artscapeレビュー

映像に関するレビュー/プレビュー

加川広重 巨大絵画が繋ぐ東北と神戸2015

会期:2015/01/10~2015/01/18

デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)[兵庫県]

画家の加川広重が東日本大震災の被災地を描いた巨大絵画を神戸で展示することにより、阪神・淡路大震災を経験した人々が当時を思い出し、同時に今困難な状況にある人たちと思いを共有しようとするプロジェクト。加川のほか、建築家・宮本佳明の《福島第一原発神社》の展示、写真家・山岸剛の個展をはじめとする写真展、コンサート、ダンス、パフォーマンス、トーク、ワークショップ、朗読、映画上映など多彩なイベントが行なわれた。筆者自身、まさかこれほど大規模なイベントだとは知らずに会場に赴き、その充実ぶりに驚かされた。会場のデザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)は、デザインを基軸にした市民の交流と実践と情報発信の場として2012年に開設された施設だが、こうしたプロジェクトの現場として機能しているならつくった甲斐があるというものだ。

2015/01/11(日)(小吹隆文)

シンシティ 復讐の女神

『シン・シティ 復讐の女神』(監督:ロバート・ロドリゲス、フランク・ミラー)を見る。女性が関わる、2つの復讐劇が物語の主軸をなす。前作と同様、漫画の世界観を同じ手法の白黒による劇画的な画面(一部カラーとなるが)によって映像化し、ある意味では予想通りのノワールだ。今回、ファム・ファタルのテイストが、より強調されたのは、『300』に続き、エヴァ・グリーンがはまり役の存在感ある悪女だからだろう。

2015/01/10(土)(五十嵐太郎)

インターステラー

会期:2014/11/22

丸の内ピカデリー[東京都]

クリストファー・ノーランによる最新作。宇宙を舞台にした冒険活劇の体裁をとりながら、その内実は父娘のあいだの絆を描いた人間ドラマである。そのいかにも凡庸な主題は、ややもすると陳腐で退屈な印象を与えかねないが、それを巧妙に回避しているのが、抑揚のある物語展開と、入念につくり込まれた映像美だろう。
冒頭、不意に飛来したドローンを追って主人公の親子がトウモロコシ畑の中を車で突っ走るシーンで、物語に一気に引き込まれる。次々となぎ倒されるトウモロコシ。ここで表わされているのは、地球規模の環境汚染による食糧難のため、いまや希少な食料源となったトウモロコシを踏み倒してまでもドローンを捕獲しようとする父親のすさまじい執念と並外れた行動力である。このシーンで主人公の性格が端的に示されたと言ってもよい。
だが、それより何より私たちの眼を奪うのは、青々とした広大なトウモロコシ畑の中に車輪が引いていく線であり、この大地に刻まれる線の運動性は、そのような「意味」を読み取るより前に、鑑賞者の視線を釘づけにしたに違いない。映画の醍醐味のひとつが、言語より速い速度で眼球を独占する映像美にあるとすれば、それは必ずしもCG技術に依存しているわけではなく、むしろアースワークやランドアートのような泥臭い水準でも成立しうることを、本作は実証していた。
ところでトウモロコシ畑といえば、類似した作品として『フィールド・オブ・ドリームス』が挙げられる。父親と娘という違いがあるものの、ともに親子の和解を主題としており、ともにトウモロコシ畑と野球場を主要な舞台装置としているからだ。違うのは、『フィールド・オブ・ドリームス』のトウモロコシ畑が別世界への通路として描写されていたのに対し、本作における別世界への通路はガルガンチュア(ブラックホール)とされていた点である。さらに前者の主人公はトウモロコシ畑の野球場でゴーストとしての父親を待ち受ける側だが、後者の主人公は宇宙の五次元空間へ飛び、その闇から娘を見つめるゴーストと化す。
わたしには見えないが、向こうからは見えているような気がする。これは、例えば霊場や墓場で経験しうる特殊で非日常的な感覚だが、本作のもっとも大きな功績は、「わたし」としての娘と「向こう」としての父親の双方の視点から物語を描写することによって、近接しながらも隔てられた両者のあいだの距離感をまざまざと浮き彫りにした点である。「わたし」と「向こう」は、家庭の中であれ地球の外の宇宙であれ、つまり物理的な距離にかかわらず、近づきつつも遠く隔てられている。だが逆に言えば、そのような絶対的な距離があればこそ、「わたし」は「向こう」を感知することができるのだろう。

2014/12/29(月)(福住廉)

Stolen Names

会期:2014/12/19~2014/12/27

京都芸術センター[京都府]

「作品に関わるおよそ全ての情報(あるいは手がかり)が盗まれた状態にあ」り、作品がただ作品として、会場に混在するというコンセプト。床には漢詩が書かれ、粘土による造形が置かれている。または、モニターに映し出される集団行動、なにものかの資料などなど。そもそもタイトルしかテキストがない中、まったく心にひっかからない自分が居て、コンセプトにある「作品と向き合う時、いつから私たちは答えを求め、手がかりを探し続けるようになったのだろう」状態に。しかし、その空間自体の魅力や展覧会としてのトータルのおもしろさにまでたどり着くことが出来ない(と感じ)退室してしまった。会期中、名前を語らない放送室のようなプロジェクトなどが関連企画として行われ、ウェブサイト(http://stolen-names.tumblr.com/)にて公開されている。会場風景、ウェブ上には2時間強の映像作品もあり、試みとしては、ここを見るだけでもけっこう満足。では会場では、どう味わえば良かったのだろう。会場にいたのは短い時間、瞬く間の記憶としてだが、もう少し私の心に残ってくれそうではある。

2014/12/27(土)(松永大地)

『ザ・メイズ・ランナー』、『ザ・ギバー』

日本ではまだ公開されていない『ザ・メイズ・ランナー(THE MAZE RUNNER)』(監督:ウェス・ポール)と、『ザ・ギバー』(フィリップ・ノイス、原作:ロイス・ローリー)は、よく似た設定だった。前者は記憶を失った青年らが巨大な壁の迷路に囲まれた世界に送り込まれ、そこで安定しかけてきた共同生活を継続するか、危険と向きあい脱出するかの選択を迫られる。後者は歴史、感情、色彩が抹消された、白い家が並ぶ郊外住宅地のようなユートピアにおいて、過去の記憶を学ぶ役割を担わされた主人公が閉じた世界の外に向かう。

2014/12/25(木)(五十嵐太郎)