artscapeレビュー

2022年10月15日号のレビュー/プレビュー

占領と平和

会期:2022/09/09~2022/11/02

写大ギャラリー[東京都]

ロシアのウクライナ侵攻による戦禍の広がりによって、あらためて75年以上前の日本の、太平洋戦争とその後のアメリカ軍による占領の時代を思い起こす人も少なくないだろう。小原真史の企画による本展は、その意味でとても時宜を得た企画といえそうだ。

本展の出品作71点は、東京工芸大学写大ギャラリーの所蔵で、土門拳、田沼武能、東松照明、川田喜久治、細江英公、丹野章、中谷吉隆、立木義浩、平敷兼七、高梨豊、森山大道らによって主に1950–70年代に撮影されたものだ。顔ぶれを見ればわかるように、それぞれの写真家たちの作風にはかなりの隔たりがある。ところが、こうして「占領と平和」という観点で見直してみると、意外なほどの共通性があり、そこに時代の空気感、痕跡が色濃く浮かび上がってきているのに驚かされた。撮影から時を経るにつれて、個々の表現という側面を越えた、時代の記録としての要素が強まってくるということだろう。

もう一つ感じたのは、この時代におけるアメリカという巨大な国の及ぼす影響力の強さ(東松照明のいう「アメリカニゼーション」)である。米軍基地の兵士を撮影した東松照明や、アメリカ映画らしいポスターが貼られた横須賀の店のショーウィンドーを捉えた森山大道の写真だけでなく、多くの写真家たちの仕事のなかに、その影がくっきりと写り込んでいる。アメリカの政治的、経済的、文化的な影響力が、日本の戦後写真史にどのような傷跡を残しているかは、今後検証すべき大きな課題のひとつとなるのではないだろうか。

2022/09/24(土)(飯沢耕太郎)

うつゆみこ「I Call Nature, Nature Calls Me」

会期:2022/09/15~2022/10/09

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

うつゆみこが、今回の展示に合わせて刊行したリーフレットに「私は小さな頃から、何かを作り続けてきた」と書いている。たしかに彼女の仕事を見ていると「画材、粘土、毛糸、布、針金など」さまざまな素材、手法を用いて作品を生み出していくという行為が、ほとんど彼女の生き方そのものと結びついていることがよくわかる。どの作品を見ても、「何かを作り続け」ることへの、強い思いがやや痛々しいほどに伝わってくるのだ。

だが、そのように次々に制作を続けいくと、収拾がつかなくなることもありそうだ。時には展示の内容があまりにも過剰すぎて、目移りしてしまうことにもなる。その意味では、今回の展示の出品作は、これまでのようなオブジェや画像を組み合わせたコラージュ作品だけではなく、必ず人間を含む「生きもの」を入れ込むというルールを設定したことことで、統一感が生み出されていた。「生きもの」を撮影するのは、オブジェよりもコントロールがむずかしいので、画面の緊張度がより高まってきている。舞台設定やライティングにも気を配っており、より被写体の立体感も強調されていた。

この連作はぜひ写真集にまとめて欲しい。私家版のZineは何冊も出ているのだが、本格的な写真集は『はこぶねのそと』(アートビートパブリッシャーズ、2009)以来刊行されていないからだ。今回の展覧会では、展示会場の階下に小さなスタジオが設営され、「うつゆみこによるポートレート撮影会」も行なわれていた。モデルは背景の布と小道具を選んで、彼女の作品世界のなかに入り込むことができる。筆者も撮影してもらったのだが、彼女が実際にどんなふうに作品を作っているのかがわかって、なかなか面白い体験だった。

関連レビュー

うつゆみこ「はこぶねのそと」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2009年02月15日号)

2022/09/25(日)(飯沢耕太郎)

中尾美園「ある家の図譜」

会期:2022/09/21~2022/10/02

なら歴史芸術文化村[奈良県]

祖母や高齢の女性たちが箪笥に保管していた思い出の品や着物、「祝日の国旗掲揚」「正月に飾るしめ縄作り」といった慣習、火災焼失した小倉遊亀の日本画の「再現模写」。中尾美園はこれまで、個人の遺品、廃れゆく慣習、焼失した作品といった「失われゆくもの」「失われたもの」を日本画材で精緻に写し取り、桐箱に収められた絵巻物という保存装置に仕立てることで、「記憶やものの保存と継承」について問うてきた。その根底には、大学院で保存修復を学び、美術品や古文書の「補彩」という保存修復の仕事に携わった経歴がある。

本展は、なら歴史芸術文化村でのレジデンスの成果発表展。なら歴史芸術文化村は今年3月にオープンした道の駅だが、文化財4分野(仏像等彫刻、絵画・書跡等、建造物、考古遺物)の修復工房をガラス張りで公開する施設を備え、レジデンス事業も行なっている。約1ヵ月半滞在制作した中尾は、昭和に建てられた一軒の住宅の解体現場で採取した壁や床、欄間、家具など「家の断片」をスタジオに持ち込み、10cm四方ほどの大きさに切り取り、1点ずつ原寸大で模写を行なった。「仏間」「居間」「台所」など部屋ごとに1枚の和紙に写し取られた壁や家具の「断片(=切:きれ)」は、《高橋家切》(2022)としてガラス張りの修復工房と同じ空間に展示された。《高橋家切》では、壁や床、家具の合板の木目、聚楽壁(土壁)のざらざらした質感、畳や障子、こすれた食卓の角、すりきれた合皮のソファ、シールの剥がれた跡や落書きなど、シミや汚れまで克明に写し取られ、長年使い込まれた生活の痕跡を伝える。



中尾美園《高橋家切》[撮影:衣笠名津美 写真提供:なら歴史芸術文化村]




中尾美園《高橋家切》[撮影:衣笠名津美 写真提供:なら歴史芸術文化村]


一方、作業現場となったスタジオが、現物の模写資料とともに公開された。模写されたさまざまな現物の断片が、白い座布団状の緩衝材の上に丁寧に置かれている(文化財修復の際に用いる、薄葉紙という丈夫な薄い和紙で綿を包んだ「綿布団」である)。また、1点ずつ、「名称、採取した部屋名、管理番号」が書かれたラベルが「発掘資料」のように添えられる。中尾の手つきは両義的だ。「解体された民家の断片」が「貴重な歴史資料」を擬態すること。「断片に切断する」という暴力性と、「破損せぬよう慎重に保護する」というケア的身振り。中尾は過去作品で、祖母や高齢の女性たちが大切に保管していた着物を、人生を物語る断片=「切(きれ)」としてハギレほどの大きさに断片化して模写しているが、模写の対象を実際に切断し、かつ展示するのは初めてだという。とりわけ、落書きやシールの貼られた壁や家具は、あえて途中で寸断され、痛々しい暴力性を帯びる。



中尾美園《高橋家切》[撮影:衣笠名津美 写真提供:なら歴史芸術文化村]



中尾美園《高橋家住宅資料》[撮影:衣笠名津美 写真提供:なら歴史芸術文化村]


ここで、「切断」は二重の暴力性を伴っている。のこぎりで切断するという物理的な暴力と、かつて所属していた文脈からの断絶・強制移動というもう一つの暴力性。後者は、「美術館」「博物館」への収蔵と共鳴し、振られた番号が「管理」の権力を示唆し、きっちりと正方形に揃えられた「資料サンプル」は「そこから切り捨てられた残余」があることを逆照射する。一方、「管理対象となった資料」の奥には、「未整理のもの」が作業台の上に無造作に積まれている。それは、保存修復とは未完のサイクルであること、そして生産と時代の加速化により、どんどん「古いもの」にされていくスピードに我々は追いつけないことを示す。

歴史化の作業は(恣意的な)フレーミングや「文脈の切断」の暴力性を伴うことを示しつつ、傷や劣化を補修してあくまで「もの」として残す文化財修復とは別の、「模写」というかたちで記憶を写し取って残そうとする中尾作品。そのとき、「断片化して写す」という作法は、「すべてを保存すること」の不可能性と同時に、「断片どうしのつながりや全体像への想起」を促す。実際の文化財の修復工房と並行的に見ることで、中尾作品の意義や射程がより広がって見えてくる好企画だった。



スタジオの展示風景[撮影:衣笠名津美 写真提供:なら歴史芸術文化村]



関連レビュー

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2022/09/25(日)(高嶋慈)

装いの力─異性装の日本史

会期:2022/09/03~2022/10/30

渋谷区立松濤美術館[東京都]

「異性装の日本史」とは、公立美術館としてはずいぶん“せめた”テーマである。キワモノ的なのかと思いきや、『古事記』でのヤマトタケルの逸話からテーマを紐解いており、いたって真面目で学術的な内容だった。

神話に始まった日本の異性装がどのような変遷をたどるのかというと、中世には宮中物語や芸能で取り上げられ、戦国の世では女武者が登場し、江戸時代には若衆や蔭間が存在した。また江戸時代に始まった歌舞伎は、ご存知のとおり、現代まで続く異性装の最たる文化だ。いままで歴史の表舞台ではあまり語られてこなかったが、こうして俯瞰して見ると、もともと、日本は異性装やそれに伴う同性愛がごく自然に存在した国だったことがわかる。


三代・山川永徳斎《日本武尊》昭和時代初期(20世紀)個人蔵


その証拠に、異性装が異端として扱われるきっかけとなるのは、明治時代に西洋諸国に恥じぬようにと異性装禁止を含んだ軽犯罪法「違式詿違条例」が制定されたことだった。数年後にそれは別の法令へと引き継がれ、異性装禁止はなくなるのだが、異性装や同性愛は精神の病とする西洋精神医学の導入などにより、それらは世間で嫌悪や偏見の対象となってしまう。近頃、LGBTやジェンダーの問題が頻繁に取り上げられるようになったが、見方を変えれば、ようやく元の日本文化へ戻ったとも言えるのかもしれない。

それにしても、本展タイトル「装いの力」という言葉には考えさせられる。顔つきや声、体形に男女差があるとしても、社会において人は服装や髪型、化粧、持ち物などによって男性か女性かを見分け、また見分けられていることを示すからだ。例えば男性がスカートを履いていれば変な人に見られることの方が多いだろう。それは男性は男性らしい格好をしなければおかしいという固定観念があるからで、逆に言えば男性が男性らしい格好をしていれば「女性に間違われない」という安心感がある。対する相手も、男性らしい格好をした男性を女性に間違えることはないので、混乱を招かずに済む。つまり社会の中で、男性か女性かを見分ける目印として装いは大いに機能しているのだ。そう考えると、装いは社会における優れたデザインと言える。男性か女性かを見分けることは、ひいては男女が結ばれ子を成すことにつながるため、人にとっては非常に根源的な問題なのだ。そうした前提があるからこそ、異性装は異性に化けるための手段として使われてきた。人が異性に化けたときの違和感やドキドキ感がこれまでエンターテインメントの題材となってきたが、しかし近年の性に対する社会的価値観の変化により、我々の意識も揺らぎ始めている。社会の中で男性か女性かを外見で見分けることを必須としなければ、異性装という概念もなくなる時代がやってくるのかもしれない。


森村泰昌《光るセルフポートレイト(女優)/白いマリリン》(1996)
作家蔵(豊田市美術館寄託)



公式サイト:https://shoto-museum.jp/exhibitions/197iseisou/

2022/09/28(水)(杉江あこ)

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猪俣肇「saw the LIGHT」

会期:2022/09/20~2022/10/01

キヤノンギャラリー銀座[東京都]

キヤノンギャラリー銀座は、アマチュア写真家の堅実な風景写真やスナップ写真の展示が多いのだが、時折、意欲的な作品発表の場となることがある。1975年まれ、神奈川県平塚市出身の猪俣肇の個展も、よく練り上げられたクオリティの高い内容だった。

基本的には「写真日記」といってよいだろう。折に触れて目に止まったモノ、場面にカメラを向けている。だが、台所のシンクの卵の殻、植物群、ハンガーに掛けられた赤いドレス、更地になったビルの裏手など、その幅はかなり広い。猪俣は横浜国立大学の大学院で土木工学を専攻したそうだが、道路の水たまり、建物の壁の一部などを捉えた、それらしい写真もある。特筆すべきは、写真の間に挟まった言葉の扱い方で、たとえば「早朝、父と近所の川へ出かけた。祖母が亡くなった頃だった。浅瀬で小さな魚を見つけ、二人でしばらく眺めていた。そんなふうに出かけたのはその時だけだったと思う。魚の名前は今もわからない」といった記述が、写真ととてもうまく響きあって配置されていた。前記の文章は、川面に反射する光を撮影した写真に添えられているのだが、その取り合わせが絶妙で、納得できるものが多い。言葉と写真のバランス感覚の良さに、彼の才能が発揮されていると感じた。

この方向性を伸ばしていけば、写真と言葉をより緊密に融合させる形に展開していきそうなのだが、いまのところは、まだ断片的な段階にとどまっている。写真にしても、言葉にしても、もう少し確定的な「テーマ」が見えてきてもいいのではないだろうか。

2022/09/29(木)(飯沢耕太郎)

2022年10月15日号の
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