artscapeレビュー

2020年04月01日号のレビュー/プレビュー

キュンチョメ『いちばんやわらかい場所』

会期:2020/03/01~2020/03/02

ゆりかもめ台場駅周辺[東京都]

「参加者のみなさまには、子供の頃いちばん大切にしていたぬいぐるみをお持ちいただきます。もし探してもみつからない場合、もう捨ててしまっている場合は、今たいせつにしているぬいぐるみがあればそれをお持ちください。なにもない場合、自分が子供のころに一番大切にしていた『やわらかいもの』に関する記憶を思い出しながら、会場にお越しください」。

シアターコモンズ'20で開催されたキュンチョメによるワークショップ『いちばんやわらかい場所』の参加者に事前に送られてきたメールにはこう記されていた。

ゆりかもめ台場駅前に集合した20名ほどの参加者は二人一組となり、互いのぬいぐるみを紹介し合いながら歩くよう促される。私が子供の頃に大切にしていたネコのぬいぐるみは探しても見つからず、代わりにかつて高校の同級生からオーストラリア土産としてもらったコアラのぬいぐるみを持参した。私はほかにもうひとつしかぬいぐるみと呼べるものを持っておらず、ごく最近手元に来たそれはこのワークショップの趣旨に合っているとは思えなかった。一時期クレーンゲームにハマっていたこともあり、部屋にそれなりの量のぬいぐるみがあったこともあるのだが、それらはいまはない。記憶にないがおそらく捨ててしまったのだろう。

というようなことを話しながらしばらく歩いたところでペアをシャッフル。次の会話テーマはそのぬいぐるみを発見した(と出会った?)ときのこと。しばらくするともう一度シャッフルがあり、最後のテーマは「あなたを縛るもの」だ。私はコロナウイルスや花粉、金(のなさ)といったことをとりとめもなくしゃべった。

15分ほど歩いた先の会場にはウサギ、トラ、パンダ、ゾウ、カッパ、ライオン、リスなどの着ぐるみが用意されていた。参加者は今度はそれを着たうえで持参したぬいぐるみを持ってお台場の街を歩くのだという。初めて着た着ぐるみのなかは想像以上に暑く、私が選んだライオンは口のメッシュから外を覗くタイプだったので視界は極端に狭かった。心細くよろよろと歩き出すが、20人弱の着ぐるみ集団が小雨降るお台場の街に繰り出すさまは、一人ひとりはファンシーでも全体としては異様な迫力がある。

[撮影・画像提供:シアターコモンズ’20]

[撮影・画像提供:シアターコモンズ’20]

雨の平日、しかも昼間ということで人出はさほど多くはないものの、商業施設の集まるそのエリアにはそれなりに人がいる。着ぐるみを着た私に手を振る子供に手を振り返し、そうでなくともガラス越しに着ぐるみの集団を発見して驚く人々には自ら手を振ってみたくもなる。外国人観光客と思しき人々と記念撮影もした。

広場で集合写真を撮ると20分の自由時間だと言われ、私はショッピングモールの中に入ってみる。ギョッとする人。手を振ってくる人。話しかけてくる人。視界が狭いのでいまいちどこを歩いているのかわからない。気づけばシネマコンプレックスの入り口らしきところで、危うく係員に追いかけられそうになる。再び外に出るとリスとパンダが音楽をかけて踊っており、私はそこに合流する。

[撮影・画像提供:シアターコモンズ’20]

着ぐるみは相当に無敵である。常ならざる大胆な行動ができてしまう。子供にも人気だ。小雨も気にならない。しかしそれらの行動は私の意思によるものだっただろうか。着ぐるみならば手を振るべしと思っていたところは確実にある。外見が私の行動を、他者の反応を規定する。子供も外国人観光客も係員も、着ぐるみの内側の36歳男性を見てはいない。無敵は孤独とセットなのだ。「やわらかい場所」は守られていて、守られているから「やわらかい」。

時間が来て着ぐるみを脱いだ私たちは改めて「集合写真」を撮る。それは参加者が持参したぬいぐるみたちだけが並ぶ集合写真だ。ワークショップはここで終わる。

[撮影・画像提供:シアターコモンズ’20]

後日、ワークショップの様子を記録した写真が送られてきた。だがそこに記録されていたのはワークショップの後半、つまり着ぐるみを着てからの参加者の姿だけだった。そこに写っているのが「私」であることを保証するのは私自身の記憶と、ライオンが手に持つコアラのぬいぐるみだけである。私のアイデンティティはコアラのぬいぐるみとして示される。昔の写真を見ても当時のことが思い出せないというのはよくあることだ。記録は残っても記憶は薄れていく。友人に確認すれば、コアラのぬいぐるみは高校ではなく中学のときの土産だったらしい。過去と現在の私をつなぐ曖昧な記憶。その頼りないよすがとしてのぬいぐるみも既製品に過ぎず、写真に写るそれが本当に私のものであるという保証はない。コアラのぬいぐるみの記憶もほかの多くのぬいぐるみの記憶と同じように忘れられるかもしれない。そのとき、写真に写る「私」は私でなくなるだろうか。「いちばんやわらかい場所」は目には見えない。

[撮影・画像提供:シアターコモンズ’20]

[撮影・画像提供:シアターコモンズ’20]

[撮影・画像提供:シアターコモンズ’20]


シアターコモンズ'20:https://theatercommons.tokyo/program/kyun-chome/
キュンチョメ:https://www.kyunchome.com/

2020/03/02(月)(山﨑健太)

橋本照嵩『瞽女 アサヒグラフ復刻版』刊行記念展

会期:2020/02/21~2020/04/04

ZEN FOTO GALLERY[東京都]

橋本照嵩(1939〜)の「瞽女(ごぜ)」は、1970年代の日本の写真家たちの仕事のなかでも、最も印象深いシリーズのひとつである。新潟・北陸地方を、唄と三味線で門付けをしながら旅を続ける盲目の女芸人たちを、橋本は行動をともにしながら四季を通じて撮影し続けた。それらは、1970〜73年の『アサヒグラフ』に5回にわたって掲載され、1974年に写真集『瞽女』(のら社)として出版され、橋本の代表作となった。

今回展示されたのは「作家の手元に残る当時の膨大なネガより新たな視点で選りすぐって制作した」20点余りだが、いま見直すと、哀感を込めて撮影された瞽女たちの姿だけでなく、彼女たちの背景となる風景の変貌にむしろ胸を突かれる。1970年代は「日本列島改造」の掛け声に乗って、都市と田舎との差異が縮まり、日本全体に均質な眺めが広がり始めた時期だった。橋本は、同時代の北井一夫、土田ヒロミ、山田脩二らと同様に、農村地帯に残っていた日本の原風景が急速に失われていく状況に鋭敏に反応し、その指標として瞽女たちにカメラを向けていった。やや広角気味のレンズで、引き気味に撮影するスタイルが、その意図とうまく噛みあっている。

本展は、タイトルが示すように、ZEN FOTO GALLERYから刊行された『瞽女 アサヒグラフ復刻版』の出版記念展を兼ねている。写真集『瞽女』より一回り大きな判型の『復刻版』で見ると、個々の写真の迫力が増して、生々しい印象が強まる。1970年代の写真家たちの作品は、雑誌を最終的な発表媒体として制作していたので、このような試みは、貴重かつ有意義といえるだろう。

関連レビュー

橋本照嵩「瞽女」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2014年05月15日号)

2020/03/04(水)(飯沢耕太郎)

小林秀雄新作展 街灯

会期:2020/02/28~2020/03/28

EMON Photo Gallery[東京都]

仕掛けを凝らした場面を設定し、自ら考案した光学装置を使って、1990年代からユニークな作品を発表し続けてきた小林秀雄の新作展である。今回は「街灯」、「花と電柱」、「街灯135」の3シリーズが出品されていた。

メインの展示となる「街灯」では、どこか奇妙な雰囲気のある「不自然な所」で街灯が光を放っている。公園や田んぼや菜の花の群生の中などにある街灯は、どうやら作り物のようだ。「花と電柱」では、電柱(これは本物)の周辺に赤い花々が見える。ヌードの女性が立っていることもある。これらは多重露光で合成したものだという。小林は8×10インチの銀塩大判フィルムを使っているので、暗室の中での合成作業ということになるだろう。「街灯135」では35ミリ判のカメラで撮影しているが、街灯と街灯のあいだでもシャッターを切っている。街灯と、何も写っていない暗闇を写し込んだフィルム6コマ分を提示し、写真の中に「移動した距離、撮影した行為による時間」を取り込もうとする。

3シリーズとも技巧を凝らしたものだが、そのことはあまり気にならない。むしろ、夜にふと街灯を見上げて、「現実と非現実、この世とあの世が、振り子が揺れるように行き来しながら、彷徨う」ように感じたという小林の体験が、リアルな実感をともなって再現されている。小林の仕事は、写真という枠組みを超えた、「光と闇」にかかわる普遍的な表現の域に達している。もう少し評価されていいアーティストではないだろうか。

関連レビュー

小林秀雄「中断された場所 / trace」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2018年07月15日号)

小林秀雄「SHIELD」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2015年01月15日号)

2020/03/06(金)(飯沢耕太郎)

田附勝『KAKERA』

発行所:T&M Projects

発行日:2020年2月

写真に限らず、どんなアート作品でも「思いつきを形にする」ところからスタートする。だが、それが単なる生煮えの「思いつき」だけに終わってしまうのか、それとも熟成して高度な作品にまで辿り着くかに、アーティストの力量があらわれてくるといえそうだ。

田附勝の『KAKERA』もその始まりは偶然の産物だった。2012年の夏、田附は新潟で縄文土器が発掘されたという知らせを聞き、現場に向かった。その破片を目にした時、そこに積み重なった「時間」の厚みを感じて、「重くて熱い血液が上昇してくる」ように感じる。田附は縄文土器を撮影するために新潟に通うようになり、ある博物館の資料室で新聞紙に包まれた縄文土器の破片を見せてもらった。土器片を整理するときに、保管状態をよくするために、その場にあった新聞紙を使うのだという。たまたま、その新聞の日付が「2011年3月13日」、東日本大震災から2日後のものだったことで、何かがスパークした。田附は震災前から東北地方に足を運び、写真集『東北』(リトルモア、2011)を刊行していた。その記憶が鮮やかに甦り、「いくつにも積み重なった地層。表層と深層を繋ぐ時間」がそこに顔を覗かせたのだ。

本作『KAKERA』は、田附がその後さまざまな博物館、資料室などを訪ね歩き、縄文土器の破片とそれらを包んでいた新聞紙を撮影した写真群によって構成されている。「時間」そのものの結晶というべき土器のたたずまいにも引きつけられるが、それ以上にそのバックの新聞記事が気になってしまう。1918年の「米の対露声明」から2015年の「戦後70年反省とおわび」まで、その間に太平洋戦争、戦後の復興、高度経済成長の時期、東日本大震災など、日本と世界の歴史が含み込まれている。縄文土器が土中で経てきた「時間」と比較すれば、わずかな光芒かもしれないが、それでもひとりの日本人の生涯を超えるほどの「時間」が過ぎ去っているのだ。

『KAKERA』は、2種類の時間を一気に結びつけるという卓抜なアイディアを、的確な構図とライティングによって完璧に実現した写真シリーズである。町口覚の造本設計、浅田農のデザインも、写真の内容にうまくフィットしている。なお、写真集の刊行にあわせて、あざみ野フォト・アニュアルの一環として田附の個展「KAKERA きこえてこなかった、私たちの声」(1月25日〜2月23日)が開催された。

関連レビュー

田附勝『魚人』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2016年03月15日号)

田附勝『東北』|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2011年09月15日号)

2020/03/07(土)(飯沢耕太郎)

第23回岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)

会期:2020/02/14~2020/04/12

川崎市岡本太郎美術館[神奈川県]

新型コロナウイルスの影響で美術館や展覧会が次々と閉鎖されるなか、開いててよかったー! 岡本太郎美術館。駅から遠いし、観客もまばらだから感染の恐れは少ないだろうと判断したのかもしれない。道中、平日は人もまばらな生田緑地に子供たちの元気な声が響いていた。君たち、安倍首相に感謝するんだぞ。なに? ほんとは学校に行きたかったって? そりゃ安倍のせいだ。

さすがに美術館内は閑散としているかと思ったら、意外や若者のカップルが多かった。ほかに行くところがないんだろう。展覧会は相変わらず元気だ。数ある公募展のなかで、いつもここだけ熱を感じる。岡本太郎の名を冠しているだけあって、エクストリームな作品が多いのだ。その最たるものが、岡本太郎賞の野々上聡人《ラブレター》。中央に木彫りの彫刻を積み上げ、それを囲むように3面の壁に100点を超す絵画をびっしりと飾り、自作アニメも流している。

作者によれば、「絵が完成し変化をやめた時、死体のように思えて淋しくて、動く絵(アニメーション)を作り始めた。またそれらを握りしめたい、撫で回したいという思いが立体作品になった」。そうした無軌道な軌跡を盛り込んだものだという。1点1点の絵画はスズキコージの絵を彷彿させる密度の濃い画風で、完成度が高く、全体として濃密なインスタレーションと捉えることもできるが、これまでの作品を並べた個展会場として見ることもできる。その対面の壁には、本濃研太(特別賞受賞)による段ボール製のカラフルな仮面がびっしりと飾られ、この周辺だけきわめて濃密な空気が漂っていた。

もうひとつ感心した作品が、特別賞の村上力《㊤一品洞「美術の力」》。「弊社の軍船で掻き集めた、古今東西の美術品を展示するギャラリー」との設定で、絵画、彫刻から木工、陶芸まで、幅広く展示している。絵画も彫刻も素材は粗い麻布でできていて、絵画は風景画から抽象画まで幅広く、このブースの展示風景を入れ子状に描いた画中画もある。ちょっと久松知子を思い出した。彫刻は阿修羅像から岡本太郎、ボブ・ディランらしき肖像まであり、テクニックは確かだ。これも全体でひとつのインスタレーションをなしていると同時に、グループ展内個展(公立美術館内私設ギャラリー)を実現させている。

新型コロナウイルスの影響は同展にもおよんでいる。そんたくズのコントライブ「死ぬのはお前だ!」が中止になった。ライブが作品なのでこれはツライ。「首相から言われたのでコントライブが出来なくなりました」と恨みがましく書いてある。もうひとつ、コロナとは関係なさそうだが、大木の芯をくり抜いた藤原千也《太陽のふね》(特別賞)が「メンテナンス中」とのことで展示中止になっていた。別に機械仕掛けの作品でもないのにメンテナンス中とはどういうことだろう。朽ち木だからカビか虫が発生したのだろうか。美術館は表現内容に関しては包容力があるが(ないところもあるが)、物理的な脅威には弱いようだ。そういえば今日は東日本大震災から9年目。

2020/03/11(水)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00052083.json s 10160977

2020年04月01日号の
artscapeレビュー