artscapeレビュー
映像に関するレビュー/プレビュー
彼女が消えた浜辺
会期:2010/07/07
京橋テアトル試写室[東京都]
2009年制作のイラン映画の試写会。アスガー・ファルハディ監督作品。カスピ海沿岸のリゾート地で繰り広げられるミステリーで、人間の心理の奥深くを丁寧に浮き彫りにする傑作である。脚本も役者の演技も撮影技術も音楽も、つまり映画のどの側面を見ても、文句のつけようがないほど、すばらしい。善意から生んだ嘘がしだいに自分の首を絞めていき、疑心暗鬼と謎が深まっていく展開は、まるで良質の演劇を見ているようで、最初から最後まで画面から意識が離れることがない。私たちがイランの人びとの暮らしぶりを知る機会は決して多くはないが、中産階級の富の象徴として村上隆によってデザインされたルイ・ヴィトンのバッグ(モノグラム・マルチカラー)が登場しているように、ライフスタイルとしてはほとんど大差ないという事実を垣間見ることができるのも、見どころのひとつ。9月1日より順次ロードショー。
2010/07/07(水)(福住廉)
『ザ・ウォーカー』
会期:2010/06/19~2010/07/22
丸の内ピカデリー[東京都]
アルバート・ヒューズ、アレン・ヒューズ監督作品。出演はデンゼル・ワシントン、ゲーリー・オールドマンほか。マッドマックス的な近未来世界を描いたアクション映画だが、クリアでシャープな映像と不自然なほど小奇麗なファッションのおかげで、どうにもMTVのような軽さを感じてならない。そのため、物語の重要なアイテムとなっている「聖書」の存在が奇妙に浮き足立ち、結果的に物語のすべてがキリスト教賛美のイデオロギーに回収されてしまった。中国やアラブ諸国の急成長によって脅かされつつある西洋社会の合理的な秩序を世界に再建しようとする「保守反撃」の映画に見えた。
2010/07/01(木)(福住廉)
パラモデルの 世界はプラモデル
会期:2010/06/26~2010/08/01
西宮市大谷記念美術館[兵庫県]
パラモデルといえば玩具のプラレールを用いた無限増殖的なインスタレーションが思い浮かぶ。しかし、彼らは絵画、写真、映像、立体の小品など、さまざまなジャンルの作品を発表している。本展はそんな彼らのバリエーションを網羅的に示した点に意義がある。もちろんインスタレーションも実施されており、プラレールのほかパイプを用いた大作も見られた。ただ、彼ら自身が直接作業をする中小企業的な制作スタイルは、規模的にそろそろ限界ではないか。これ以上になるとゼネコンよろしく下請けを使いこなす方向に移行せざるをえないかもしれない。その意味でも、本展はパラモデルの重要な折り返し点と位置付けられる可能性がある。
2010/07/01(木)(小吹隆文)
第6回馬橋映画祭
会期:2010/05/29~2010/05/30
「作品のジャンル、監督のキャリア、その他オールバラバラ映画祭」。いってみれば、アンデパンダン展の映画版で、何から何まですべて手作りの映画祭だ。入場も無料。6回目を迎えた今回は、20組による作品が5つのブロックに分けられ、この回はNaka-O「絶体絶命」、川辺雄「あなたは誰の神話なのか?」、ISHIKAWA Haruka「Leur passage」、じゃましマン「そう病の記録」が上映された。限界芸人・じゃましマンの初期の活動を記録した貴重な映像も見ものだったが、ISHIKAWA Harukaの映像にも眼を奪われた。窓の向こうのブロック塀の上を行き交う猫たちを定点観測した映像で、固定カメラを無視して堂々と歩く猫から何かと室内を伺う猫まで、性格の異なる生態を巧みにとらえた。編集もおもしろい。
2010/05/30(日)(福住廉)
『アヒルの子』
会期:2010/05/22
ポレポレ東中野[東京都]
2005年制作の小野さやか監督作品。みずからの家族をモチーフにしたドキュメンタリー映画で、カメラとともに親兄弟一人ひとりに向き合うことによって、表面的には模範的に見える「家族」を内側から突き崩していく。なるほど、ヒリヒリとするような内面を剥き出しにしながら、個人的な物語を語る「私映画」ではある。けれども、この映画が特異なのは、観客にとって未知の「家族」の内実が曝け出されているからではない。それは、「家族」の構成員にとっても(おそらくは)見知らぬ秘密さえも暴き出している。妹である小野監督を中心に、両親や2人の兄、姉と一対一の関係性に沿って明らかにされる事実や思いは、それぞれ固有のものであり、「家族」として共有されているわけではないだろう。小野が文字どおり涙と嗚咽とともに浮き彫りにしたのは、「家族」というもっとも身近で、だからこそ厄介な近代的な社会集団が、決して一枚岩のものでも安定したものでも何でもなく、それぞれ固有の関係性を維持したり隠すことによって辛うじて成立する、脆くも儚い人工的な作り物であるということだ。その意味で、「家族」に復讐するという小野の企ては、「家族」にとらわれていた自分自身との対決でもあった。
2010/05/22(土)(福住廉)