artscapeレビュー
映像に関するレビュー/プレビュー
新incubation2「Stelarc×contact Gonzo─BODY OVERDRIVE」展
会期:2010/10/30~2010/11/28
京都芸術センター[京都府]
身体にフックをつけて吊り下げられるパフォーマンスで知られ、近年は医学やロボット工学を取り込んだ作品を制作しているステラークと、ストリートファイトから導き出される過激なパフォーマンスで知られるcontact Gonzo。ベクトルは違えど、“肉体”という共通のキーワードを持ち、見る者に本能的な衝撃を与える両者を共演させるとは、何とも大胆な試みだ。しかし、彼らの真骨頂を体感できるのは、やはりライブ・パフォーマンスしかない。contact Gonzoは会期中に二度、ステラークはロンドンからのWEB中継を一度行なったとはいえ、ほとんどの期間は資料展的な見せ方にならざるをえないのが本展の限界だ。美術展の枠内でパフォーマンスを扱うことの難しさを、改めて実感した。ただし、北ギャラリーでcontact Gonzoが行なったサウンド・インスタレーションは別物。ライブの素材から新たな価値をつくり出すことに、見事に成功していた。
2010/11/16(火)(小吹隆文)
悪人
会期:2010/09/11
TOHOシネマズシャンテ[東京都]
小説を映画化するのは難しい。それは、実写で描かれたイメージが文字から連想したイメージとかけ離れていることが少なくないからであり、小説のボリュームを収めることのできない映画は必然的に小説の重要な構成要素をそぎ落とすことを余儀なくされるからだ。吉田修一原作、李相日監督作品による本作も、残念ながらそのパターンにはまってしまった。束芋が着想を得たという風俗嬢は映画には含まれていなかったし、だから主人公の男のいたいけな性格を十分に描ききれていなかった。さらに重大な欠落は、悪人と善人、正義と不正義をきれいに振り分けることができないことを描写するのが小説の肝だったにもかかわらず、この映画の重心はどちらかというと人間の美しいところに傾いており、醜いところをほとんど描くことができていなかった点だ。主演の妻夫木聡と深津絵里(の演技)が美しすぎるうえ、物語の終盤の舞台となる灯台のシーンもあまりにもロマンティックにすぎる。2人が灯台を目指す動機がきちんと説明されないまま物語が進んでしまうから、夕日に染まった広い海を前に純愛のあれこれを見せつけられても、こっちはなんだか困ってしまう。唯一気を吐いていたのが、岡田将生。軽薄短小、卑怯卑劣な男をこれでもかというほど演じてみせ、ついついうっとりしてしまいがちな物語の偏りにひとりで歯止めをかけた。岡田が演じた悪人が、強がりながらも一瞬見せる悔恨の情こそ、この映画の見どころである。
2010/11/14(日)(福住廉)
ANPO
会期:2010/09/18
アップリンク[東京都]
期待が高かっただけに、肩透かしを食らった。リンダ・ホーグランド監督による本作は、60年安保をテーマとしたドキュメンタリー映画。当時を知るアーティストなどへのインタビューと関連する美術作品を織り交ぜた構成は、全体的に単調で、同じ地点でぐるぐると何度も自転しているような印象を覚えてしまう。おそらく、それは対話の水準が肉体から離れていることに由来しているのではないだろうか。回顧的な言葉にしろ、心情的な言葉にしろ、いずれにせよそこで交わされる言葉には肉体の次元が大きく欠落しているため、正直にいえば、どこか空々しい。とはいえ、それが安保を知る世代にとってはある種のノスタルジーを、知らない世代にとってはある種の啓蒙の機会を、それぞれ与えることは想像に難くない。けれども、ほんとうに重要なのは、安保の問題がかたちを変えながら今現在まで継続していること、私たちの暮らしの根底を規定するアクチュアルな政治的課題であること、だからこそノスタルジーや啓蒙が不必要であるわけではないにせよ、その段階で満足しているようではまったく問題にならないことである。必要なのは、肉体で安保を受け止めることができる映像だ。たとえば沖縄在住の彫刻家・金城実と読谷村村議の知花昌一らによる反米軍基地闘争を追った西山正啓監督のドキュメンタリー映画「チビチリガマから日本国を問う!」は、被写体の肉体が安保と格闘しているばかりか、それらを伝える映像が鑑賞者の肉体に安保を強く働きかけてくる。これと比較すると、本作には映像の面でも言葉の面でも肉体を撃つほどの強さは感じられなかったといわざるをえない。
2010/11/05(金)(福住廉)
ヘブンズ・ストーリー
会期:2010/10/02~2010/11/05
ユーロスペース[東京都]
映画で重要なのは、そのはじまりと終わりにあると思う。双方がよければ、あいだが多少拙くても、なんとか容認できる。けれども、逆の場合はやっかいだ。せっかく美味い料理を味わったのに、感じの悪い給仕に台無しにされてしまうようなものだ。瀬々敬久監督による本作は4時間半を超える渾身の作品。家族を殺された遺族による犯人への復讐をめぐって綴られる叙事詩のような物語は、全9章からなる長大な構成にもかかわらず、緊張感を失わない映像美も手伝って、いっときも眼を離すことができない。映画とはかくあるべしと想いを新たにするほど、見応えがあるといってもいい。ただし、正直にいって、主人公の少女が犯人に殺害された家族の霊と対面する終盤のシーンには、たいへん興醒めさせられた。休閑期のゲレンデのような山の斜面で遊ぶ子どもたちを映した冒頭の美しいシーンと対応していることはよくわかるのだが、それまで現実的な水準で物語を冷徹に描いていたのに、最後の最後で陳腐な夢物語に回収してしまったからだ。予兆がないわけではなかった。数回にわたって被弾しているのに、なかなかくたばらない銃撃シーンはあまりにも通俗的だし、その銃撃戦で死ぬ間際に男が青空にそびえ立つ鉄塔を見上げるシーンも、霧の中を突き進むバスの中で死者と出会うシーンも、等しく凡庸である。どこでも見たことがなかった映像が、急にどこかで見たような映像に切り替わってしまったわけだ。この落差と落胆は大きい。物語にたびたび頻出する団地を見ていると、「ここはいったいどこなのか?」と思わずにはいられないが、だからこそ団地という記号は、どこでもないがゆえにどこでもありうる物語の汎用性を映画の裏側から保証していた。けれども、どこかで見たような映像はそうした物語の拡がりを逆に狭めてしまう。肝心の味がよいだけに、後味の悪さが際立ってしまって、なんとももったいない。
2010/11/05(金)(福住廉)
比嘉豊光「骨からの戦世(いくさゆ) 65年目の沖縄戦」
会期:2010/10/29~2010/11/05
明治大学駿河台キャンパス アカデミーコモン1F展示スペース[東京都]
沖縄の写真家、比嘉豊光は1997年から琉球弧を記録する会を組織し、古老たちが沖縄言葉で語る第二次大戦中の記憶を映像、写真などで記録する「島クトゥバで語る戦世」などの作品を発表し続けてきた。今回の「骨からの戦世 65年目の沖縄戦」もその延長上にある仕事である。2010年8月に沖縄の佐喜眞美術館で開催された展示を見ることができなかったのが心残りだったのだが、ありがたいことに東京展が実現することになった。
50余点の写真は沖縄本島の浦添市前田と那覇市真嘉比、西原から出土した日本兵の遺骨を、多くはクローズアップで撮影している。「65年目の沖縄戦」というサブタイトルに万感の思いが込められており、見る者はいやおうなしに沖縄全域が戦場と化した「戦世」の凄惨な状況を思わずにはいられない。だが、比嘉はあらかじめ意味づけされた枠組みを写真から注意深く排除し、ただそこにある「骨」を静かに差し出すだけだ。泥や塵がこびりついた骨たちは、丁寧に水で洗われ、不思議に優雅なフォルムと質感の物体となってそこにある。見続けているうちに、それらが何事かを語りかけてくるような気がしてくる。まずは、しばしその声に耳を傾けるベきなのだろう。
同時に上映されていた映像作品「骨からの戦世──脳が出た」では、頭骨の汚れを洗い流しているうちに、その中から半ばミイラ化した脳漿が出てくる。ここでも何らドラマチックな演出なしに、その事実が淡々と報告されるだけなのだが、激しく揺さぶられるものを感じた。ありえないことだが、頭骨の中の脳が65年という時間を生き続け、今なお何かを「考えて」いるのではないかという思いにとらわれてしまう。比嘉豊光の写真や映像作品を見ていると、見ているはずの自分が逆にその中から見つめ返されていることに気がつく。今度の展示でも、骨やミイラ化した脳漿がこちらをじっと見ているように感じるのだ。
2010/11/02(火)(飯沢耕太郎)