラム仙台にて、ドキュメンタリー映画『標的の村』を見る。オスプレイ配備や高江のヘリパッド建設に対する反対運動を記録したものだが、衝撃的だった。特に「国家」が、座り込みをした「住民」を訴えるSLAPP、すなわち威圧訴訟を行なったこと。しかも、現場にいなかった7歳の少女まで告訴されている。これは沖縄だけの問題ではない。もうひとつ衝撃的だったのは、ベトナム村である。1960年代の初頭、米軍が沖縄の高江にベトナム風の村をつくり、現地の住民にベトナム人の役をさせて、ベトナム戦争のための演習が行なわれた。それから約半世紀後、高江にヘリパッドが建設される。『標的の村』のラストは痛々しい。日本における米軍基地をめぐる反対運動だが、現場では、座り込みを行なう沖縄県民と、やはり沖縄県民であり、排除を行なう警察が激しく争う。SLAPP裁判の流れも、少しずつ訴訟から解放しながら、高江の村民を分断させようとする方向に動いていく。
2014/01/22(水)(五十嵐太郎)