artscapeレビュー
2018年02月01日号のレビュー/プレビュー
《鈴木大拙館》
鈴木大拙館[石川県]
21世紀美術館のシンポジウムの昼休みが2時間あったので、徒歩10分ほどの《鈴木大拙館》へ行ってみる。鈴木大拙はいわずと知れた「禅」を世界中に広めた仏教哲学者で、同館の近くで生まれた縁で建てられたらしい。館の設計は谷口吉生。敷地全体に比べて、書籍や原稿、書などのコレクションを公開する展示室は小さく、「水鏡の庭」と名づけた屋外の池と、その池をながめながら思索するキューブ状の「思索空間」の比重が大きい。記念館と銘打たなかったのはそのためだろう、大拙の思想を象徴的に表わそうとした建築だ。2011年の竣工だからまだ新しく、垂直・水平の直線だけで構成されたミニマルなデザインは、ほかの目立ちたがりの建築とは比べようもないほど端正で気品にあふれている。思索空間でしばし呆ける。
2017/12/16(土)(村田真)
国際シンポジウム:「複合媒材」の保存と修復を考える
会期:2017/12/16
金沢21世紀美術館[石川県]
タイトルの「複合媒材」は「ミクスト・メディア」といったほうがわかりやすいかもしれない。要するに絵画・彫刻といった従来の形式から外れたメディアアートやインスタレーションなど、後先を考えずにつくられた現代美術の保存と修復を巡るシンポジウム。朝から夕方まで半日がかりの長丁場だが、全部聞いたのはもちろんヒマだったこともあるけど、それ以上に現代美術を保存・修復する行為に矛盾というか違和感を感じていたからだ。午前中はボストン美術館のフラヴィア・ペルジーニの基調講演があり、昼休みを挟んで午後から韓国のサムスン美術館リウムの柳蘭伊(リュウ・ナニ)、香港に開館予定のM+(エムプラス)のクリステル・ペスメ、21世紀美術館の内呂博之がそれぞれ事例報告を行なった。いずれも作品の保存・修復を担当するコンサベーターの肩書きを持つ。
まずペルジーニがボストン美術館の取り組みを紹介。同館は古代から現代まで45万点のコレクションを誇る世界屈指の総合的ミュージアムだけあって、コンサベーション部門だけで30人もいるというから驚く。なかでも現代美術の保存・修復は、媒材が多様なうえ規格が更新されていくため苦労するらしい。特に光や音を出したり動いたりする機械仕掛けの作品は、時がたつにつれ技術が陳腐化していくため、部品が製造中止で入手できず動かなくなるといった問題が生じる。そのためコピーをつくって展示し、オリジナルを保存するなどいろいろ工夫しているという。そこまでして残す価値はあるのか、それこそ裸の王様ではないかと疑念が浮かぶ。
柳はサムスンが購入したナムジュン・パイクの《20世紀のための32台の自動車》という屋外インスタレーションを中心に、リキテンスタインの屋外彫刻、宮島達男のLEDを用いた作品の修復例を報告。ペスメは高温多湿、台風が多くて海も近いという美術品にとっては厳しい環境の香港で建設中の美術館の取り組みを紹介。内呂は21世紀美術館のように人の入りやすい美術館は、外のホコリや菌が持ち込まれやすいため作品にとってリスクが大きいというジレンマを打ち明け、また日本の国公立美術館でコンサベーターを抱えているところは10館にも満たず、現代美術にいたってはほとんどいないという現状を訴えた。最後のディスカッションで記憶に残ったのは、作品やオリジナリティの概念自体が大きく変わった現代美術にあって、かつての保存・修復の技術や考えでは対応できなくなっていることだ。むしろモノとしての作品を無理に残すより、作者の意図、作品のコンセプトを保存すべきではないか、という意見には賛同する。
2017/12/16(土)(村田真)
ジャネット・カーディフ & ジョージ・ビュレス・ミラー
会期:2017/11/25~2018/03/11
金沢21世紀美術館[石川県]
ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラーの作品は、ドクメンタやミュンスター、越後妻有、札幌などの国際展で何度か見たことあるけど、大規模な個展を見るのは初めて。最初の部屋には修道院の模型が置かれ、なかをのぞくと、どこかで見たような情景がミニチュア模型で再現されている。《アントネロとの対話》と題されているので、15世紀の画家アントネロ・ダ・メッシーナの油彩画《書斎の聖ヒエロニムス》だとわかる。よくできているけど、これだけだったら単に絵画を立体化したトリックアートと変わらない。しばらく見ていると照明や音が少しずつ変化していき、朝から夜まで1日の時の流れを再現しようとしていることに気づく。つまり2次元の絵画が3次元に立体化され、さらに時間を加えて4次元化しているのだ。これはおもしろい。
ほかにもレコードとスピーカーで埋まった部屋、不気味な音と光を発して回るメリーゴーランド、引出しを引くと異なる音が出る棚、たくさんの操り人形を乗せたキャンピングカーなど、ほとんどの作品は箱状の装置が各展示室の中央に1点ずつ置かれ、その周囲を観客が囲んで見るという仕組み。いずれも音や光を発したり動いたりしながら、それぞれレトロ調の物語を紡いでいく。ちなみに、操り人形やメリーゴーランドというのは子供が楽しむ遊びだが、それが静止していると寂しさや不気味さを感じ、勝手に動いたりすると恐怖の対象にすらなる。そんな楽しさと恐ろしさを同時に秘めたエモい作品群。ああ見てよかった。
2017/12/16(土)(村田真)
風姿花伝プロデュースvol.4『THE BEAUTY QUEEN OF LEENANE』
会期:2017/12/10~2017/12/24
シアター風姿花伝[東京都]
優れた戯曲の上演は、時と場所を越え、現実の映し鏡として機能する。アイルランド系イギリス人の劇作家マーティン・マクドナーが1996年に発表した戯曲の上演は、2017年の日本において、恐ろしいほどの生々しさを獲得していた。
アイルランドの小さな町リナーンで老いた母(鷲尾真知子)を介護する独身の中年女性モーリーン(那須佐代子)。母のわがままに感情を爆発させることもしばしばだ。ある日、モーリーンは再会した幼馴染のパト(吉原光夫)と親密になる。それが気にくわない母は、娘がかつて精神病院にいたことを暴露し、パトからの求婚の手紙も娘が見る前に燃やしてしまう。母の様子がおかしいことに気付いたモーリーンは口論の末、手紙の内容を聞き出しパトのもとへ。やがて戻ってきたモーリーンはパトとともにアメリカに行くことになったと告げる。崩れ落ちる母の体。モーリーンは怒りのあまり、母を火かき棒で殴り殺してしまっていたのだった。葬式の夜。母の死は事故死として片付けられた。そこへパトの弟レイ(内藤栄一)が訪れ、パトが他の女と婚約したと言う。愕然とするモーリーン。しかもレイは、あの夜パトがモーリーンと会ったなんて事実はないとも言うのだ。あの夜、パトに会って結婚を約束したというのはモーリーンの妄想でしかなかった。ガラガラと崩れ去る「現実」。呆然と母の揺り椅子に座るモーリーンの姿は、憎んだ母のそれと瓜二つだった。
老老介護、毒親、連鎖する虐待。あるいは、閉じた関係のなかで狭まっていく視野とそれがもたらす悲劇。モーリーンと母は互いに主張をぶつけ合い、嘘をつき合う。観客がどちらの言い分が正しかったかを知る頃には手遅れだ。モーリーンは妄想の世界に飲み込まれ、悲劇的な結末を迎えることになる。外部の目も証拠もない場所で現実を正しく認識し続けることは難しい。そこにこの国の姿を重ねるのは穿ちすぎだろうか。そんなことを考えてしまうほど、我が身に迫る上演だった。小川絵梨子の巧みな翻訳・演出、俳優陣の好演、そして何より、日本の現在を鋭く抉る企画を立てた劇場に拍手を送りたい。
公式サイト:http://www.fuusikaden.com/leenane/
2017/12/19(山﨑健太)
石内都 肌理と写真
会期:2017/12/09~2018/03/04
横浜美術館[神奈川県]
石内都の写真はシリーズごとには何度も見たことがあるけど、まとめて見る機会はなかった。こうして初期から通して見て初めて「なるほど」と納得した。展示は横浜のアパートを撮ったシリーズから始まるが、しばらく見ていくと塗装のはげた壁や床を執拗なまでに撮っている写真に出くわし、ここでひとり合点したのだった。それは石内が、人であれ建物であれ年季の入ったものの表面に関心がある、というより、そのテクスチュアにフェティッシュな欲望を感じているんじゃないかということだ。例えば、はがれそうな塗装とかはがれそうな皮膚とか見ると、はがさずにはいられないような皮膚感覚。それが彼女の写真を貫く美学なのだと勝手に理解したのだった。大野一雄のしわくちゃの肌を撮った《1906 to the skin》も、女性の傷跡ばかり追った《Innocence》も、母の遺品を記録した《Mother’s》も、被爆者の衣類を写した《ひろしま》も、絹の着物を追った《絹の夢》も《幼き衣へ》も《阿波人形浄瑠璃》も、すべて皮膚および、皮膚に触れる衣のテクスチュア(テキスタイルと同じ語源)を印画紙に定着させたものにほかならない。そういえば、石内は多摩美の染織(テキスタイル)専攻だった。
2017/12/22(金)(村田真)