artscapeレビュー

2017年03月01日号のレビュー/プレビュー

近代工芸と茶の湯II

会期:2016/12/17~2017/02/19

東京国立近代美術館工芸館[東京都]

茶の湯に関わる近・現代工芸の器、約180点を通して、その文化的特質と変遷、造形美も同時に味わうことできる展覧会。茶の湯の道具のみならず、床の間の掛物・花入等を含めたしつらえまでもが展観される。とりわけ、本来は茶道具ではなかったものを独自の美意識で茶の世界に取り入れる「見立て」の精神が、世界の日用品をもって随所に実践されているのが楽しい。それは、サモワールであったり、ルーシー・リーの器であったり、ミャンマーの水牛茶杓であったりする。一方で鑑賞者に強い印象を与えていたのが、茶の湯の精神性をミニマルに表現する内田繁の3つの茶室「受庵」「想庵」「行庵」。実際に躙り口に身を入れて、それぞれ意趣に富んだ内なる空間を体感できる。実はこれ、日本独自の素材ともいえる竹や和紙を用いた可動式で折りたたんでしまうことのできる茶室。この「しまい」の精神は茶道の所作にも通ずるようだ。日本の総合芸術たる茶の湯のエッセンスを知ったうえで、今を生きる私たちがどう茶道を日常で楽しめるのか。本展は、柔らかで清新な感覚に富む現代工芸を通じて、いまの茶の湯の味わい方を教えてくれる。[竹内有子]

2017/02/16(木)(SYNK)

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中村好文x横山浩司・奥田忠彦・金澤知之 建築家x家具職人 コラボレーション展

会期:2016/12/14~2017/02/25

ギャラリー エー クワッド[東京都]

本展は、建築家/中村好文と、横山浩司・奥田忠彦・金澤知之の三名の職人とのコラボレーションにより製作された住宅用家具を展示するもの。中村氏の代表作である子供用の椅子から階段箪笥、珍しいところでは薪ストーブまで、さらには木製家具をつくるための道具の数々や製作現場で行なう協働での試作の様子を映像で見ることもできる。会場にはオーバル型の比較的大きな空間があり、台所・ダイニング・リビングの各スペースに加え、ベッドまでを含む小屋のしつらえが再現されている。まさに中村氏の好む生活スタイルと、簡素でありながらもあたたかみがあって居心地のよさそうなコンパクトな空間・工芸品との取り合わせの妙・穏やかな暮らしの雰囲気を看取できる。空間の囲いには、彼らの描いた設計デッサンがたくさんちりばめられて、目にも楽しい。もうひとつのスペースには、美しい曲線を描く木製のらせん階段が中央に配置され、周りに多種の木製椅子が置かれた円形の美しいディスプレイ。手仕事の確かさに魅了され、作り手の人柄までも映し出されたような家具デザインの仕事を堪能した。[竹内有子]

2017/02/16(木)(SYNK)

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プロジェクト大山、アンビギュアス・カンパニー『戦場のモダンダンス「麦と兵隊」より』

会期:2017/02/17~2017/02/19

横浜赤レンガ倉庫1号館2Fスペース[神奈川県]

大野一雄舞踏研究所は、ダンスアーカイヴ・プロジェクトを数年前から始めている。今年は江口隆哉と宮操子が1938年に上演した『麦と兵隊』にプロジェクト大山とアンビギュアス・カンパニーが取り組んだ。帝国劇場での初演後、日中戦争の戦火のなか、二人は慰問団として戦地に赴き、この作品の一部を上演したという。「再現不可能であることは自明」と本公演の紹介文に記されているように、おそらく参考資料は乏しく、ダンスの再現という点で苦労があったろうことは想像に難くない。それにもかかわらず、過去の作品を取り上げ、現代に問いかけようとする本プロジェクトの意義はそれ自体で評価されるべきものだ。であるからこそ、本作における諸点が少し残念に思えてしまう。『麦と兵隊』という作品の振り付けを再現することは難しかったのかもしれないが、当時の江口、宮が行なっていたダンスとはどんなもので、それを人々はどう受容していたのかという点がもっとクリアであるとよかった。原作と現代の二つのカンパニーのアイディアとが混ざり合って、当時を慮ることが難しく感じられた。その点では、レクチャーパフォーマンスの要素が入っているとよいのではないかと思わされた。
古家優里(プロジェクト大山)らしいコミカルな動きで観客から笑いを取るところは、「今日のコンテンポラリーダンス」的な要素といえるだろう。リズムでイージーに笑いを取ろうとする振る舞いが、戦中という時代を取り上げることとどう関連するのかがよくわからなかった。でも、わからないなあと思いながら、いま、もし大規模な戦争があったとして、慰問団はどう構成されるのだろうかと想像させられた。コンテンポラリーダンスは招聘されるのだろうか。今日の(想像上の)慰問と当時の慰問とではどんな違いが発生するのだろうか。もう少し調べられたらよかったかもしれないのは、当時の兵隊たちの心の様子だ。舞台には当時の慰問団の様子が映された。そこには数千人規模の兵隊たちがしゃがんで舞台へ目を向けていた。彼らは何を思い、ダンスに何を見たのだろう。そこに想像力を傾けることもあったらよかったのではないだろうか。

2017/02/17(金)(木村覚)

かもめマシーン『俺が代』

会期:2017/02/17~2017/02/19

STスポット[神奈川県]

STスポットの小さな舞台の中央、四角くくり抜かれたところに水が溜まり、上からも水がポタポタ垂れている。その真ん中に置かれているのは、金属でできた2mほどの「木」のオブジェ。生命の生長を感じさせる木が人工物で出来ている。本作のテーマである日本国憲法をかもめマシーン主宰・萩原雄太はこのように象徴化した。舞台には一人、俳優の清水穂奈美がいるだけ。彼女は、誰かの役を演じるというよりは、日本国憲法を読み、また「あたらしい憲法のはなし」(文部省が発布当時作成した憲法の副読本)などを読む。「憲法を読むだけで演劇は可能か?」という問いへのチャレンジにも映るが、それは実際可能だった。清水は、ともかく読むことに徹するのだが、途中で(確か自由をめぐる言葉を読むあたりで)語尾が微妙に疑問口調になったり、ラップのような読み方をしたり、怒鳴るように読むところも、小さな声でささやくようなシーンもあるなど、それによって、憲法が舞台の上で引き開かれ、解剖され、観客の心の中で咀嚼されていった。そこで(日本人の)観客は自らに問うことになる。日本国民である自分はこの憲法という土台のうえに生きているが、これが自分をどう規定し、どう促し、また自分はそれをどう意識し、また意識せずに生きているのか、と。当たり前にあるように思っているこれは、誰かがかつて作ったものだ。作り、そして、憲法の中身が浸透するよう、発布当時に人が人に働きかけ、人力で推し進めようとしたものだ。いまの憲法を変えるべきか否かは置いておくとして、そうした憲法を作り、そこに込めた意味を広める力はいまの自分たちにあるのだろうか? 観客の一人として筆者はそんなことを考えながら見ていた。この舞台に「登場人物」がいるとすれば、それはおそらくこの憲法のうえで生きている日本国民なのだ。タイトルに含まれた「俺」とは、つまり、日本人の観客のことなのだ。日本人の観客は、そうして自分の身にひきつけて、主役である自分とともにこの舞台と対峙することになろう。その状況を生むことこそ萩原の戦略なのではないか。「あなたは日本国憲法をどうするつもりなのさ!」と挑発的に問われるわけではない。ただ、清水が憲法を読む空間で、観客は自分を意識させられる。実は憲法に向き合うようで、自分に向き合うことになる作品なのだった。

2017/02/17(金)(木村覚)

快快 - FAIFAI- 『CATFISH』

会期:2017/02/15~2017/02/17

CLASKA Room 402[東京都]

快快は小指値と称していた頃から、筆者にとって一貫して〈演劇における役者の疎外〉にフォーカスしてきた劇団だ。例えば『Y時のはなし』の冒頭、スクリーン上にセリフがディスプレイされる前で、役者はそのセリフを読んだり読まなかったりした。戯曲があれば、物語の内容は伝わる。であれば、役者は何のためにいる? 役者はセリフを読む奴隷だ。それも、自分が奴隷であることを隠す奴隷だ。本作は、快快が扱ってきたこの役者性をあらためて主題化した作品となった。「catfish」とは英語でナマズのことだが、スラングとしては「なりすまし」の意味がある。本作はそのタイトルどおり、登場人物は誰もみな「なりすまし」人間。「山崎3世」は泥棒。スーツは背中が透明で裸の状態。「後藤」はやり手のコンサルタントだが、ハゲを隠している。若い「女」は巨乳だが、どう見てもそれは風船だ。会場も「なりすまし」で、目黒のホテルCLASKAの広い一室が劇場になっているのだ。途中、劇は中断し、パーティが始まる。日本酒や寿司が販売される。観客は「劇場の観客」であることをキャンセルさせられ、その間は「パーティの客」にさせられる。いや、日本酒のコップには「観客役10」とさりげない指示が。そう、観客もまたここでは「観客」役になりすましている。そのことを、こうやって煽るのだ。言い忘れていたが、観客には台本があらかじめ配られている。ある役のセリフには、いま自然にしゃべっているようだけれど、実は全部セリフなのだという内容の言葉さえ出てくる。そして、「観客」役のためのセリフがありそれを突然観客に読ませたりもする。そうして、すべてのことが真偽定かならず、真実なのかなりすました嘘なのかわからない空間が出来上がった。実際に身重の役者大道寺梨乃は、狂言回しの「なまず」役を半分降りて、7カ月目の自分はしかしただ妊婦の想像をしているだけなのではと漏らす。身体に起こる出来事さえどこかリアリティに欠けている。なるほど私たちはまさにそんな世界を生きている。「オルタナティヴ・ファクト」なんて言葉が、からかい半分流行ったり。そんな世界に生きる不安を、ユーモアまじりに劇化した。

2017/02/17(金)(木村覚)

2017年03月01日号の
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