artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

Indiana University At School: group exhibition, Ku─空─Sky Project 2012

会期:2012/11/17~2012/12/29

theory of clouds[兵庫県]

写真作品の展示販売や、「うたかた堂」名義で写真集出版などを行なう神戸のギャラリーTANTOTEMPOが、新たなギャラリーを立ち上げた。theory of clouds(雲の生育理論)という風変わりな名称は、雲から発する雨が大地を潤すように、社会に美と知を届けるギャラリーでありたいとの願いが込められたものだ。活動の特徴は、海外の写真家、写真フェス、学校との連携に注力することで、交換展などプロジェクト主体の運営になる。その第1弾として行なわれているのが本展で、アメリカ・インディアナ大学のアートスクールで写真とアート・マネジメントを教えているオサム・ジェームス・ナカガワを迎えて、5名の若手作家を紹介している。商業的なハードルは高そうだが、これまで関西にはなかったタイプの画廊活動なのは間違いない。今後の活躍を期待する。

2012/11/17(土)(小吹隆文)

石巻市立湊小学校避難所

映画『石巻市立湊小学校避難所』を見る。震災後の7カ月間、ある意味で小学校が急きょ集合住宅にリノベーションされた日々の記録だ。人々が肩を寄せ合い、大きな家族が形成され、仮設住宅に移ることでまた去っていく。テレビで放映されないような本音も聞かれて興味深い。仙台で見たのだが、劇場にいる観衆の雰囲気が東京とまるで違う。

2012/11/14(水)(五十嵐太郎)

アブストラと12人の芸術家

会期:2012/11/11~2012/12/16

大同倉庫[京都府]

美術家の田中和人が発案し、荒川医、小泉明郎、金氏徹平、三宅砂織、八木良太ら12名の作家(田中を含む)が参加した同展。そのテーマを要約すると、「現代における抽象表現とは」。1950年代に隆盛したアメリカの抽象表現主義の延長戦で語られてきた抽象表現を、今一度問い直してみようという意欲的な試みである。広大な倉庫を利用した会場には各作家の作品が十分なスペースを取って展示されており、街中の画廊では得られない美術体験をすることができた。近年、京都ではオープンスタジオをはじめとする作家主導の動きが顕著だが、本展のその流れのひとつであろう。彼らのバイタリティ溢れる行動には敬意を表したい。一方、肝心の「現代における抽象」は作品に託されたのみで、言語化・文書化はされていなかった。それが会期中に明確になるのか否かは定かでないが、一観客としては是非ステートメントを打ち出してほしいというのが本音である。

2012/11/11(日)(小吹隆文)

サウダーヂ

仙台にて、念願の『サウダーヂ』を見る。日本人、ブラジル人、タイ人、政治家、金持ち、労働者、ラッパーなど、シャッター街となった甲府の町をうごめくさまざまなトライブがゆるやかに連鎖する群像である。彼らは、もはや存在しない故郷/過去に憧れながら(=サウダーヂ)、多国籍化した地方都市でリアルに生きていく。まるでドキュメンタリーのような登場人物たちの実在感が半端ではない。『サウダーヂ』は、富田監督の前作『国道20号線』からより進化し、保守的な景観論者が目をそむける現実を描く。数千以上の卒業設計を見たが、こうした世界を扱う建築学生を見たことがない。実際、映画のなかで語られる「建築家」は、政治家と同様、虚飾の象徴として言及される。逆に大地を掘る土方はルーツの探求を意味する。以前、アップリンクで富田克也監督と「ヤンキー講座・ミレニアム」のトークショーを行なった。そのとき彼が、過去20年間に変容したヤンキーの資料映像を編集した作品は面白かった。古きよきヤンキーも、サウダーヂの対象である。鷹野毅が深夜の商店街で幻視したように。富田にとっての甲府もそうなのだろう。

2012/10/29(月)(五十嵐太郎)

希望の国

園子温監督による『希望の国』の形式は原発映画だ。が、その理解だけでは狭すぎる。世界は不条理な外力=杭にあふれており、そこでお上やナショナリズムに救いを求めるのではなく、自己決定によって道を切り開くこと。3組の世代の違う男女は最後にそれぞれの選択を行なう。ゆえに、ラストで「希望の国」のタイトルが出る。実際、南相馬では、映画のように、お隣の家同士のあいだに、境界線が引かれている現場を目撃した。そして登場人物たちの言葉はリアリティをもち重い。とくに老夫婦がそうだ。が、個人的に多くの被災地をまわったせいで、柵や境界線の過剰なつくり込み、ロケ地のワープなどがちょっと気になった。『希望の国』は、黒澤明の『生きものの記録』の3.11以降版と言えるかもしれない。冷戦下の核への恐れが暴走する昭和の家父長制に対し、ポスト冷戦下に実際に起きてしまった原発事故の後に描かれたドキュメンタリー風でもある平成の家族像。ここに黒澤が描いた狂気へのアイロニーはなく、むしろ自己決定のポジティブさがある。

2012/10/28(日)(五十嵐太郎)