artscapeレビュー

2017年12月01日号のレビュー/プレビュー

西野達 in 別府

会期:2017/10/28~2017/12/24

別府市内各所[大分県]

西野達は反転のアーティストである。外側にあるものを内側に反転させ、あるいは水平方向にあるものを垂直方向に転倒させ、さらには従属的なものを主体的なものに逆転させることで、公共空間を私的空間に鮮やかに変容させる。そうした基本的なアイデアを十分に理解しているつもりでも、じっさいに作品を目の当たりにすると、そのあまりにも極端な異化効果に衝撃を受けるのである。
本展は西野達の新作展。別府市内の各所に展示された作品を巡り歩くという構成だ。別府タワーをお地蔵さんに見立てたり、別府の父として知られる油屋熊八の銅像を取り込んでホテルのような空間に仕立てたり、荷台に荷物を積んだ軽トラックを街灯に突き刺したり、あらゆるものを反転させる西野の大胆な想像力が存分に繰り広げられている。温泉街の日常に不意に立ち現われる作品の非日常性が面白い。
なかでも秀逸なのが《残るのはいい思い出ばかり》。かつて家屋が建てられていた空き地に発泡スチロールを使ってその家屋を原寸大で再現した。古い家屋が立ち並ぶ住宅街に、窓も扉も屋根も、すべて純白の発泡スチロールでつくられた2階建ての家屋が出現した光景は壮観だ。青空との対比がやけに眩しい。この純白の家屋には、とりわけ地元住民にとって、失われた家屋の記憶に思いを馳せるための媒体という意味があるのだろう。だが追憶の手がかりを一切持たない県外からの来場者にとって、それはまさしく反転の醍醐味を味わうことができる絶好の作品である。通常、発泡スチロールは資材を守る保護材や緩衝材として用いられることが多いが、西野はそれを主要な建材として大々的に使用しているからだ。あるいは建築の計画段階で用いられるマケットが発泡スチロールで作成されることが多いという事実を踏まえれば、縮小模型をそのまま拡大しながら物質化したとも考えられよう。入ることも住むこともできない住宅というナンセンスの極致を哄笑することもできなくはない。けれども、それ以上に伝わってくるのは、住宅という大規模なスケールで、副次的な物質を主要なそれとしてひっくり返してみせた西野の斬新なアイデアなのだ。
現代美術の始祖として評価されることが多いマルセル・デュシャンの《泉》(1917)は既製品の男性用便器をそのまま自分の作品として展示しようとして物議を醸したが、それが芸術作品のオリジナリティという神話の転覆を企む、きわめてコンセプチュアルな作品だったことは事実だとしても、注意したいのはデュシャンがその既製品の便器を転倒させていたという事実である。すなわちデュシャンは、通常であれば壁面に接着させる便器の背面を床に寝かせることで「転倒」の意味を強調していたのではなかったか。だとすれば、世界のあらゆる事物を次々と反転させている西野達は、文字どおりコンセプチュアル・アートの正統な後継者なのかもしれない。


2017/10/30(月)(福住廉)

細江英公個展「創世記:若き日の芸術家たち」

会期:2017/10/28~2017/11/18

YOD Gallery[大阪府]

本展は、細江英公が2012年に刊行した写真集『創世記:若き日の芸術家たち』から抜粋した作品で構成された個展である。同書は1967年から75年に撮影したポートレイトをまとめたもので、土方巽、寺山修司、横尾忠則、つげ義春、草間彌生、岡本太郎など、当時の文化シーンで活躍した芸術家たちの姿を活写したものだ。作品サイズは半切(A3とほぼ同寸)で統一されていたが、草間彌生の2点だけは本展のためのニュープリントとして100×150cmの大作が用意された。作品を見ると、当然ながらみな若い。寺山修司などは競馬場の群衆に紛れているせいか、見つけるのに苦労した。つげ義春は彼の漫画に登場するような古びた木造家屋と写っているし、土方巽は舞台衣装を着て、当時彼が就いていた牛乳配達の自転車に乗った姿を捉えている。背景に見える東京の街並みも現在とは大違いだ。こうした日本写真史に残る仕事を関西で見る機会は意外と少ない。会場のYOD Galleryでは3年前にも細江の『薔薇刑』をテーマにした個展を行なっており、写真ファンにはありがたい限りだ。今後も同様の企画が続くよう願っている。
キャプテン:「坂東玉三郎」(1971)ゼラチン・シルバープリント

2017/11/01(水)(小吹隆文)

森村泰昌「下町物語プロジェクト」2017-2019

会期:2017/11/03~2017/11/25

旧駒ヶ林保育所[兵庫県]

神戸の新長田界隈は、市内を代表する下町エリアであり、1995年の阪神・淡路大震災で激甚な被災を被った地域として知られている。この新長田を舞台に開催されたアートイベント「下町芸術祭」の一環として行なわれたのが、美術家、森村泰昌の「下町物語プロジェクト」である。展示は3つの要素で構成されている。一つは新長田界隈の下町を取材し、6名の住人の表現物や収集物(なぞなぞの看板、動物の張り子彫刻など)の展示であり、もう一つは元保育園の備品で森村が作った即興彫刻《積木組》と、街の音、ピアノ演奏、演説などによるサウンドインスタレーション《下町組曲》、そして最後は元保育園の滑り台式非常階段で、森村はこれを「イサム・ノグチの《ブラック・スライド・マントラ》に匹敵する」と評価した。これらのなかで筆者がもっとも気に入ったのは、《下町組曲》のひとつで、森村が架空の政党党首になって下町の魅力を語る「贋作“下町新党”党首演説」である。元保育園の屋上にスピーカーと椅子を設置し、下町のパノラマを眺めながら森村のメッセージを聞くと、不思議と熱い気持ちが込み上げてきた。このプロジェクトは来るべき東京オリンピックの前年である2019年まで続く予定。次の開催地や日時は不明だが、コンプリートを目指したい。

中村雄二郎氏(理容中村店主・中村美術館)による、動物張り子彫刻の展示風景

2017/11/04(土)(小吹隆文)

未来美展「ナンニモ気にするな、バリバリにぶっちぎれ。」

会期:2017/11/03~2017/11/05

鹿児島県鹿児島市松原町1-2[鹿児島県]

美学校の「未来美術専門学校アート科」で教鞭をとる遠藤一郎による企画展。「カッパ師匠」に扮した遠藤が総合ディレクターを務め、同クラスの受講生、および遠藤が鹿児島でスカウトした若手アーティスト、さらにはセルフメイドの自宅とともに全国を行脚している村上慧をゲスト・アーティストとして招聘し、あわせて18名が参加した。平面や立体、映像、インスタレーションなど、さまざまな作品が3階建ての古い雑居ビルの随所に展示された。大半は発表履歴の浅いアーティストばかりだが、表現の強度は並のアーティスト以上に烈しい。
なかでも注目したのは、中村留津子と仲田恵利花、川路智博の3人。
中村留津子の《まえをみる》は市販の黄色いコンパネの表面をすべて濃紺一色で塗り、その2枚のコンパネを連結させた支持体の表面を削り出した絵画。地の黄色が細い線として見える仕掛けだ。人間と動植物が入り乱れた絵は細密描写をベースにしているので、おのずと視線は画面に吸い込まれてゆく。随所に隠されたエロティックなイメージを発見できるのも面白い。ところが、その一方、スピード感のある荒々しいスクラッチの痕跡が、まるで見る者を拒絶するかのように、視線を遠ざける。絵画の醍醐味のひとつに求心力と遠心力を同時に体感させるイリュージョンがあるとすれば、中村はそれを独自の方法によって成し遂げているのである。長い時間をかけて試行錯誤を繰り返してきたなかで、その方法を獲得したことに大きな意味がある。
仲田恵利花は2つの映像作品を発表した。《eye2017》は自らの眼球を接写した映像で、その表面には夕陽やトンネルのライトが映り込んでいる。詩的な叙情性に溢れた、非常に美しい映像作品だ。一方、《ファイト》は夕暮れ時の田園風景のなかでカメラを正面に見据えて屹立する仲田が颯爽と放尿するもの。カメラを凝視する溜めの時間と決行のタイミング、ヒグラシの鳴き声や夕焼けの光、そして最後に繰り出すガッツポーズの切れ味。すべてが完全に計算され尽くしたパフォーマンス映像で、文字どおり爽快な鋭気を実感できる。女性の身体性に基づきながら男性が独占する身体技法を奪い取るという点で言えば、この作品はまぎれもなくジェンダー・アートのひとつとして位置づけられるが、かつてこれほど完璧に女性の勝利を体現した作品がほかにあっただろうか。
そして川路智博は大小さまざまな5点の水彩画を発表した。それらに通底しているのは、社会批評性というより、むしろ剥き出しの悪意。ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》やフェルメールの《真珠の首飾りの少女》を明らかに模倣しているが、ヴィーナスと少女をいずれも豚のように描いているし、結婚式のブーケトスで新婦が背後に投げ飛ばしているのは男の生首である。しかし川路の絵画が面白いのは、底知れぬ悪意がどれだけ画面に表出していたとしても、あるいは、だからこそと言うべきか、逆説的に彼自身の絵画への愛が溢れ出ているように見えるからだ。画題が俗悪であればあるほど、水彩の淡い色調や丁寧な筆致が際立つと言ってもいい。その落差は、きわめて純粋な絵画愛を露悪的な身ぶりによって巧妙に隠蔽した高度なアイロニーに由来しているのか、あるいは愛を哲学的に探究することで、それと悪が表裏一体であることを解明した結果なのか、それともただ単に絵画の技術が未熟だからなのか、正確なところはわからない。だが純度の高い絵画愛が見る者の心を打つことだけは間違いない。
遠藤が盛んに口にしていたのは、受講生のなかから美術教育をアンインストールすることの難しさである。遠藤によれば、一度身についてしまった現代美術の作法、知識、規範が彼ら自身の表現を阻害する要因になっていることが多い。それらをいかにして相対化しながら自分自身を解放することができるのか。遠藤が心を砕いているのは、この点である。むろん、展示された作品を鑑賞するかぎり、すべての出品作家が自分自身の表現を十全に開陳できているとは言いがたい。方法を模索している途上にある者も少なくない。だが、この展覧会に立ちこめた濃厚な密度が美術大学の卒展などでは決して味わうことのできない性質のものであることは間違いない。
既成の美術教育が問題含みであることは否定できないし、それを批判することもたやすい。だが遠藤が優れているのは、それを展覧会というきわめて具体的な実践によって提示しているからだ。明治の近代化以来、日本社会に定着して久しい美術教育をアンラーニングすることの必要性。美術教育の当事者は、それが薩摩の地から発信されたことの意味をよくよく考えるべきではあるまいか。


左:中村留津子作品 右:川路智博作品

2017/11/04(土)(福住廉)

ST Spot 30th Anniversary Dance Selection vol.2 ダンスショーケース

会期:2017/11/09~2017/11/12

STスポット[神奈川県]

横浜のSTスポット(認定NPO法人STスポット横浜)が30周年を迎えた。日本の演劇とコンテンポラリーダンスを支えてきた、小さいが重要な劇場である。かつて、ゲスト・キュレーターのサポートを得ながら、若いダンス作家たちが20分ほどの作品を創作し上演する「ラボ20」という企画があった。日本のコンテンポラリーダンスの作家たちにとって「ラボ20」はダンスの孵卵器だった。様式的統一性がない、各自の手法を思考錯誤しながら踊るコンテンポラリーのダンサーたちは、多くが自作自演であり、踊る以外では表現できないものを抱えてしまったという切実さがあの頃のSTスポットを満たしていた。4組の新作が立て続けに上演された本企画は、あのときの切実さを蘇らせていた。Aokidは額田大志(ヌトミック)と踊った。音声の出るキーボードやドラムを額田が演奏しながら、Aokidが踊る、というのが基本的なセット。だが、まるでAokid本人が描くイラストレーションのように、リズムやメロディは軌道を逸脱し、ダンスはAokidが得意とするブレイクダンスを飛び出してしまう。調子っぱずれの浮遊感は、ときどき目を見はるように美しい瞬間を生み出した。モモンガ・コンプレックスは、3人の女性ダンサーたちが白い全身タイツで顔だけ出して、音楽担当の男性に支配されているようで支配しているような不思議な関係性をベースにして踊る作品。調子が外れているところは、Aokidのパフォーマンスにも似ているのだが、モモンガ・コンプレックスには女性特有の自意識が漂っていて、その痛痒さが独特だ。自分の滑稽さを、隠しきれずに晒しきれずに、曖昧なまま時は進む。身体を観客の前に置くことが本来持っている滑稽さへと通じているようで、そうしたダンスの本質的な部分に触れているような気がしてくる。岡田智代はこのSTスポットで「LDK」「Parade」といった主要作品を上演してきた作家だ。モモンガ・コンプレックスの白神ももこの出で立ちとは対照的な「妖艶さ」が不思議に漂う舞台は、岡田でしか達成できない舞台の緊張感を引き出していた。舞台上のダンサーが何かを「見る」仕草によって、観客の意識が誘導されてゆくという岡田らしいデリケートな戦略も印象的だった。最後に岩渕貞太は、急逝した室伏鴻のダンス的極みへ応答しようとする果敢な試みを舞台で見せた。岩渕は室伏と交流のあった最も若いダンサーの一人だろう。手足の長く、若い身体が、室伏独特の呼吸の仕方で身体を捻り、ポーズを取る。室伏にしかできないと思い込まされてきたダンスが、濃密に舞台を満たしていった。
すべての上演を見た後に、コンテンポラリーダンスは、これ以上メジャーにならなくても良いのではないかということを思った。各自のきわめてヘンテコな切実さが、身体の集中と方法的なアプローチとともに、舞台に結晶化しているのであれば、それで良い。非言語的であるがゆえに社会性が貧弱になりそうになる、とてもいびつな表現たちだけれど、だから良いのではないか。こんな場が必要だと切実に思っている人々に、きちんと届いてさえいるならば(そこはしかし、実際、問題があるだろう。ダンスの分野でどんなことが起こっていて、どんな価値を発信しているのかをもっと社会に伝えて行く必要があるはずだ)。

2017/11/11(土)(木村覚)

2017年12月01日号の
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