artscapeレビュー

その他のジャンルに関するレビュー/プレビュー

人造乙女博覧会III

会期:2012/10/08~2012/10/20

ヴァニラ画廊[東京都]

人造乙女、すなわちラブドールの展覧会。老舗のオリエント工業による3回目の博覧会である。
展示されたラブドールは6体。肢体はもちろん、肌や唇の質感、眼の表情など、きわめて高度な再現性に文字どおり度肝を抜かれた。顔の造作がやや一面的すぎるきらいがあり、アニメやマンガの強い影響力が伺えたが、それを差し引いたとしても、この造形力はずば抜けている。見ているだけで人肌のぬくもりが伝わってくるかのようで、その生々しい感覚に思わず戦慄を覚えるほどだ。これに声や人工知能がインストールされるとしたら、いったいどうなってしまうのだろうか。
しかも、今回の展示の中心は、ラブドールと家具を一体化させた「愛玩人形家具」。腰にテーブルを装着したバニーガールの乳首から赤ワインや牛乳が飛び出たり、重厚な本棚の中に棚板を突き破るかたちでラブドールが屹立していたり、実用的なのか冗談なのかわからない造形物で、ますます混乱させられる。
展示されたラブドールは基本的に触ることはできないが、会場の一番奥に展示された一体のラブドールだけは例外で、係員の女性に両手を消毒スプレーで除菌することを促されたあと、直接手を伸ばすことが許された。何より驚かされたのは、肌の質感よりも、その温度。限りなく肉体に近い造形性を散々眼にしてきたせいか、脳内にはそのぬくもりが自動的に再生されていたが、じつのところラブドールの肌は思っていたほど暖かくはなかったからだ。とくに冷たいわけではないが、温かいわけでもない。期待はずれというか、一安心というか、とにもかくにも目を疑うどころか、自分の知覚を根底から激しく揺さぶられる経験だった。これはもはや立派なアート作品である。
いま振り返ってみれば、あの人肌のギャップは、人間とラブドールを限りなく近接させながらも、ラブドールがラブドールであることを人間に辛うじて知覚させる、最後の一線だったのかもしれない。だが、そのことを理解しつつも、いずれ超えてしまうのが人間の業なのだろう。

2012/10/11(木)(福住廉)

日本ファッションの未来性

会期:2012/07/28~2012/10/08

東京都現代美術館[東京都]

ファッションの展覧会でいつも不満に思うのは、服飾がちっとも美しく見えないことである。マネキンに着用させられた服飾はいかにも味気なく、生命力に乏しく、場合によっては色あせて見えることすらある。
80年代の川久保玲と山本耀司から2000年代にかけての日本のファッション・デザイナーを総覧した本展も、さすがに川久保と山本の展示には空間構成に多少の工夫は施していたものの(それにしてもまたもや紗幕だ!)、それ以外の展示はあまりにも粗く、とても正視に耐えるものではなかった。真っ白いホワイトキューブに、特別な照明を当てるわけでもなく、年代物の服飾を物体として展示しているので、その「古さ」だけがやけに目立っているのである。
服飾は、美術や工芸以上に、今も昔も人間の暮らしや身体と密接しているのだから、それらを美術館に持ち込むことには、美術や工芸以上に格別に配慮しなければならないのではないか。服飾を最高の状態で見せることに全神経を注いでいるファッション・ショーを再現する必要は必ずしもないとはいえ、美術館であれば美術館独自の見せ方を開発するべきである。

2012/10/05(金)(福住廉)

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ニュイ・ブランシュ KYOTO 2012

会期:2012/10/05

京都国際マンガミュージアム、アンスティチュ・フランセ関西、ヴィラ九条山、吉田神社、京都芸術センター、京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA、地下鉄烏丸御池駅、常林寺、京都市内のギャラリー[京都府]

「ニュイ・ブランシュ」とは、フランス・パリで毎年10月の第1土曜日夜から翌朝にかけて行なわれる現代美術の祭典のこと。その京都版として昨年から始まったのが、この「ニュイ・ブランシュ KYOTO」だ。今年は、美術館、画廊、アートセンター、駅、寺社など17会場がエントリー。規模の大きさは本家と比べるまでもないが、昨年の4会場と比べたら大幅な拡大だ。正直、会場を訪れるまでは一種の外国かぶれと思っていた筆者だが、いざ出かけてみると、平日夜の画廊に多くの人が訪れている様子を見て評価が変わった。普段はアートとの接点が少なそうな人たちも大勢来ていたし、あちこちで自然と歓談の輪が広がっていたからだ。予算や運営面等の裏事情は知らないが、きちんと育てればきっと風物詩的なイベントになるだろう。他エリアでも真似をしたらいいと思う。

2012/10/05(金)(小吹隆文)

記憶の島─岡本太郎と宮本常一が撮った日本

会期:2012/07/21~2012/10/08

川崎市岡本太郎美術館[神奈川県]

岡本太郎と宮本常一が日本の民俗を撮影した写真を見せた展覧会。あわせて約200点の写真と、宮本が収集した各地の民具や岡本による立体作品も展示された。「風景」「女」「こども」「民俗」などのテーマに沿って、それぞれのモノクロ写真が対照的に展示されたため、まず気がつくのは二人の相違点である。
岡本が撮影したのは、祭りや儀式などハレの場が多い。非日常的な現場の動きや熱、音が伝わってくるかのような迫力のある写真だ。被写体の正面にわざわざ回り込み、肉迫しようと試みる、ある種の図々しさすら感じられる。むろん日常の暮らしを写した写真もあるにはあるが、それにしてもアングルや構図がやけに美しい。
一方、宮本の写真に写し出されているのは、家屋や町並み、労働に勤しむ人びとなど、日常の暮らしであるケの場面。岡本に比べると中庸な写真と言えるが、宮本の関心はありのままの生活をありのままに記録することにあったのだろう。土地の人間を背後からとらえた写真には、呼吸をあわせながらそっとシャッターを切る宮本の姿が透けて見えるかのようだ。
芸術と民俗学の対称性。たしかに岡本の写真の重心が「表現」にあるのに対し、宮本のそれは「記録」にあると言える。だが、両者の写真に共通点がないわけではない。それは、失われつつある民俗へのまなざしだ。高度経済成長の陰で忘れられつつあった「裏日本」の暮らしを、ともに写真に焼きつけることで留めようとしていた点は明らかである。
しかし、だからといって、それは必ずしもロマンチックなノスタルジーにすぎないわけではない。なぜなら、写真と民具、そして作品が集められた会場には、人間にとって本質的な「ものつくり」の精神が立ち現われていたからだ。岡本が立体作品を制作したのと同じように、村人たちも自分たちの暮らしをつくっていたのだ。芸術と民俗学に、いや、アーティストと無名の人びとに通底する根源的な創造性と想像性を、岡本と宮本は見抜こうとしていたのではなかったか。
「表日本」の成長が頭打ちとなり、新たな方向性が模索されているいま、岡本と宮本のまなざしは、来るべき社会をつくる私たちにも向けられているのかもしれない。

2012/10/04(木)(福住廉)

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リレートーク 50 years of galerie 16

会期:2012/09/25~2012/09/29

galerie 16[京都府]

今年で開廊50周年を迎えた同画廊が、5日間にわたるリレートークを行なった。内容は、1960年から2000年以降を10年区切りで1日ずつ振り返るというもの。オーナーと画廊スタッフ、司会進行役のほか、年代ごとに毎夜異なるゲストが複数名招かれた(筆者も2000年代のゲストとして参加)。平日夜の開催ゆえ動員を心配したが、いざ始まってみると会場は連日満杯で、毎回3時間以上もトークが繰り広げられる熱のこもった5日間となった。地元現代美術史に対する関心の高さを実感する一方、関西の現代美術画廊史の包括的なアーカイブ化が必要だと感じた。

2012/09/29(土)(小吹隆文)