artscapeレビュー
2019年06月15日号のレビュー/プレビュー
よみがえる沖縄 1935
会期:2019/04/13~2019/06/29
立命館大学国際平和ミュージアム[京都府]
KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭 2019のアソシエイテッドプログラムとして開催された写真展。1935年の朝日新聞の記事「海洋ニッポン」(全10回連載)の取材時に撮影された写真のネガ計277コマが大阪本社で見つかり、セレクトされた約100点の写真が、立命館大学 国際平和ミュージアムが所蔵する沖縄関連資料と合わせて展示された。戦前の沖縄の写真の多くが戦災で焼失したなか、10年後の太平洋戦争で破壊される前の街並みや人々の生活風景を伝える貴重な記録である。モノクロプリントに加え、AIの機械学習と住民の記憶に基づいてカラー化した写真も展示された。
展示は撮影地域ごとに構成され、「糸満」の(埋め立て前の)海と漁師、「古謝」のサトウキビ畑での農作業、「久高島」の墓や風葬の宗教的風習、「那覇」の市場の賑わいなどが活写されている。ただ、これらの写真を「豊かな自然と独自の文化に満ちた島、そこで力強く生きる明るく素朴な人々」として、ノスタルジーの対象として眼差すことには注意が必要だろう。吉浜忍(沖縄近現代史)が解説パネルで指摘するように、国家が戦時体制を固めていく時代状況においてプロパガンダ的側面をもつからだ。例えば、糸満出身者の移民先を記した世界地図を眺める、坊主頭の少年たち。後ろ姿の彼らの表情は見えないが、掲載記事の解説には「糸満人の世界分布図に感激の胸おどらす第二世たち」と記される。地図にはシンガポール、ジャワ島、ハワイなど南洋諸島が記され、移民先が「南進」政策と重なっていることを示す。また、古謝(現沖縄市)の「模範部落」でサトウキビ農作業に従事する青年団や女子青年団を撮影した一連の写真群からは、「労働の組織化による国力増産」というメッセージがうかがえる。報道写真の撮影者の眼差しのなかにある意図を脱色してこれらの写真を見ることは、歪曲にほかならない。
また、「AIの機械学習による古写真の着色」は昨今の流行である。だが今回の場合、沖縄独自の風物については学習素材が少なく、「カラーの再現」に難航したという。例えば、市場で女性が売っているカゴのなかの物が何であるのかが判別せず、別会場での展示の際、来場した高齢の女性から「海藻」だと教えてもらい、色彩が再現できたというエピソードも紹介された。これは再現可能となった事例だが、「記憶の欠落や空洞」を物語るものとして、あえて着色せず残す方法もアリなのではないかと思った。沖縄戦の破壊による消失の傷を「色鮮やかな再現=記憶の蘇生」として癒すのではなく、証言者の不在と「もはや蘇らない」記憶の空白地帯と断絶を指し示すものとして。
公式サイト:http://www.asahi.com/special/okinawa/oldphoto/
2019/05/25(土)(高嶋慈)
セレブレーション/小泉明郎《私たちは未来の死者を弔う》
会期:2019/05/18~2019/06/23
京都芸術センター、ザ ターミナル キョウト、ロームシアター京都、二条城 東南隅櫓[京都府]
日本とポーランドの国交樹立100周年を記念したグループ展。両国の若手・中堅のアーティスト21組が参加する。日本でまとまって紹介される機会の少ないポーランドの現代アートを見られる貴重な機会だが、メイン会場の京都芸術センターの主な展示スペース(南・北ギャラリー、講堂、フリースペース、大広間)はすべて日本人作家で占められている(経費の問題もあるだろうが)。また、数組のポーランドでのレジデンス経験者以外は、京都市立芸大出身者でほぼ構成され、偏向性や閉鎖性を感じざるをえない。タイトルの「セレブレーション」という身も蓋もない言葉通り、「国交樹立100周年」という記念性を冠しただけの企画に感じた。
本展での収穫は、(ポーランドでのレジデンス経験者/京都市立芸大出身者のどちらにも該当しないのだが)小泉明郎の映像作品《私たちは未来の死者を弔う》だった。今年春の「シアターコモンズ'19」で発表された本作は、公募で参加した若者たちとのワークショップを経て、かつての米軍基地跡地で撮影された。
これまでの小泉作品は、「過去を再演する(再現的に反復する)」という演劇的アプローチにより、「戦争」という負債を清算できないまま抱え込んだ日本社会の下部構造をあぶり出してきた。特攻隊や出征兵士と「感動」のドラマの共犯関係。第二次大戦で子どもを殺害した日本兵の証言を、事故で記憶障害になった男性に暗誦させ、「加害の記憶喪失」を患う 日本を批判する《忘却の地にて》。反天皇制のデモとそれに対するヘイトスピーチの現場を映し出しながら、複数の「父と子」(キリスト、小泉自身とその父親、天皇と国民)及び「(自己)犠牲」のイメージを多重的に重ね合わせる《夢の儀礼─帝国は今日も歌う─》。そこでは、「演出」の介入や「フィクション」であることの暴露が、虚実曖昧な領域に観客を連れ出しつつ、「戦争」というトラウマの抑圧、虚構だからこそもたらされる心理的高揚、加害の記憶の健忘症、同調圧力といった病巣が浮き彫りにされる。
また、しばしばスクリーンの裏面にメイキングや暗喩的イメージが投影され、同期した映像が表/裏に投影されるという空間的二面性も小泉作品の特徴のひとつだが、《私たちは未来の死者を弔う》では、「逆再生」という時間の反転がキーとなる。パフォーマンスを記録した「通常再生」のパートでは、しのつく雨のなか、放射線の防護服を思わせる白いコートを着た者たちが、若者を一名ずつ、死体のように運んでくる。処刑される者のように、膝立ちで両腕を後ろに抑えられた若者は、「私、○○は、何か(家族、子ども、自由など)のために自分の命を投げ出します/何のためにも自分の命を投げ出しません」と宣言し、その理由を述べる。それは一語一句、他の者たちによって復唱され、銃声のような掛け声とともに、宣言した者は蘇生のような身振りを行なう。「見よ、未来の英雄が蘇った」という声が響く。
だが、この「宣言」と「蘇生」の儀式は、「逆再生」のパートにおいて、(解読不能な言語による)「断罪」と「集団処刑」に反転していく。逆再生によって、音声は不可解な外国語か呪詛のように響き、さらに復唱の順番が入れ替わることで、主体的な意志による宣言だったものは、匿名的な集団の声が処刑される者に強要する、罪状と自己批判の言葉のように見えてくるのだ。その「罪の宣告」が何であるかが見る者には把握不可能なことが、より不気味さを加速させる。そして、地面に横たわる「死体」の数は次第に増えていく。
「自己犠牲」をすすんで行なう者が「英雄」なのか、あるいは「自己犠牲」の否認が「英雄」たりえるのか。どちらであれ、主体的な意志を宣言した者が「蘇る」という「通常再生」のパートは、(「処刑」に反転したパートをかいくぐった後では)主体的な意志の発言がバッシングや社会的抹殺を受けて葬られてしまう現状への批判ともとれる。そこでは、権力体制によって、あるいは個人の輪郭が判別しがたい集団的な声によって一度葬られた「死者たち」が絞り出す言葉は、(再び)意味を持った言葉として再生され、私たちに届く。通常再生/逆再生のループを繰り返す操作により、蘇生/処刑、救済/抑圧の両極を行き来する本作は、極めて両義的だ。
だが真に不気味なのは、淡々と処刑を遂行する兵士/白い防護服に身を包んだ者たちの平静さではなく、時折カメラに映る、処刑/蘇生の儀式を遠巻きに囲んでただ傍観している者たちの存在ではないか。鏡の反映のように、自らの姿が不意に画面内に映し込まれたような、後味の悪さ。それは、彼らと同じく、光景を「ただ見ている」観客に対して、「見ること」が中立的立場ではないこと、「ニュートラルな視線」など存在しないことを突きつける。私たちは、処刑と忘却の遂行に、「黙認」という形で加担しているのか、それとも蘇生の奇跡の目撃者たりえるのか。
2019/05/25(土)(高嶋慈)
山本聖子「白いシロ」
会期:2019/05/24~2019/06/09
Gallery PARC[京都府]
「白」という色彩に着目し、「清潔」「純粋」「無垢」「平和」といった私たちの生活空間におけるポジティブな意味の付与と、「他の色を排除して成り立つ排他性」という暴力性の両側面に言及してきた山本聖子。本展では、物件広告の「間取り」の線を切り抜いて織物のように繋げた作品を起点に、「白」の多彩な面に言及した作品群が展開された。
本展を通覧して、とりわけ2Fのメインフロアの作品群から感じたのは、(ホワイトキューブの「白い壁」が、その物質的存在を消去された「透明な支え」として機能するように)ここで「白」の背後に隠された本当の主題は何か、ということだ。切り抜かれた間取りの線がタペストリーのように連なった平面作品と向き合うのは、市販の女児向けのぬりえ帳である。「アイドル」「ケーキ屋さん」「がっこうのせんせい」「ファッションデザイナー」「フライトアテンダント」といった「憧れの仕事」に就く女性たちのイラストは、輪郭線の内部が修正液で白く塗りつぶされる。あるいは間取り図と同様、切り取られた輪郭線が繋ぎ合わされ、遠目には抽象的な曲線のドローイングのようだが、よく見ると、ドレス、セーラー服、ツインテール、エプロンなどの記号的線であることが分かる。また、切り抜かれた線の内側部分は、白い石鹸で囲まれて台の上に安置され、キラキラの眼、顔、髪、腕や足など身体パーツ(の断片)であることも相まって、彼女たちの死を弔う祭壇のようだ。反対側のスピーカーからは、「白い四角は侵してはならない」「美しい」「純粋」「匂いがしない」「見えない」といった囁き声が聞こえ、「白い四角は」という単語の反復と相まって、脅迫的ですらある。
真っ白で清潔なタオルや衣服、家電製品、食器、エプロン、食品の容器や洗剤のパッケージ。それらで居心地よく満たされた居住空間、すなわち不動産物件の間取りの多くもまた、カップルや核家族を対象にしたものだ。そこでは、「家庭内を美しく、清潔に整え、家族が笑顔と健康でいられるよう平和に保つ」役割は、家事と育児を担う再生産労働者としての女性に担わされてきた。ここで、過剰な「白」への脅迫衝動の背後に隠された「見えない」存在として、「清潔」「純粋」「無垢」「平和」を期待された理想的な女性像を読み込むことも可能である。ちなみに「いろんなおしごと」の例のぬりえ帳には、「母親」はない。
2019/05/25(金)(高嶋慈)
イキウメ『獣の柱』
会期:2019/05/14~2019/06/09
世田谷トラムシアター[東京都]
劇作家の前川知大とイキウメの作品は必ず見ようと思ったきっかけになったのが、6年前に鑑賞した『獣の柱』だった。今回、再演されるということで劇場に足を運んだら、隕石が放つ光がもたらす快感に人々が我を忘れてしまう怪現象という序盤こそ同じだったが、途中からだいぶ違う展開になり、より完成度が高い新作のようになっていたことに心底驚かされた。空から降る巨大な柱を見るものは多幸感に囚われるが、あまりの過剰さゆえに人類に厄災をもたらす。そう、ほかのことが一切できなくなるという死に至る快感なのだ。SF的な物語は、いろいろな解読を可能にしているが、前回は、311の余波が続く時期だったこともあり、宗教的な崇拝の対象にすらなる光の柱が、事故を起こした原発の寓意に思われた。支配され、共存するか、あるいは別の生き方を選ぶか。しかし、今回は力点が変わり、新しい人類の誕生や、これまでの20世紀の文明とは違うコミューンをつくる物語になっていた。
イキウメの作品をたどると、今回の『獣の柱』は、旧人類と新人類を描いた作品『太陽』にも近いだろう(ただし、この作品では太陽の光を見ることができるのは旧人類)。またSFとしては、特に「あなたたちの役割は終わった」という強烈な一言から、アーサー・C・クラークの小説『幼年期の終わり』も思い出した。ほかにもナイト・シャラマンの映画『ハプニング』において、人間が集中し、一定の密度になると自死を選ぶという設定を連想した。劇中では、なぜこのような柱が出現したかについて生き残った者たちが議論し、幾つかのSF的な仮説が提示されるが、必ずしも明快な結論が出るわけではない。やはり、解釈は開かれていた。ともあれ、ハリウッド映画のような予算がなくとも、この超常現象により人類が危機に陥るという凄まじい物語を舞台で演じてしまう説得力、それに加え、シリアスな内容にもかかわらず、イキウメ特有のユーモアが失われてないことに感心させられた。
公式サイト:http://www.ikiume.jp/kouengaiyou.html
2019/05/29(水)(五十嵐太郎)
中山英之展「, and then」
会期:2019/05/23~2019/08/04
TOTOギャラリー・間[東京都]
ギャラリー間では、ベスト級の展覧会だった。個人的に良い展覧会のポイントは、以下の3つである。第一に素晴らしい作品、もしくは貴重な資料があること。第二に、ここでしか体験できないこと(すなわち、書物に置き換えにくい内容)。そして第三に、展覧会の枠組を改めて問うこと。とくに映像との関係で建築展をひっくり返すことに成功している。どういうことか。通常、建築展において映像は付属物として扱われる。だが、本展のメインとなる4階を、むしろ彼の作品について制作された6編のショート・ムービーを上映する映画館=「シネ間」とし、3階を映像に関する資料、ドローイング、模型などの展示場とした。つまり、建築家の手を離れた後、現在、どのように住宅が使われているかを伝える、ドキュメンタリー映画の方が主役である。また『家と道』以外は上映時間10分以内に抑えられ(あまり長過ぎないことも好感がもてる)、休憩・CMを含めて、ちょうど1時間のタイムテーブルが組まれている。
過去にも千葉学が数名の施主に使い捨てカメラを送り、住宅の現状を撮影したものを活用する展覧会があったが(建築家に依頼するだけに、写真のセンスが良いことにも感心)、今回は施主だけでなく、さまざまなアーティストが撮影しており、建築の特徴を引きだしつつ、それぞれの強い個性が反映されている。とくに実見したことがある「O邸」は、訪問したときに比べて、かなり使い倒されている雰囲気がよくわかった。『Mitosaya薬草園蒸留所』はライブ感あふれる商品の製造過程をとらえ、「弦と孤」は上下と回転運動のみによるカメラが1日の様子を撮影し、ギャラリー間としては破格に横長の三面スクリーンに映しだされる。『2004』はかわいらしいアニメーションと写真のスライドショーであり、「家と道」は入念に演出された人々の動きをカメラのアングルを変えながら紹介する(もっとも面白い作品だったが、5回目のループはなくてもよかったかもしれない)。
2019/05/31(金)(五十嵐太郎)