artscapeレビュー

その他のジャンルに関するレビュー/プレビュー

プレビュー:Exhibition as Media 2013蓮沼執太 展「音的→神戸|soundlike 2」

会期:2013/11/02~2013/11/20

神戸アートビレッジセンター[兵庫県]

音楽作品のリリース、ライブパフォーマンス、展覧会、ワークショップ、イベント制作、CM、映画への楽曲提供など、音楽を中心に幅広く活動する蓮沼執太が、関西初個展を開催。今年2月にアサヒアートスクエア(東京)で行なった初個展「音的」の出品作品に加え、アフリカ・ナイロビや神戸・新開地をフィールドワークして制作した新作を展覧。ギャラリー、シアター、スタジオを備えた会場の特性も生かし、彼の「音的」世界を神戸から発信する。

2013/10/20(日)(小吹隆文)

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プレビュー:あなたの肖像 工藤哲巳 回顧展

会期:2013/11/02~2014/01/19

国立国際美術館[大阪府]

1994年以来、約20年ぶりに開催される工藤哲巳の大回顧展。日本初公開を含む代表作約200点が展示されるほか、1962年の「第14回読売アンデパンダン展」に出品された伝説的作品《インポ分布図とその飽和部分に於ける保護ドームの発生》(ウォーカー・アートセンター蔵)が50年ぶりに帰国、さらには多数の記録写真と関連資料、ハプニングの秘蔵映像(初公開)と話題満載の内容だ。規模的にも前回の1.5倍に拡大しており、工藤展の決定版となるだろう。

2013/10/20(日)(小吹隆文)

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関東大震災から90年─よみがえる被災と復興の記録─展

会期:2013/10/12~2013/10/20

湘南くじら館スペースkujira[神奈川県]

関東大震災直後に発行された新聞や雑誌、写真集、絵葉書などを見せた展覧会。大変貴重な資料の数々が、決して広くはない会場に所狭しと展示された。関東大震災関連の展覧会といえば、「関東大震災と横浜─廃墟から復興まで」(横浜年発展記念館)や「被災者が語る関東大震災」(横浜開港資料館)、「レンズがとらえた震災復興─1923~1929」(横浜市史資料室)、「横浜港と関東大震災」(横浜みなと博物館、11月17日まで)などがほぼ同時期に催されたが、本展の醍醐味は、展示された資料をガラスケース越しにではなく、肉眼で間近に見ることができるばかりか、部分的には直接手にとって鑑賞することができる点にある。古い資料が発するオーラを体感できる意義は大きい。
そのなかで気がついたのは、当時のメディアが現在とは比べ物にならないほど直接的に震災の被害を伝達していることである。新聞には現在では必ず回避される被災者の遺体を写した写真が掲載されているし、震災で破壊された街並みを印刷した絵葉書も飛ぶように売れたらしい。むろん、当時はメディアをめぐる社会的なコードが未成熟だったことや、そもそもメディアの種類が乏しかったことにもその一因があるのだろう。
けれども、同時にまざまざと実感できたのは、当時の人びとにとって震災は、伝えたい出来事であり、知りたい出来事でもあったという、厳然たる事実である。より直截に言い換えれば、当時の写真家や絵描きたちは、関東大震災によって、身が震えるほど表現意欲を掻き立てられたのだ。展示された資料の向こうには、夢中になってシャッターを切る写真家や、嬉々として絵筆を振るう絵描きたちの姿が透けて見えるようだった。かつて菊畑茂久馬は戦争画を描いた藤田嗣治の絵描きとしての心情を想像的に読み取ったが、それは関東大震災を主題とした写真家や絵描きたちの心の躍動と重なっているのかもしれない。
「私は偉大な破壊が好きであった。私は爆弾や焼夷弾に慄きながら、狂暴な破壊に劇しく亢奮していたが、それにもかかわらず、このときほど人間を愛しなつかしんでいた時はないような思いがする」(坂口安吾「堕落論」)。もちろん震災と戦争は違う。時代も同じではない。けれども安吾もまた、破壊された都市を眼差す心の内側に、同じ熱量を感じ取っていたに違いない。それは、被災者を慮る同情や共感、あるいは復興のための努力や善意とはまったく無関係な、しかし、表現にとっては必要不可欠であり、それゆえ歴史を構築しうる、剥き出しの欲望にほかならない。

2013/10/18(金)(福住廉)

死刑囚の絵画展

会期:2013/09/28~2013/09/29

渋谷区文化総合センター 大和田ギャラリー大和田[東京都]

この春、広島県の鞆の津ミュージアムで開催され大きな反響を呼んだ「死刑囚の絵画」展。ほぼ同じ内容ながら、一部に新作も含めた展覧会が東京で行なわれた。
改めて印象づけられたのは、彼らの絵画から立ち上がる表現欲動。高度な技術や洗練されたコンセプトといった、通常現代アートで求められる諸条件は端から考慮されていない。ただ、絵を描きたい。いや、絵を描くことで何かを伝えたい。いずれの画面からも、それぞれ濃厚な表現欲動が溢れ出ている。
小林竜司の《獄中切手》は切手に見立てた画面に独房の内側を描いているが、これが隔絶された獄中から獄外へ発信する意欲そのものを表現していることは明らかだ。あるいは、岡下香の《司法界のバラ》は、植木鉢の土の下に自分の顔を描くことで、色鮮やかに咲く花の養分になっている自分自身を自虐的に描き出したが、植木鉢の外には硬い鉢を突き崩す小鳥たちが舞っている。幽閉された自分を救出する希望の象徴だろう。彼らの絵を見た瞬間に、そうした表現の内容が確かに伝わってくるのだ。
むろん、こうした絵画の経験は死刑囚という特殊な境遇に由来しているに違いない。明快に伝えることを避けがちな現代アートと同列に論じることも難しいのかもしれない。けれども、人はなぜ絵を描くのかという原点に立ち返って考えてみたとき、その答えを導き出すのは現代アートではなく死刑囚の絵画ではないだろうか。なぜなら、死刑囚たちは必要に迫られたからこそ絵を描いているに違いないからだ。自己表現や自分探し、あるいは現代アートの歴史に接続させることばかりに現を抜かす現代アートが、「必要」を無理やり捏造してまで制作を繰り返しているとすれば、死刑囚たちは望みもしなかった「必要」にかられて、やむなく、しかし切実に絵を描いている。どちらが鑑賞者の心を打つのか、もはや明らかだろう。
死刑囚の絵画は、現代アートの自明性を突き崩してしまう。絵描きはつねに絵を描くものだと思われているが、彼らからしてみれば「必要」もないのにわざわざ絵を描き続けることはいかにも不自然であろう。「必要」がないのであれば絵をやめて、「必要」が生まれるまで試行錯誤する。それこそ絵描きの王道ではなかろうか。

2013/09/29(日)(福住廉)

あいちトリエンナーレ2013 パブリック・プログラム スポットライト「名和晃平」

愛知芸術文化センター12階 アートスペースA[愛知県]

名和晃平のトークの進行を担当した。いつも理系作家だなあと感心するが、今回は数式モデルで自分の作品を整理して語っている。今年は韓国、犬島、あいちで3つのビッグ・プロジェクトが続けて実現し、大きな飛躍の年になったという。今回のレクチャーでは、初めて見る学生時代のドローイングも幾つか紹介された。あいちトリエンナーレの泡のインスタレーション「foam」は、世界創造の風景を思わせる、名和作品の進化形であると同時に、実は学生時代から暖めていた着想で彼の原点でもあることがよくわかった。

2013/09/29(日)(五十嵐太郎)