artscapeレビュー
2018年02月01日号のレビュー/プレビュー
新国立劇場『かがみのかなたはたなかのなかに』
会期:2017/12/05~2017/12/24
新国立劇場[東京都]
子供向けの演劇と言われてどんな作品を思い浮かべるだろうか。新国立劇場が再演に値すると見なした本作の物語はこうだ。
部屋で孤独に出兵のときを待つ兵士・たなか(首藤康之)。単調に繰り返す日々の中、彼は鏡に映る自分の分身・かなた(近藤良平)を友人として見出す。さらに彼らはピザを届けに来たこいけ(長塚圭史)を家に招き入れ、その分身・けいこ(松たか子)と四人で時間を過ごす。だが、たなかとかなたは二人とも「女性らしい」けいこを気に入ってしまい取り合いに。女性なのに「男みたい」なこいけを、こんな奴はいらぬと崖から海に突き落としてしまう。二人はけいこをめぐって決闘をするが、自分の分身を思い切って殺すことができない。そこで二人は妙案を思いつく。ノコギリを持ち出した彼らはけいこを真っ二つにし、仲良く二人で分け合うのだった。そしてたなかは戦場へと旅立っていく——。
鏡がモチーフの本作には、鏡映しにシンクロするダンスや回文の歌詞・台詞など、単純に楽しい要素がふんだんに盛り込まれている。登場人物、特に女装の長塚が演じるこいけはとびきりチャーミングだ。楽しげな雰囲気で舞台は進む。だが、登場人物たちのむき出しの欲望は不穏な展開を呼び込み、そのチャーミングなこいけは物語から排除されてしまう。あれ? そんなことになっちゃっていいの?
子供たちが疑問を持たなければこの作品はPC的にアウトな単なる猟奇殺人ものになってしまう。重要なのはこいけのキャラクターだ。こいけが魅力的だからこそ、彼女が「男みたい」だと排除されてしまう展開に対する疑問が、さらには男らしさや女らしさといった常識に対する疑問が生まれてくる。自ら作品の要を引き受け、その役割を十二分に果たしたこいけこと長塚に惜しみない拍手を送りたい。
キレイゴトばかり並べていては、人は問うことをしなくなる。舞台は現実を映し出す鏡だ。人のふり見て我がふり直せ。残酷な出来事が鏡の向こうで留まるように。
公式サイト:http://www.nntt.jac.go.jp/play/performance/16_009659.html
2017/12/23(山﨑健太)
青年団リンク キュイ『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』
会期:2017/12/14~2017/12/24
アトリエ春風舎[東京都]
歴史は繰り返す。それが真実だとして、なぜ歴史は繰り返してしまうのか。
青年団リンク キュイは劇作家、演出家の綾門優季が主宰するユニット。公演ごとに綾門が劇作、あるいは演出のどちらかを担当し、もう一方には公演によって異なる作家を迎えるスタイルがユニークだ。2016年にはチェルフィッチュ/岡田利規『現在地』を綾門演出で上演している。今作では綾門の戯曲を劇団・お布団の得地弘基が演出した。
夜の公園、高速バス、大学構内、喫茶店。四つの場面で繰り返される理不尽な暴力と無差別殺人。いずれにせよ登場人物たちは皆殺しにされ、そして何事もなかったかのように次のターンが始まる。舞台上に投影される1-1、4-2という数字が示すように、ある種のゲームのように場面はループし、彼らはその都度殺される。繰り返しに気づいた男はそこから抜け出そうと試みるが——。
登場人物たちが繰り返しから抜け出すことは原理的に不可能だ。彼らの運命はあらかじめ戯曲に書き込まれている。行為とともに読み上げられるト書きが、それがあらかじめ定められたものでしかないことを強調する。観客は舞台上の理不尽を客席から安全に眺める。あるいは、客席に縛り付けられ、見るに耐えない暴力を見続けることを強制される。
なるほど、演劇やゲームでは理不尽な暴力が繰り返される。理由はいらない。では現実は? やはり暴力は偏在し、延々と繰り返されている。登場人物の一人は金属バットを振るいながらこう言う。「ほら、ちゃんと見てなかったでしょ。ちゃんと見てないから、こうなるのに」。あるいはこう。「自分がふるっている暴力も、まるで他人のものみたいだね。他人の受けた暴力は」。殺され続ける彼らの命は軽く扱われているのだろうか。そうかもしれない。だが私たち観客は軽々と殺され続ける彼らをそれでも見続けなければならない。見るに耐えない現実から目をそらさない、そらさせないこと。そうして倫理はかろうじて始まる。
公式サイト:https://cuicuicuicuicui.jimdo.com/
2017/12/24(山﨑健太)
毛利悠子 グレイ スカイズ
会期:2017/12/02~2018/01/28
藤沢市アートスペース[神奈川県]
初めて訪れるアートスペース。藤沢市が美術館を持たず「アートスペース」にしたのは、建物やらコレクションやら面倒なものを背負わず身軽でいられるという道を選択したからかもしれないが、近隣に神奈川県立近代美術館や茅ヶ崎市美術館、平塚市美術館があるのでこれ以上必要ないと考えたのかもしれない。近隣に美術館が林立すると相乗効果も期待できるが、逆に共倒れしかねないからだ。まそんなことはどうでもいい。最寄り駅は藤沢ではなく隣の辻堂で、北口の巨大なショッピングモールをすぎたあたりの新しいビル内にアートスペースはある。上の階には市立の藤澤浮世絵館も入っている。
そんな場所でなぜ毛利悠子展が開かれるのかというと、彼女が藤沢市出身だからというわかりやすい理由だ。最初の部屋では、自動的に杯が傾く半透明のジョッキの脇腹に波打つ浜辺の映像を映し出している。それがちょうど泡立つビールを飲み干しているように見えるのだ。奥の大きな部屋はカーテンで弧を描くように仕切られ、エリック・サティの「家具の音楽」に触発されたインスタレーション《パレード》を公開。まず花柄の壁紙をコンピュータで読み取り、絵柄の濃淡に反応してスイッチオン。ドラムを叩いたりアコーディオンを鳴らしたり明かりを灯したり、動き始める仕掛けだ。楽器などは学校の廃物らしい。別の部屋では、駅構内の水漏れの応急処置にインスピレーションを受けた《モレモレ:ヴァリエーションズ》を展示。ブリキのバケツやタライ、ペットボトル、波形のプラスチックボードなどを、水の循環するビニールチューブがつないでいる。すべてがチープな素材で、つなぎもガムテープで止めるなどいい味出している。
2017/12/24(日)(村田真)
グリーンランド 中谷芙二子+宇吉郎展
会期:2017/12/22~2018/03/04
メゾンエルメス8階フォーラム[東京都]
霧の彫刻家として活躍する中谷芙二子と、その父で雪の研究で知られる科学者・エッセイストの中谷宇吉郎の展覧会。中谷芙二子さんには昔お世話になったし、宇吉郎の随筆集は寺田寅彦に触発されてワクワクしながら読んだものだ。ぼくが芙二子さんを知ったのは、彼女が原宿にビデオギャラリーSCANを開設した1980年のこと(その2階にはサプリメント・ギャラリー、のちの岡崎球子画廊があった)。そのころ中谷さんはビデオアートだけでなく、「霧の彫刻」のアーティストとして国際的に活動されていた。「霧の彫刻」が初めて発表されたのは1970年の大阪万博のときだから、もう半世紀近く世界各地で続けて来たことになる。今回の展覧会はその「霧」を中心に、芙二子の初期の油絵やビデオ作品、宇吉郎の雪の結晶写真やアルバムなどで構成されている。
メインの展示室には、晩年の宇吉郎が雪氷の研究のため毎年訪れていたグリーンランドから採集した石が置かれ、その奥に霧を発生させる噴霧装置がある。霧は一定時間ごとに発生する仕掛けだが、たくさん並んだノズルからシューッと白い気体が噴出するのを見て、なにかいいしれぬ不安を感じてしまった。それはひとつには、いくら霧とはいえ、ふだん美術品を展示するギャラリー内で水分を振りまくことがきわめて挑戦的で、暴力的ですらあるように感じたこと。もうひとつは、考えすぎかもしれないが、徐々に白いガスが人のいる部屋を満たしていくのを目の当たりにして、ナチスのホロコーストを連想してしまったのだ。これがもっと閉鎖的な空間だったらおそらく作者もやらなかっただろうけど、ここはガラスのブロックを積み上げた開放的な空間なので、そんな連想をすること自体が場違いだったかもしれない。でも想像しちゃった。
2017/12/28(木)(村田真)
東京芸術劇場『池袋ウエストゲートパーク SONG&DANCE』
会期:2017/12/23~2018/01/14
東京芸術劇場シアターウエスト[東京都]
脚本・作詞に柴幸男(ままごと)、演出に杉原邦生(KUNIO)、振付に北尾亘(Baobab)と小劇場の気鋭と若手俳優を起用した本作は、20年前の石田衣良の小説を、現在の日本を映し出す舞台へと見事に生まれ変わらせた。
タカシ(染谷俊之)率いるG-Boysと京一(矢部昌暉)率いるレッドエンジェルスの対立が激化する池袋。トラブルシューターのマコト(大野拓朗)は抗争を止めるべく奔走する。柴の脚本は原作から恋愛要素を削ぎ落とし、本筋であるG-Boysとレッドエンジェルスの対立に集中した。原作の印象はそのままに、僅かな変更で作品の今日性を際立たせる手つきが見事だ。原作同様、作品の終盤ではG-Boysとレッドエンジェルスとの対立が仕組まれたものだったことが明らかになる。汚い大人たちに利用され、マスコミに踊らされる子供たち。本来ならば彼らが憎しみ合う理由はなかったはずだ。杉原の演出もまた、柴の力点変更を巧みに可視化する。主要登場人物を演じる俳優以外は、G-Boysとレッドエンジェルスの両方を演じるのだ。青か赤かというチームカラーの選択はささいな偶然に過ぎない。もしかしたら彼らは逆の色をまとい、向こう側にいたかもしれない。そこに本質的な違いはない。「やつらが」「やつらが」と彼らは相手を糾弾するが、「やつら」に果たして実体はあるのか。しかしひとたび血が流されてしまえば対立は激化し、憎しみは増していく。止めるためには誰かが痛みを引き受けるしかない。
チームカラーで統一した衣装はアンサンブルキャストを集団として提示し、立場の交換可能性を暗示する。だが、彼らは体型にせよダンス的バックグラウンドにせよ、一人ひとりが極めて個性的で、それぞれがそれぞれに集団に埋没しない魅力を放っていた。集団に飲み込まれず、個人としてあり続けること。集団としてではなく、独立した個人として対峙すること。彼らが体現していたのは、そんな倫理だったのかもしれない。
公式サイト:http://www.geigeki.jp/performance/theater163/
2018/01/05(山﨑健太)