artscapeレビュー

2022年10月15日号のレビュー/プレビュー

小野啓「モール」

会期:2022/09/27~2022/10/09

TOTEM POLE PHOTO GALLERY[東京都]

小野啓の写真展「モール」を見ていて、あらためて、ホンマタカシの写真集『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』(光琳社出版、1998)が刊行されてから、すでに20年以上経っていることに感慨を覚えた。第24回木村伊兵衛写真賞を受賞した『東京郊外』は、まさに小野が今回撮影した郊外のショッピングモールの環境が、特に目新しいものではなく、日常化し始めていたことを告げた作品といえる。それから20年以上が過ぎ、関東を中心に日本全国に足を運んで撮影した「モール」では、それらが日常化を通り越して風化し、荒廃の気配さえ漂わせていることが示されていた。

ただ、2012年に撮影を開始したという今回の出品作には、主にコロナ禍以前の状況が写り込んでいる。「モール」を取り巻く環境が、今後どのように変化していくかは、まだ予想がつかない。このシリーズは、もう少し撮り続けていく必要があるのではないかと思う。男女の高校生にカメラを向けた『青い光』(ビジュアルアーツ/青幻舎、2006)でデビューした小野啓は、その後も地下アイドル、都会の男子の部屋など、現代社会の現象をさまざまな角度から鋭角的に切りとっていく作品を発表し続けてきた。「モール」にもその目の付け所のよさが発揮されているのだが、そろそろ個々のテーマに集中するだけでなく、時代や地域の状況を総体的に浮かびあがらせていくような仕事を期待したいものだ。

なお、赤々舎から同名の写真集が刊行された。今回TOTEM POLE PHOTO GALLERYで展示された作品(13点)は、風景の描写が中心で、人の姿があまり見えないのだが、写真集ではむしろその比重が高く、バランスのよい構成になっていた。

2022/09/30(金)(飯沢耕太郎)

細谷巖 突き抜ける気配 Hosoya Gan─Beyond G

会期:2022/09/05~2022/10/24

ギンザ・グラフィック・ギャラリー[東京都]

細谷巖(1935-)は永井一正(1929-)や田中一光(1930-2002)、横尾忠則(1936-)らと並び、一時代を築いたアートディレクター兼グラフィックデザイナーとして知られている。87歳を迎えてもいまだ現役で、東京アートディレクターズクラブの現会長も務める。そんな70年近くもの長い活動歴を持ちながら、本展で展示されたほとんどがデビューから間もない時代の作品だったことが目を引いた。その意図は、原点回帰なのか。1955年の日宣美展に出品し特選を受賞したポスター「Oscar Peterson Quartet」をはじめ、1960年代に発表した広告ポスター、パンフレット、書籍の一部、雑誌表紙などが並んでいた。こういう言い方は何だが、彼がもっとも脂が乗っていた頃の作品なのだろう。当然、アナログとデジタルという手法の違いもあるが、半世紀以上も前のこれらの作品にはいまの時代にはない鋭い感覚をはらんでいるように感じた。これが細谷の持ち味なのだろう。

「フォトデザインとも呼ばれるジャンルを確立した」と当時評価されたとおり、細谷は何より写真の扱い方が卓越している。ポスター「Oscar Peterson Quartet」では、ブレのあるモノクロ写真を重ねることでジャズピアニストの指の動きを臨場感たっぷりに表現した。また1961年の「ヤマハオートバイ」ポスターでは、二人乗りのオートバイが道を走っている写真を採用したのだが、「ありきたりな写真だったから」という理由で、写真を90度回転させ、上から下へ落下するような感覚を見る者に与えてより疾走感を演出した。これらの作品には、パソコンで写真をいかようにも加工できてしまう環境ではなかったからこその気迫がある。不自由は自由を生み、かえって自由は不自由を招くのではないかと思えた。


展示風景 ギンザ・グラフィック・ギャラリー1階[撮影:藤塚光政/提供:ギンザ・グラフィック・ギャラリー]


ところで本展に寄せた識者の解説の中で、面白いキーワードがあった。1935年生まれの細谷は「戦中派」世代であるという指摘だ。彼らは物心がついた少年期はずっと戦争中で、軍国教育を受けて育つものの、ある日突然に戦争が終わり、民主主義の世の中へと転換し、教科書に墨塗りをさせられたという背景がある。つまり大人にだまされた世代であるため、彼らは世の中に対する見方がどこか懐疑的で、屈折しているという分析だ。なるほど、そうした精神構造がクリエイティブにも少なからず影響を与えているのか。冒頭で述べた一時代を築いたデザイナーらが皆、戦中派というのは興味深い事実である。


展示風景 ギンザ・グラフィック・ギャラリー地下1階[撮影:藤塚光政/提供:ギンザ・グラフィック・ギャラリー]


公式サイト:https://www.dnpfcp.jp/CGI/gallery/schedule/detail.cgi?l=1&t=1&seq=00000789

2022/09/30(金)(杉江あこ)

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クリストフ・メンケ『力──美的人間学の根本概念』

翻訳:杉山卓史、中村徳仁、吉田敬介

発行所:人文書院

発行日:2022/07/30

「力(ちから)」というシンプルかつ控えめな表題に反して、本書は、きわめて複雑かつ野心に満ちた書物である。本書は、18世紀ドイツにおける「美学(Ästhetik)」という学問領域の誕生に新たな視座を導き入れるとともに、それを近代的な「主体性」の誕生をめぐるエピソードとして(再)評価する。著者によれば、美学とは、近世においてすでに生じていた「主体」の概念とは異なる「真に近代的な主体性概念が養成される場」であったという(8頁)。これが本書の第一のテーゼをなす。

以下では本書の「序言」や「訳者解説」を手がかりとしつつ、その大まかな道筋をたどっていくことにしよう。クリストフ・メンケ(1958-)は現在フランクフルト大学で教鞭をとる哲学者であり、『芸術の至高性──アドルノとデリダによる美的経験』(柿木伸之ほか訳、御茶の水書房、2010)をはじめとする数多くの著書がある。本書『力(Kraft)』(2008)はそのメンケの5冊目の単著であり、これ以後も『芸術の力(Die Kraft der Kunst)』(2013)をはじめとする比較的近いテーマの仕事を公にしている。

さて、そのメンケの見立てによれば、美学こそは「真に近代的な主体性概念」が養成される場である、ということだった。そのような「主体性」とは、具体的にはいかなるものなのか。ごく簡潔に要約してしまうと、それは(1)当の主体によって意識的に制御された次元と、(2)そこからはみ出す、無意識的で制御不能な次元の拮抗のうえに成り立つような「主体性」である。そしてこの(1)が「能力(Vermögen)」に、(2)が「力(Kraft)」に相当すると言えばわかりやすいだろう。ようするに、ここで言う「近代的主体性」とは、意識と無意識、理性と非理性といったお馴染みの対立によって構成される主体であると考えておけばよい。

ここでいったん用語の整理をしておくと、この「能力」と「力」の共通の土台となるものを、メンケは「威力(Macht)」と呼んでいる。つまり、あらゆる人間には「威力」というものがそなわっているのだが、あるときはそれが「能力」として、またあるときは「力」として発現するということである。すこしわかりにくいが、本書を読みすすめるにあたり、この三つの概念の相関を押さえておくことは有益である。

さて、そのうえで整理を続けるなら、前者の「能力(Vermögen)」とは「威力がとる特殊な形態のうち、規範的かつ社会的な実践の参加者として主体を定義するような形態」のことである(10頁)。つまり「能力」とは、人間の社会的な規範意識を醸成し、それによって社会参加を可能にするものだと言ってよいだろう。これに対する「力(Kraft)」とは、むしろ「戯れとして展開されるような作用の威力」であるという(10-11頁)。つまりそれは「能力」とは違って、ある表現を生み出しては解消し、ある表現を超克してはそれを別の表現へと変貌させる、そうした遊戯的な作用のことである。

この「能力」と「力」は、どちらか一方が──主体の「威力」として──正しく、どちらか一方が誤っているということにはならない。ある見方をすれば、この二つの威力は互いを補完しながら「弁証法的統一」へと至る、と言うことができる(=「能力の美学」)。しかしべつの見方をすれば、この二つの威力はあくまで解消不可能な「逆説」を構成していると言うことも可能である(=「力の美学」)。そして本書の最大の野心は、18世紀から19世紀にかけての美学理論の展開を、この「能力の美学」と「力の美学」の相克として語りなおすところにあるのだ。

本書は、美学の創始者バウムガルテン(1714-1762)を「能力の美学」に、そして哲学者ヘルダー(1744-1803)を「力の美学」に割り振ることで、こうした遠大な理論形成史、ないし学問伝承史を提示する。巻末の「訳者解題」(杉山卓史)が適切に示すように、第2章のバウムガルテン論が「能力の美学」の誕生、第3章のヘルダー論が「力の美学」の誕生をめぐるものだとすると、第1章、第4章はそれぞれの背景を論じたものとして、第5章(カント論)、第6章(ニーチェ論)はこの二つの美学の対決の帰趨を論じたものとして読むことができる。各章の議論はそれなりに専門的だが、本書を通読した先には、美学と近代的主体性の関係をめぐるまったく新たな認識が得られるはずである。

2022/10/06(木)(星野太)

グレゴワール・シャマユー『人間狩り──狩猟権力の歴史と哲学』

翻訳:平田周、吉澤英樹、中山俊

発行所:明石書店

発行日:2021/09/13

本書の著者グレゴワール・シャマユー(1976-)は、今日もっとも勢いのあるフランスの哲学者の一人だろう。シャマユーは、2008年の『人体実験の哲学』(加納由起子訳、明石書店、2013)、2013年の『ドローンの哲学』(渡名喜庸哲訳、明石書店、2018)、2018年の『統治不能社会』(信友建志訳、明石書店、2022)など、いずれも重要なテーマを扱った書物を次々と世に送り出してきた。なかでも、かれの2冊目の単著にあたる2010年の『人間狩り』は、思想的にも歴史的にも、きわめて広大な射程をもった書物のひとつである。

本書でシャマユーが照準を合わせるのは、「人間を狩る」という穏やかでないテーマだ。ただしこの「狩り」には、(獲物などを)「追いかける」という意味と、「暴力的に外に追いやる」という二つの含意がある(8頁)。この「追跡する狩り」と「追放する狩り」は一応は区別されるが、この二つの行為は根本ではつながっている。なぜなら、人間を動物のように追い回すことは、その人間があらかじめ公共の領域から追い立てられていることを意味するからだ。『人間狩り』は、そうした人間を人間ならざるものへと追いやる「狩猟権力」についての書である。

全12章からなる、本書の大まかなストーリーは次のようなものである。まず古代ギリシアにおいて、「狩猟権力」はポリスの市民が奴隷を力づくで調達・捕獲し、主人として彼らを支配するための権力として出現した(第1章)。次いでヘブライ=キリスト教の伝統において、「狩猟権力」はまずもって暴君が行使する「捕獲するための狩り」に相当したが(第2章)、同時にそれは、慈悲深いはずの「司牧権力」(フーコー)が行使する「追放するための狩り」でもあった(第3章)。

これら三つが「狩猟権力」の旧き形象であるが、時代とともに、この暴力的な権力は地球上のいたるところに広がる。周知のように、それはアメリカ大陸における「先住民狩り」であり(第4章)、アフリカにおける「黒人狩り」(第5章)である。また新大陸や植民地ではなく、西洋社会の内部に目を向けてみても、そこでは「貧民狩り」(第7章)や「外国人狩り」(第10章)といった暴力的営為が──警察権力の拡大とともに──連綿と続けられてきた。本書はこうして、古代から近代までの「人間狩り」をめぐる壮大な系譜学を描き出すのだ。

なかば当然のことではあるが、こうしたシャマユーの問題意識は、しばしばフーコーの権力論と比較され、それを継承するものとされてきた。その正否については本書の「訳者解題」(平田周)をはじめすでにさまざまな議論があるので、ここでは立ち入らない。だが、ここでひとつだけ触れておくことがあるとすれば、それは本書の驚くべき読みやすさにある。シャマユーの書物がきわめて「現代的」だと思わされるのは、フーコーをはじめとする先達の権力論に比べて、その論述スタイルがきわめて明晰であることだ。本書『人間狩り』や『ドローンの哲学』が英語圏で好評を得ていることからもうがかえるように、本書は簡潔にして要領を得た文体によって、歴史的にも理論的にも厚みのある「人間狩り」という主題に接近するための、格好の一冊になりえている。

2022/10/06(木)(星野太)

東京芸術祭ファームFarm-Lab Exhibition パフォーマンス試作発表『「クィア」で「アジア人」であることとは?』

会期:2022/10/07~2022/10/09

東京芸術劇場ロワー広場[東京都]

芸術にできることは何か。東京芸術祭ファームFarm-Lab Exhibition パフォーマンス試作発表『「クィア」で「アジア人」であることとは?』にはこの問いに対する力強い、そして切実なひとつの答えがあった。芸術には、声を奪われてきた者たちがそれを取り返すことを、そしてその声を響かせ見知らぬ誰かの耳へと届けることを可能にする力がある。

東京芸術祭ファームはアジアの若いアーティストの交流と成長のためのプラットフォームであったAPAF(Asian Performing Arts Farm、アジア舞台芸術ファーム)を前身とし、2021年にスタートした人材育成と教育普及の枠組み。その一環であるFarm-Lab Exhibitionは「アジアを拠点に活動する若手アーティストが、文化、国籍やバックグラウンドが様々に異なるメンバーとクリエーションを行い、東京芸術祭やアジア各地での上演を目指したワークインプログレスを発表する創作トライアルプログラム」だ。今年は日本を拠点とする(そして私が参加する)y/nと日本以外のアジアを拠点とする3人のアーティストによる『Education (in your language)』と、フィリピンを拠点とするセリーナ・マギリューと日本を拠点とする3人のパフォーマーによる『「クィア」で「アジア人」であることとは?』の2作品が上演された。セリーナ・マギリューは昨年、同じ東京芸術祭ファームのAsian Performing Arts Campというプログラムに参加していたことから今回のFarm-Lab Exhibitionへの参加が決まったということで、東京芸術祭ファームにおける人材育成の取り組みが単発で終わるものではなく、長期的な視野に立って企画されていることが窺える。

トランスピナイ(=トランスジェンダーのフィリピン人)の俳優、パフォーマンスアーティスト、アクティビストであるセリーナ・マギリューが掲げたコンセプトは「QUEER ASIA(クィア・アジア)」。「西洋の二元的な性の概念とは異なる、アジアにおけるクィアのアイデンティティを、私たちの手に取り戻す必要」があると語るマギリューは日本拠点のパフォーマーとの共同制作の過程で日本の昔話に着目した。例えば「かぐや姫」のかぐや姫(ノマド、𠮷澤慎吾)や「花咲かじいさん」に登場する犬・シロ(葵)。両者は物語上、きわめて重要な存在であるにもかかわらず物語のなかでその内面が語られることはない。繰り返し語られてきた物語において声を奪われてきた者たちの声を取り返し、物語を語り直すこと。規範から逸脱するものを抑圧する社会で、自らもまたクィアとして生きるパフォーマーたちが自身の声を発し、自らの視点から社会を語り直すこと。二つの語り直しが重ね合わせられ、パフォーマンスは立ち上がっていく。


[撮影:松本和幸]


今回は創作トライアルということでクリエイション期間も短く、上演された作品は完全なものではなかったのだが、それを差し引いても「かぐや姫」と「花咲かじいさん」という二つの物語の接続は甘く、「私はこの世界を、この人生をありのままの自分として生きたい」「私は、男でも女でもない」などといった台詞はあまりに直接的だ。作品としての(あるいは芸術としての?)クオリティは必ずしも高かったとは言えない。しかしそれでも、この作品が上演されたことには大きな意義がある。


[撮影:松本和幸]


東京芸術劇場ロワー広場という誰でも出入り自由な空間で上演されたこの作品は、いわゆる劇場の閉ざされた空間での、作品を観たいと自ら望んでやってきた観客だけに見せることを前提としたものではない。もちろん、クィアとして生きるパフォーマーが自身の声を発する姿は(あるいは客席にいたかもしれない)同じくクィアとして生きる人々に力を与えるものであっただろう。パフォーマー自身もまた自らの声を発することによってエンパワーされていたかもしれない。しかしそれ以上に重要なのはこの作品が、例えばクィアという言葉も知らない(かもしれない)通りすがりの人に、そのようにいまこの世界を生きている人がいるのだという事実を、その声を、その言葉を、生身のパフォーマーの存在を通して知らしめるものになっていたという点だ。地下の広場で発せられた声は吹き抜けを通して上階にも響き、それを聞いた人々の一部は少しのあいだ足を止め、パフォーマーに目を向けその言葉に耳を傾けていた。本当に声を届けるべき相手は客席の外側にいるのだ。

声を上げることは難しい。これまで声を奪われてきた者たちにとってはなおさらだ。例えばSNSやデモなどを通じて声を上げることは(残念ながら)現状では攻撃される危険と隣り合わせの行為となっている。開かれた空間で上演されたこの作品においても、パフォーマーたちの負担は相当なものだっただろう。だがそれでも、舞台作品の上演という設えには声を上げる者の危険を少しだけ減じ、あるいは言葉を聞く者の警戒を幾分か和らげる作用があったはずだ。現実を変革するための手段としての芸術。今回の創作トライアルで提示されたその可能性の先に見える景色はどのようなものになるだろうか。


[撮影:松本和幸]



『「クィア」で「アジア人」であることとは?』:https://tokyo-festival.jp/2022/program/fle-serena
東京芸術祭ファーム:https://tokyo-festival.jp/tf_farm/

2022/10/09(日)(山﨑健太)

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