artscapeレビュー
映像に関するレビュー/プレビュー
AKB48ドキュメンタリー第2弾『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on少女たちは傷つきながら、夢を見る』
会期:2012/01/27
全国東宝系
AKB48の第一弾は映画として全然ダメだと思ったが、TBSラジオにおけるライムスター宇多丸のレビューを聴いて、二弾を劇場で見る気になった。これはすさまじい作品である。震災とアイドルの絶頂期が重なる偶然も作用し、奇蹟が起きている。大槌町、宮古市、陸前高田市、気仙沼市、多賀城市など、映画で紹介された彼女らがまわった被災地は、すべて筆者も実際に歩いていたので、(彼女たちの目に映っていたであろう)画面の外側の風景が鮮やかに思い出される。これはまぎれもなく一種の震災をめぐるドキュメンタリー映画でもあり(彼女たちの苦労や、アイドルの存在意義が問われる危機ともかぶってくる)、おそらく、被災の程度で見方が変わるだろう。総選挙、ライブ、ジャンケン大会など、所詮ショーはつくりもののコップの中の嵐なのだが、過度な負荷がかかることで、アイドルの生身の人間としてのリアルな身体性が残酷なまでにあらわになってしまう瞬間がある。映画で幾度も挟み込まれる、自由学園明日館で撮影された綺麗なインタビュー映像(逆に、第一弾はこればっかりだった)と対比的なのも興味深い。それにしても、エンターテイメントのために、こんなに負荷をかけて大丈夫なのか? と思わざるをえない。
2012/02/26(日)(五十嵐太郎)
恵比寿映像祭 映像のフィジカル
会期:2012/02/10~2012/02/26
東京都写真美術館[東京都]
4回目の恵比寿映像祭。ウィリアム・ケントリッジやサラ・モリス、大木裕之など国内外14組のアーティストによる映像作品が展示された。映像技術のハイ・テクノロジーを追究する作品もあれば、あえてロー・テクノロジーを見せる作品もあり、その雑然とした展示は、映像の時代における百花繚乱を象徴しているとも言えるが、たんにアーティスティックなイメージの垂れ流しとも言える。長時間の鑑賞に堪えない作品が大半を占めていたなか、ひときわ異彩を放っていたのが、東京シネマによる科学映画。テレビを生産する工場のラインをつぶさに追跡したり、配電盤をクローズアップでとらえたり、その映像の質がいちいち魅力的でたまらない。それは、あるいはアナログ映像で育った世代に特有のノスタルジーにすぎないのかもしれないが、その一方で、現在の映像表現が直面している限界を示唆しているようにも思われた。日常生活の隅々まで侵食するほど映像が氾濫しているがゆえに、例えばかつての「ビデオアート」のように、映像というメディアが「アート」という価値を半ば自動的に担保することが難しくなった現在、私たちはいかにもアーティスティックな映像に辟易しているのではないか。むしろ「記録」という映像の最も基本的な機能に、「アート」は反転してしまったように思えてならない。
2012/02/23(木)(福住廉)
『ニーチェの馬』トークショー
会期:2012/02/19
シアター・イメージフォーラム[東京都]
トークのために、劇場にて鑑賞した。前はコメントを寄稿するため、DVDだったが、これは「映画館」で見るべき作品である。上映終了後、再び光に包まれる劇場の意味は家では絶対にわからない。また絶えず吹きすさぶ強風も大きな画面が必要だ。鑑賞しながら、長回しを時計で確認したが、ワンカット平均5、6分だった。実際、2時間半で30カットらしいので、計算通りである。『ニーチェの馬』は日常の反復を描くが、じゃがいもを素手で食べるシーン。1日目は父、2日目は娘を中心に映し、3日目は窓側から2人を、5日間は室内側から2人を、そして6日目は……という風に、反復しながら、状況に合わせて変容していく。繰り返される窓の外を眺めるシーンも、四日目に初めて屋外側から映すのも興味深い。家に閉じ込められているかのようだ。これは窓映画である。タル・ベーラの『ヴェルクマイスター・ハーモニー』や『倫敦から来た男』にも類似したショットはある。前者はそれ以外にも開口の人影の印象的なシーン、後者は窓まわりの光と影の美しい効果を表現しているが、『ニーチェの馬』がもっとも窓の実在を考えさせる。
2012/02/19(日)(五十嵐太郎)
松原健「眠る水」
会期:2012/02/03~2012/03/04
MA2 Gallery[東京都]
恵比寿映像祭の連携企画として開催された松原健の新作展。こういう作品を見てもデジタル映像機器の進化が、写真家やアーティストにのびやかな発想の広がりをもたらしていることがわかる。彼がこのところこだわり続けているベトナムの少年、少女たちをモデルにした「眠る水─メコンデルタ」の連作がメインの展示で、メコンデルタの河を静かに流れていく彼らの様子を上から撮影したモノクロームの映像が、筒状のガラス容器の中に入れられた小型の液晶モニターに映し出されている。容器の内側がハーフミラー加工されているので、映像は揺らめき、分裂しているように見える。ゆっくりと河の流れに乗って上昇していく5人の子どもたちの姿は、ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」を思わせるが、悲劇性や耽美性はあまり感じられず、むしろ清々しい開放的な雰囲気に仕上がっているのがいかにも松原らしい。
ほかにも、グラスの縁からあふれ出る水(「眠る水─コップの中の嵐」)、焔を上げる鹿の角(「眠る水─エゾ鹿」)、4つの都市の女の子たちが次々に蝋燭の火を吹き消していく場面(「ブラスチバ、ホーチミン、タイペイ、トウキョウ」)など、さまざまな容器に小型液晶モニターを仕込んで映像を流す作品が展示されていた。アイディアを形にしていく手際の鮮やかさはもちろんだが、全体に記憶の一場面を小さな器に封じ込めるという松原の志向が一貫して感じられて、静謐に美しく結晶した映像世界が構築されつつあると思う。
2012/02/16(木)(飯沢耕太郎)
第4回恵比寿映像祭「映像のフィジカル」
会期:2012/02/10~2012/02/26
東京都写真美術館ほか[東京都]
毎年2月ごろに開催されている恵比寿映像祭も4回目を迎えた。年々規模を拡大し、関連企画や恵比寿周辺のギャラリー、文化施設などでの連携展示の数も増えているので、とても全部は見切れない。特に僕のように写真(静止画像)を中心にフォローしている者にとって、映像作品の展示やインスタレーションを見ることは、正直しんどい。タイムリミットは3分くらいで、それ以上長い作品だと腰が落ちつかなくなってしまうのだ。
だが、東京都写真美術館を全館(3階、2階、地下)使った展示をざっと回ってみて、ここ数年の間に映像作品をめぐる環境がずいぶん違っていることに気づかされた。今年の出品作家はマライケ・ファン・ヴァルメルダム、ヨハン・ルーフ、スッティラット・スパパリンヤ、ウィリアム・ケントリッジ、サラ・モリス、前沢知子、伊藤隆介、東京シネマ(岡田桑三、小林米作、吉見泰ほか)、ヂョン・ヨンドゥ、大木裕之、ユリウス・フォン・ビスマルク、カロリン・ツニッス&ブラム・スナイダースSitd、ユェン・グァンミン、鈴木了二。多種多様としか言いようのない取り合わせだが、近年のデジタル・メディアと画像モニターの進化によって、視覚経験の拡張を簡単に、しかも驚くほど効果的におこなうことができるようになっていることがよくわかった。トリッキーな視点の移動、切り替えを映像の中にダイナミックに取り入れていくマライケ・ファン・ヴァルメルダムやユェン・グァンミンの作品はその典型と言える。
だが一方で、画像処理の高度化は逆に視覚的な印象の均質化につながることも多い。そこで今回の映像祭のテーマである「フィジカル」=物質性へのこだわりが注目されるようになるのだろう。伊藤隆介やウィリアム・ケントリッジの素朴で手触り感のある映像が、むしろ記憶に食い込んでいく力を発揮することになるのだ。とても興味深く見たのは東京シネマが製作した1960年代の科学映画。その近未来を志向する映像は当時としては最先端だったはずだが、今見るとかなりレトロっぽく、それが逆に新鮮な印象を与える。ちなみに東京シネマのプロデューサーの岡田桑三は戦前に名取洋之助、木村伊兵衛らと日本工房を設立したり、東方社から海外向け軍事宣伝雑誌『FRONT』を発行したりしていた人物である。彼の卓越したヴィジュアル化の能力が、戦後になって科学映画というジャンルで花開いていたのが面白く、意外でもあった。
2012/02/16(木)(飯沢耕太郎)