artscapeレビュー
映像に関するレビュー/プレビュー
3.11東日本大震災の記録 DVD上映会&講演会/ハノイ建築めぐり
会期:2012/03/10
ベトナム国立図書館[ベトナム・ハノイ]
ベトナム国立図書館にて、震災復興セミナーを行なう。まず震災と復興、世界への感謝と観光を呼びかけるDVDを上映し、高成田享による震災の教訓について講演、そして筆者の3.11以降の建築と都市のレクチャーが続く。午前8時スタートというのは、今まで経験したこの手のものとしてはもっとも朝が早いが、会場は満員だった。ベトナムに地震や津波の自然災害はないが、原発の事故には大きな関心があるようだった。
午後はハノイの建築めぐり。劇場や大聖堂など、フランス仕込み様式建築や近代建築がよく残っている。エルネスト・エブラールらの建築家が挑戦した、ゴシックや古典主義と、ベトナムの現地スタイルを折衷させたデザインも興味深い。
2012/03/10(土)(五十嵐太郎)
カレが捕まっちゃった
会期:2011/03/09~2012/03/09
渋谷オーディトリウム[東京都]
2月の前橋映像祭で上映された江畠香希監督のドキュメンタリー映画。昨年の9月11日に新宿で行なわれた「原発やめろデモ!!!!!」における警察の過剰警備と不当逮捕の実態を記録した。詳細を記述することはあえて控えるが、この記録映像には脱原発デモに対する警察の弾圧(としか言いようがない)が克明に映し出されている。したがって、脱原発デモに参加した人にとって、一見の価値がある映像作品であると断言できる。いや、この困難な時代を生きる者たちこそ見るべき映像と言ってもいい。
原発の全廃を願う大多数の人たちにとって、政府がそれをなかなか遂行しない以上、デモという集団的な表現形式に頼らざるをえないことは変わりがない。ただ、それが警察との折衝を不可避としており、かつての労働運動や学生運動がその応酬によって極限化してゆき、やがて疲弊しながら自滅していった歴史的経緯を考えれば、今後の脱原発運動はデモ以外の集団的な表現形式を開発するべきだと思う。脱原発運動の内実が多様であるように、その表現形式もまた多様であっていい。デモの祝祭性は不可欠だが、多大な時間を必要する原発の廃炉を達成するには一時的な祝祭性が必ずしも有効であるとは限らない。であるならば、脱原発運動を記録したこの映画は、そのオルタナティヴな選択肢のひとつになりうるはずだ。というのも、この映画には脱原発を願って行動する人間に通底する心模様が鮮やかに映し出されており、それをある種の「共通感覚」として共有することが期待できるからだ。
いまやプロジェクターと平らな壁があれば、たとえ映画館でなくとも、上映会の開催はどこでも可能である。オルタナティヴ・スペースやカフェ、大学、民家、廃屋、あるいは神社仏閣など、使える場所はまだまだある。「カレが捕まっちゃった」を上映して来場者同士で議論する場を、全国津々浦々、ありとあらゆる街角に広げていくこと。そのような闘い方を、レイヤーのようにデモの上に重ねることで、現在の脱原発運動を今後もたしかに持続させていくための「厚み」と、心の底で脱原発を願っているにもかかわらず、それを表現することに躊躇している大多数の人びとを受け入れることのできる「拡がり」が生まれるのではないだろうか。
2012/03/09(金)(福住廉)
タイム
会期:2012/02/17~2012/03/15
TOHOシネマズ日劇[東京都]
生命の時間を貨幣に置き換えたSF映画。富める者がいつまでも若いまま半永久的に生存できる反面、貧しい者はわずか20数年しか生きながらえることができないという設定が、今日の新自由主義的な資本主義経済の暗部を巧みに照らし出している。若々しい美しさという特権、社会階層に応じて居住空間を切り分けるゲーティッド・シティ、生存のための労働が生命の時間を削るという究極的な逆説。今日の現代社会が抱える諸問題がこれでもかと言わんばかりに盛り込まれているため、この映画にはSFらしからぬ生々しいリアリティが醸し出されている。ただその一方で、惜しむらくは、物語がきわめて凡庸な筋書きに陥ってしまっているところ。『俺たちに明日はない』のような強盗劇はともかく、ボニー&クライドのような悲劇的な結末を巧妙に回避したうえで、安っぽい革命賛歌に終始しているのは、ハリウッド映画の限界というべきか、それともあくまでもフィクションに徹したというべきか。これでは、今日の恐るべき現実にとても太刀打ちはできまい。
2012/03/01(木)(福住廉)
絵描きと戦争
会期:2012/02/11~2012/03/02
渋谷オーディトリウム[東京都]
木村栄文監督による伝説的な映像作品。「フジタよ、眠れ」を含む同名の著作がある菊畑茂久馬が監修に加わり(『菊畑茂久馬著作集1』)、出演もした。絵描きにとって戦争とはなんだったのか。藤田嗣治と坂本繁二郎の対照的な足跡をたどりながら、この問いについて考えるドキュメンタリーだ。おもなインタビュアーはテレビドラマ《白い巨塔》(1978年)で知られる俳優の山本學で、木村栄文が聞き手を務めた部分もある。菊畑による軽妙な語り口をはじめ、山本學のオフショットをあえて挿入するなど、さりげなくユーモアを重視した編集によって、重厚長大になりがちな主題をじつにバランスよく見せている。いわゆる「戦争画」をめぐって交わされる美術関係者による証言の数々も、非常に率直に述べられており、建前の向こうに隠されがちな本音の言葉に、思わず吹き出してしまうことがあるほどだ。私たちが最も必要としているのは、「戦争画」についての学術的で専門的な研究とは別の次元で、「戦争画」について知り、話し合い、そして考えることができる、このように親しみやすく、わかりやすい映像なのだ。原子力という内なる敵との戦争が始まってしまったいま、新たな「戦争画」は描かれるのだろうか。藤田が正面から挑み、坂本が回避した戦争とは比べ物にならないほど抽象度が高まり、眼に見えることすらなくなってしまった戦争を、絵描きはどのように表現するのだろうか。そして、世界のすべてが可視化されうるほど視覚が強大であるにもかかわらず、肝心なことは闇に包まれているという大いなる逆説の時代において、木村栄文に匹敵する映像作品は現われるのだろうか。
2012/03/01(木)(福住廉)
いまは冬
会期:2012/02/11~2012/03/02
渋谷オーディトリウム[東京都]
RKB毎日放送のディレクター、木村栄文によるドキュメンタリー番組。1972年に制作された35分の短編で、「地の塩の箱」運動の主催者であり詩人の江口榛一に密着した。鍵のない募金箱を全国に設置して、豊かな者は金銭を投入し、貧しい者はそこから借り受けるという運動に身を費やす江口をとらえた映像を見ると、その理想と現実のはざまを、あくまでもたくましく生きようとする姿に圧倒される。それが、例えば人力飛行機というロマンを追究する男を記録した《飛べやオガチ》にも通じていることを思えば、木村栄文の眼を離さなかったのは、おそらくそのようにして両極のあいだで揺れ動きながらも、明るく、壮健に前に進むことを自らに課した人間の生き様だったのではないかと思えてならない。そのように振舞いながらも、どこかで哀愁や憂いを感じさせる人間を、木村は撮りたかったのだろう。
2012/02/27(月)(福住廉)