artscapeレビュー

2020年04月01日号のレビュー/プレビュー

西野達「やめられない習慣の本当の理由とその対処法」

会期:2020/01/25~2020/02/22

ANOMALY[東京都]

街角に建ってる銅像の頭の上に家具やピアノを積み重ねたり、食卓の上でサラダボールに頭を突っ込んで逆立ちした男が股のあいだにトマト、両足にキャベツとスイカを載せていたり、畳の上のヘルメットに乗った女性が両手と頭上でソファや椅子、自転車を支えていたり……。言葉で説明してもなんのことだか伝わりにくいが、これらは写真の作品。驚くことに合成でもトリックでもなく、実際にそうやって撮ったストレート写真なのだ。そのフレームの外ではとんでもないドタバタ劇が演じられていたはずだが、写真にはいっさい写っていない。

石膏像を縦にツギハギして蛍光灯をつけたり、木の幹の先っぽに仏像を彫って金色に塗ったり、自動車、冷蔵庫、ベッド、ソファなどが1本の街灯によって串刺しにされたり……。これらは写真ではなく、現物を展示している。一言で言えば、シュルレアリスムの「デペイズマン」ですね。ありふれたもの同士の意外な出会いってやつで、有名な手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いみたいに、なんの意味も脈絡もないところがいい。特に西野は生活臭漂うチープな日用品を使い、そこに重力や時間を加えて日常の壁を超え、宇宙の法則さえ突破しようとする。

ANOMALYの近くでは「大阪万博50周年記念展覧会」をやっていて、その一環として西野が屋外インスタレーションを制作したので、そちらも見てきた。プレハブやら自動車やらをつなげた怪しげな仮設小屋で、ドアを開けると、薄暗い倉庫のような部屋があり、次のドアを開けると、洗濯機や洗面台のある明るいバスルームに出る。「なんだこれは」と思って次のドアを開けると小型バスの最後尾に出る仕掛け。バスの前方に移動してフロントガラスのカーテンを引くともう一部屋、快適なリビングルームが現われて、さらにその奥の窓は小型車につながっている。予期せぬ展開の連続が展開の予期せぬ連続なのだ。



西野達《日常のトンネル》展示風景

2020/02/16(日)(村田真)

生誕120年・没後100年 関根正二展

会期:2020/02/01~2020/03/03

神奈川県立近代美術館 鎌倉別館[神奈川県]

生誕120年・没後100年って、20年しか生きていないじゃん! ふつう画家の回顧展で10代の作品が出ることはほとんどないが、関根は逆にほぼすべてが10代の作品だ。亡くなった1919年には、関根とともに「夭逝の天才画家」として語られることの多い村山槐多も22歳で世を去ったし、その前年にはエゴン・シーレも28歳で亡くなっている(師のクリムトも同年没)。死因は関根以外、約1世紀前のこの時期に世界的に猛威を振るったスペイン風邪だった。いまの新型コロナウイルスと違ってスペイン風邪は、高齢者より若者の死亡率が高かったらしい。

さて、展覧会だが、なぜ広い葉山ではなく鎌倉別館でやることになったのか知らないけれど、おかげで約100点の作品と資料、関連作家の作品はいっぺんに公開できず、前後2期に分けての展示となった。お目当ての《信仰の悲しみ》は後期なので、初日に続いて2度も足を運んじまったよ。ちなみにもうひとつの代表作《少年》はブリヂストン、じゃなかったアーティゾン美術館の開館記念展に、ピカソとマティスに挟まれて展示されているので必見だ。

作品はほぼ時代順に並んでいる。初期のころは河野通勢の影響下で風景画を描いていたが、徐々に関根ならではの人物画に絞られてくる。といっても油彩の人物画は10点少々しかないが。これらの人物画で目を引くのは、なんといってもヴァーミリオンの鮮やかさだ。横顔を描いた《少年》の頬や花、《信仰の悲しみ》の真ん中の人物、不出品ながら《子供》の服などに顕著だが、それだけでなく、背景や輪郭線にも隠し味のようにチョロっと使って絶妙な効果を生み出している。窮乏生活を強いられた関根が、なぜ高価なヴァーミリオンをこんなに使えたのか。ていうか、本当にこれ、ヴァーミリオンだろうか。カタログには、《信仰の悲しみ》の地面に金色が使われているとの説を検証するため調査したら、代用品の真鍮だと判明したとあるが、このヴァーミリオンも代用品? それにしては鮮やかなので、おそらく関根は一食抜いてでもヴァーミリオンを塗ることに自虐的な快楽を覚えていた、と思いたい。

関根の人物画で以前から気になっていたのは、人物の目に光(白い点)がないこと。ふつう人物を描くとき、最後に画竜点睛のごとく瞳に反射光を入れて生命を吹き込むものだが、関根の人物には油彩、素描を問わず白い点が入っていない。だから関根の人物画はどれも不気味な印象がある。《井上郁像》《村岡みんの肖像》《真田吉之助夫妻像》といった肖像画の薄気味悪さはそれが一因だろうし、3人の人物がこちらを向く《三星》にいたっては、もはやホラーだ。

今回もうひとつ気づいたのは、横顔がヘタなこと(笑)。油彩で横顔を描いたのは《少年》をはじめ、《姉弟》の姉、《神の祈り》の右側、《婦人像》などいくつかあるが、《少年》は目、鼻、口のバランスの悪さを微妙な色彩と筆触でカバーしているのでよしとして、ほかの横顔はことごとく失敗している。横顔では瞳に白い光を入れる余地がないことと、なにか関係しているのだろうか。ナゾだ。

2020/02/22(土)(村田真)

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日本の美を追い求めた写真家・岩宮武二 京のいろとかたち

会期:2020/01/04~2020/03/31(02/28〜03/31休館)

フジフイルム スクエア写真歴史博物館[東京都]

日本の写真表現の歴史において、岩宮武二(1920〜1989)の評価は十分なものとはいえない。ひとつには、彼が関西を中心に活動していたため、東京を中心とする写真ジャーナリズムではどうしても扱いが小さくなりがちだったということがある。もうひとつは、彼の仕事がコマーシャル・フォトからドキュメンタリーまでかなり幅広く、多面的だったので、焦点が絞りにくいということもあるだろう。だが、森山大道を写真の世界に導いたのが岩宮だったということも含めて、彼の写真の世界をもう一度見直し、きちんと評価していく時期が来ているのではないかと思う。

今回展示されたのは、岩宮が1950〜70年代にかけて、京都の風物を「いろとかたち」をテーマに撮影したシリーズである。全2巻の『かたち 日本の伝承』(美術出版社、1962)、『京 Kyoto in KYOTO』(淡交新社、1965)などの写真集にまとまる京都のシリーズは、日本人の伝統的な美意識を、仏閣や茶室などの造形美を通じて探り出そうとしたものであり、同時期の石元泰博の仕事との共通性を感じる。だが、石元のニュー・バウハウス仕込みの厳格な造形的アプローチと比較すると、岩宮の写真には、ほのかな色気のようなものが漂っており、日本の湿り気のある風土に根ざした空気感が伝わってくる。とはいえ、ほかの岩宮の作品にも共通する、背筋をぴんと伸ばした姿勢のよさが、どの写真からも感じられ、見応えのある作品が多い。

岩宮はドイツのオットー・シュタイネルトが企画した「Subjektive Fotografie2」展(1954年)にも出品しているし、1970年代以降に集中して撮影した「アジアの仏像」シリーズも、クオリティの高いいい仕事だ。ちょうど、今年は岩宮の生誕100年の記念すべき年でもある。本展をひとつの契機として、その全体像を概観できる大規模な回顧展を開催するべきではないだろうか。

2020/02/24(月)(飯沢耕太郎)

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岡﨑乾二郎 — 視覚のカイソウ

会期:2019/11/23~2020/02/24

豊田市美術館[愛知県]

津から名古屋をスルーして豊田へ。最終日だから人は多めだろうと思ったけど、こんなに混んでるとは予想外。新型コロナはどうした? そういえば昔、トヨペット・コロナってあったなあ。それはともかく、人出は「諏訪直樹展」と対照的だが、内容もある意味、対照的かもしれない。

岡﨑は諏訪よりひとつ下だが、ほぼ同世代であり、2人ともBゼミに学んだので、美術に対する問題意識も共有していたはず。ただデビューしたのは岡﨑のほうが数年遅く、1980年代に入ってからのこと。めまぐるしく変化した70年代末から80年代初頭にかけての数年の違いはけっこう大きい。デビュー作は「あかさかみつけ」と呼ばれるシリーズで、1階の大きな展示室の壁にぐるりと40点ほど並べられている。あらためて見ると、初めからミニマリズムもコンセプチュアリズムも超えて完成されていたんだと感心した(最初一つひとつ違う作品だと思ったら、よく見ると配色の異なる「あかさかみつけ」と「おかちまち」の2種類だけだった)。

このシリーズ、ポリプロピレンなどのボードにさまざまな切れ目を入れ、折ったりつなぎ合わせたりして彩色したレリーフ状の作品。これは型紙のパターンを参照したともいわれるが、1枚の紙を切ったり折ったりするプリミティブな図画工作に遡る作業とも言え、造形の原点に立ち戻るところから表現を再構築しようとした点で、諏訪の初期と共通するものがある。だが、明らかに岡﨑のほうが自由度が高く、その意外なほどの小ささとも相まって、70年代とはっきり一線を画す軽快さが感じられるのも事実。その意味でこのシリーズは80年代初頭における現代美術の最適解とも言え、これによって岡﨑はニュー・ウェイブの旗手と目されていく。

ちなみに「あかさかみつけ」のサイズは、縦横ともに30センチに収まる程度の大きさ。この日は人が多く、ほぼ目の高さに展示されていたせいか、人間の頭と紛らわしかった。ひょっとしたらこれ、頭じゃね? と、ふと思った。というのも、そのあとに展開していく長ったらしいタイトルの2枚組の絵画が、基本的に人体サイズが多く、そこに描かれるフォルムも内蔵や筋肉を思い出させるからだ。ま、それは勝手な想像だが。

都合により美術館には1時間足らずしか滞在できなかったため、残念ながら2、3階の展示室はゆっくり見られなかった。なので1階の展示室を見る限りだが、やっぱりデビュー作の「あかさかみつけ」が最高傑作で、これを超える作品はないんじゃないかと思った。ここは諏訪と正反対だ。実際「あかさかみつけ」は1981年に初めて発表して以来、40年近く断続的につくられているのだから、これはもう「無限連鎖するレリーフ」と言ってもいいかもしれない。

2020/02/24(月)(村田真)

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没後30年 諏訪直樹展

会期:2020/02/01~2020/04/05

三重県立美術館[三重県]

津市の三重県立美術館へ。新型コロナウイルスのせいか、祝日なのに観客はぼくを除いて2、3人しかいない。これはゆっくり見られるぞ。諏訪直樹は1970年代後半から80年代にかけて独自の絵画を追求し、1990年に36歳の若さで不慮の死を遂げた画家。同展は没後30年を記念して館のコレクションを公開するもの。

諏訪は1980年以降、伝統的な日本絵画の形式を採り入れた独特の絵画を発表して注目されたが、今回はそれ以前の1970年代後半の初期作品がおよそ半数を占めており、当時の時代状況も浮かび上がってくる。70年代というと、表現を極度に抑制するミニマリズム、コンセプチュアリズムが美術シーンを支配し、「絵画」「彫刻」は死んだといわれ、「平面」「立体」に言い換えられていた時代。若い作家たちはこうした閉塞状況を脱して新たな表現を獲得するため、普遍的な幾何学的構成から始めたり、矩形のキャンバスを放棄したり、抽象表現主義に立ち戻ったり、日本の伝統形式に着目したり、試行錯誤を繰り返していた。まだ20代前半だった諏訪は、貪欲にもこれらすべてを試みた。

《IN・CIRCLE NO.1》は、7枚の画面を垂直に分割して点描で彩色した連作で、分割の比率も色彩の配置も厳密なシステムに則っていることがわかる。これらを横にぴったり並べて遠くから眺めると、個々の画面を超えて別のパターンが浮かび上がってくる仕掛け。個で完結せず全体でひとつの作品に見せるのは、のちの《無限連鎖する絵画》にもつながる発想だ。諏訪はさらに黄金分割を使って画面を縦横に組み合わせたり、斜めにカットしたりするシェイプトキャンバスのシリーズ「The Alpha and the Omega」を発表。アルファとオメガはギリシャ文字の最初と最後で「永遠」を意味し、これも《無限連鎖する絵画》を予感させる。ここまでが初期作品だ。このように数字や幾何学などの外的システムに頼るのは、諏訪に限らず、内発的表現が困難だった当時としては、「美術」「絵画」を再起動するために必要とされた方便だったのだ。

そして1980年、その後の諏訪の方向性を決定づける「波濤図」シリーズを始める。これは画面を屏風のように折り曲げ、荒々しいタッチで(しかし幾何学的パターンに沿って)伝統的モチーフである波濤を描いたもの。これを懐古的な日本回帰と見る向きもあるが、そうではなく、日本絵画の形式に当時流行の兆しを見せていた新表現主義のエッセンスを採り入れた、ハイブリッドな現代絵画と見るべきだろう。同展では、衝立状の「日月山水」シリーズ、掛軸の形式を借りた「PH」シリーズ、屏風仕立ての「八景残照」へと展開していく過程が見て取れる。絵の内容も初期のように分割した画面に均質に色彩を置くのではなく、幾何学的形態のせめぎあう空間に奔放にストロークを走らせている。このあと諏訪は死ぬまで終わることのない、従って遺作となった《無限連鎖する絵画》に着手することになるのだが、この3部からなる超大作が単なる思いつきなどではなく、初期作品にすでに胚胎していたことは前述のとおりだ。

いま見てきた作品は《無限連鎖する絵画》を除き、すべて三重県立美術館のコレクションに収まっている。それは諏訪が四日市出身の、いわば地元作家だからだが、なぜか最重要の《無限連鎖する絵画》の3部作だけは宇都宮美術館、目黒区美術館、千葉市美術館に分散している。これらをまとめて見られないのは残念だけど、もしすべてが1館に集中していたら地域の人以外はあまり訪れず、それこそ地元作家の1人として埋もれてしまいかねない。3館に分散させたのは偶然かもしれないが、ある意味戦略的とも言えるだろう。

2020/02/24(月)(村田真)

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2020年04月01日号の
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