artscapeレビュー

2023年07月01日号のレビュー/プレビュー

恐竜図鑑 失われた世界の想像/創造

会期:2023/05/31~2023/07/22

上野の森美術館[東京都]

恐竜は古生物学の範疇なので、本来なら美術館ではなく博物館が扱うべきものだが、今回は恐竜が描かれた絵を歴史的に並べる美術展。だからこれを見れば、恐竜がいかに進化したかではなく、恐竜の図像がいかに変化したか、いいかえれば恐竜の研究がいかに進んだかを理解することができる。と同時に、挿絵や図鑑におけるヴィジュアル表現の変遷も見てとれるのだ。

恐竜自身は2億4千万年ほど前から7千万年前くらいまで、実に1億数千万年の長きにわたって繁栄した大型爬虫類の総称だが、その存在が知られたのは19世紀初頭に化石が発掘されてからなので、恐竜からすれば(人間からしても)ごく最近のことにすぎない。そのころは「進化論」を唱えたダーウィンもまだ生まれたばかりで、西洋では5千年ほど前に天地が創造され、その1週間後に人間が誕生したと信じられていた時代。恐竜のキョの字もなかったのだ(ただし「竜」は存在した)。

最初期の恐竜画で知られているのが、イングランドのドーセット州で見つかった化石をもとに、ヘンリー・デ・ラ・ビーチが描いた水彩の《ドゥリア・アンティクィオル(太古のドーセット)》という生態復元画。これを下絵にした版画や油彩画が出品されているのだが、画面の下半分が水中で、魚竜や首長竜がアンモナイトやウミユリとともにところ狭しと描かれ、水辺にはワニやウミガメ、空には翼竜まで飛んでいて密度の濃い賑やかな生態図となっている。

驚いたのは、イギリスのロマン主義の画家ジョン・マーティンも恐竜の絵を描いていること。地を這う恐竜が共食いをする《イグアノドンの国》という作品で、バトルシーンはともかく夕暮れの背景がロマンチックで美しい。マーティンはそれ以前にも神話画として竜(ドラゴン)を描いているが、それも同じく地を這う格好なので、恐竜の復元図を描く際に参考にしたはず。いくら化石が発見されたといっても残っているのは骨格だけだから、太っていたのか痩せていたのか、立っていたのか這いつくばっていたのかわからないので、想像上の怪物ドラゴンを参照するしかなかったのだ。同展には17世紀のアタナシウス・キルヒャーによる博物誌から、「ドラコ(ドラゴン)」や「ドラクンクルス(小さなドラゴン)」の図像も出ている。

恐竜画が大きく発展するのは、アメリカのチャールズ・R・ナイトと、チェコスロバキアのズデニェク・ブリアンが登場する20世紀になってからのこと。ナイトは印象派風の明るい風景のなかにいきいきと活動する生態図を制作し、ブリアンはよりリアルな描写で迫真的な恐竜図を完成させ人気を博した。ナイトが後年ややラフなタッチに変化していったのに対し、ブリアンが終始一貫してリアリズムに徹していたのは、東欧に住んでいたからだろうか。とりわけブリアンの恐竜画は戦後日本の図鑑や少年雑誌の恐竜特集にも使われたり、そのコピーが出回ったりしたので、ある年齢以上の日本人が抱く恐竜のイメージはブリアンがつくり上げたといっても過言ではない。そういえば初期の直立するゴジラは、ブリアンの描いた《イグアノドン・ベルニサルテンシス》(1950)によく似ている。

2階に行くと、日本人による恐竜関連の作品が並んでいる。最初に目に止まったのが、島津製作所が戦前テラコッタでつくったステゴザウルスやブロントザウルスなどの模型だ。ハイテク機器の製造会社も恐竜模型から始まったのか。日本にシュルレアリスムを伝えた画家、福沢一郎も恐竜を描いていた。が、これらは恐竜画ではなく政治を批判する風刺画らしい。藤浩志はリサイクル運動の一環として、ビニール・プラスチックのゴミでつくった恐竜を展示している。ゴジラもそうだが、どうも日本では恐竜にせよ怪獣にせよ政治批判や反核、環境問題に結びつけてしまいがちだ。

最後の展示室は最近のパレオアート(古生物美術)を集めているが、恐竜の調査研究が進み、CGやAIなど描画技術が高まるほど魅力が失せていくのはなぜだろう。たぶん情報が少ないなかで想像を膨らませて描いていた時代のほうが、絵として大らかさが感じられるからではないか。恐竜自身も「ほっといてくれ」と思っているに違いない。


公式サイト:https://kyoryu-zukan.jp/

2023/05/30(火)(村田真)

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中村宏 戦争記憶絵図

会期:2023/05/16~2023/06/03

ギャラリー58[東京都]

戦争記録画が、主に従軍画家によって戦意高揚を目的に描かれた戦時中の絵であるならば、中村が発表した「戦争記憶絵図」は、空襲のなかを逃げまどう自身の記憶を頼りに描いた「ルポルタージュ絵画」ということになる。つまり敵をやっつける側(大人)の視線ではなく、やられる側(子ども)の視点から捉えた戦争画なのだ。こうした視点は絵本や漫画ならあったかもしれないが、絵画としてはあまり見たことがない。しかも戦後80年近くたって記憶の底から蘇らせた「記憶絵図」である点が重要だろう。

戦争末期の1945年、12歳だった中村は浜松大空襲で赤く炎上する街を、自宅の裏山で恐怖に震えながらただ眺めていたという。米軍の攻撃は、B29による爆撃、戦闘機からの銃撃、そして遠州灘まで迫った戦艦からの砲撃の3つ。これらがそれぞれ3点1組の大作として描かれている。

《空襲1945》(2022)は、B29とおぼしき巨大な爆撃機が雲のように白く輝きながら画面を横切り、爆弾を木造家屋に落として一部炎上している。《機銃掃射1945》(2022)は、やはり白い戦闘機からの射撃が黄色い破線で描かれるが、その破線は画面の縁で跳ね返って地上の逃げまとう日本人に浴びせられている。《艦砲射撃1945》(2023)は沖合の戦艦から撃たれた砲弾が弧を描き、打ち寄せる大波を越えてこちらに飛んでくる情景だ。どれも子どものころの記憶に基づきながら、そこにシュルレアリスム的な想像を加えた「ルポルタージュ絵画」であり、構図や視点には中村少年が感じたであろう恐怖が伝わってくる。卒寿を前にした画家が、戦争の記憶を描き残さなければと奮い立った渾身の作品。


会場にはそのほかスケッチや下絵、子どものころに拾って大切に保管していたという米軍の弾丸と薬莢などに加えて、《戦下の顔》と題した3枚組の作品もある。画面左上に女学生の顔の4分の1ほどを遠近法的に歪めて描いたもの。これは以前《4分の1について》というタイトルで発表されたが、今回《戦下の顔》と改題し、戦争画としてあらためて展示したという。中村が繰り返しセーラー服の女学生を描いたことは知られているが、女学校創設者の家に生まれ、その敷地に育った中村にとってセーラー服の女学生は日常の風景であり、その暗く冷たい表情は、軍需工場で働く女学生のものだという。初めて明かされるモチーフの由来。



中村宏《戦下の顔》[写真提供:ギャラリー58]



公式サイト:https://www.gallery-58.com/exhibition/2023_exhibitions/2023_nakamura/

2023/05/30(火)(村田真)

「憧憬の地 ブルターニュ ─モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷」展と「マティス」展

会期:2023/03/18~2023/06/11
国立西洋美術館[東京都]

会期:2023/04/27~2023/08/20
東京都美術館[東京都]


上野にて、会場デザインを手がけた磯崎アトリエ出身の建築家、吉野弘から説明を受けながら、二つの展覧会を鑑賞した。

憧憬の地 ブルターニュ ─モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷」展(国立西洋美術館)は、エキゾチックな場とみなされたブルターニュ地方を描いた絵画を、主に国内のコレクションで構成しつつ、日本での受容も辿る。コロナ禍に企画されたことも影響したようだが、各地の美術館のコレクションを活用する試みは重要だろう。19世紀の鉄道/観光事情も関係することから、導入部では当時のガイド本やポスターも紹介しており、フランスの近代を従来と異なる角度から捉える。

吉野によれば、当時の芸術家がブルターニュに足を踏み入れたことを追体験しながら鑑賞する、抒情的な展示構成が本展では意識されたという。すなわち、1章は駅のイメージ、モネの《ポール=ドモアの洞窟》(1886)があるエリアは彼を魅了した海を連想させる壁面色、2章の内陸の素朴さに注目したゴーガンの絵のまわりは森のような壁面色、そして3章の人々の風俗を描くシャルル・コッテらの絵に対しては精神性を表現する深い色を使う。ただし、すぐに何色かと分類しづらい微妙な色彩が選ばれた。また屏風に仕立てた日本人の作品に合わせて、屈曲する展示ケースもつくられている。



「憧憬の地 ブルターニュ」展の導入部。サンクンからの光が透過する




第1章「ブルターニュへの旅」(「憧憬の地 ブルターニュ」展より)




モネ《ポール=ドモアの洞窟》(1886/「憧憬の地 ブルターニュ」展より)




ゴーガンのエリアの壁の色(「憧憬の地 ブルターニュ」展より)


マティス展(東京都美術館)は、ポンピドゥー・センターのコレクションを活用した、日本では久しぶりの大きな回顧展である。絵画だけでなく、彫刻や切り絵などを交えながら、時系列で作品の変遷を辿り、最後はヴァンスのロザリオ礼拝堂を紹介する。吉野は、会場をコンテンポラリーな美術空間とすべく、既存の壁の前に白い壁を増設し、自然光に近い色温度の照明を当てたという。また各フロアは、マティスの絵がもつ幾何学的な構成を意識したプランとしたり、廊下ではなく、空間の中心に大きな年表を提案している。なるほど、いつもより白い壁を背景に、マティスの作品が映えていた。また絵の額縁がもともとシンプルなデザインだったことも印象的である。礼拝堂の展示エリアでは、部分的に空間のスケールを意識させていた。なお、一部の資料展示はポンピドゥ・センターの仕様に従ったものである。



白い壁(マティス展より)




シンプルな額装。室内プランのヒントになった絵の構成(マティス展より)




大型年表(マティス展より)



憧憬の地 ブルターニュ ─モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷:https://bretagne2023.jp/
マティス展:https://www.tobikan.jp/exhibition/2023_matisse.html



関連レビュー

マティス展|村田真:artscapeレビュー(2023年06月01日号)

2023/06/03(土)(五十嵐太郎)

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発掘・植竹邦良 ニッポンの戦後を映す夢想空間

会期:2023/05/20~2023/07/09

府中市美術館[東京都]

ほぼ無名の画家の回顧展を公立美術館で開くというのは、経営的にはかなりの冒険だが、その人が知られざる才能をもっていたとか、かつては真価が認められず見過ごされていたとか、発掘されるに値する芸術家であれば(しかも地元出身であればなおさら)、公立美術館の果たすべき義務のひとつであるとさえいえる。植竹邦良という名前は初めて聞くが、その作品図版を目にしたらぜひ実見してみたくなった。彼の絵は昭和のある時代を典型的に映し出しているように思えたからだ。それは昭和30年代のルポルタージュ絵画から観光芸術に至るまでの、欧米のモダンアートとは一線を画す流れである。

植竹は1928年生まれ。前の世代は戦争に取られて美術人口が少なく、後の世代は前衛芸術に身を投じていく狭間の世代だ。近い世代では、ルポルタージュ絵画の池田龍雄や観光芸術協会の中村宏らがいるが、彼らとは交流があり、共通するテイストが感じられる。とりわけ、多様なモチーフをコラージュするようにひとつの画面に再構成する手法は、中村とともに観光芸術協会を結成したタイガー立石を彷彿させる。もうひとつ彼の創作の源泉をたどれば、戦時中15歳のときに見た藤田嗣治の《アッツ島玉砕》に行き着く。植竹はこれに衝撃を受け、絵の道に進んだというから、後の画面全体を覆い尽くすようなにぎやかな絵は、敵も味方もなく入り乱れる藤田の死闘図に由来するのかもしれない。

展示は大きく4つに分かれる。戦後まもない時期のスケッチや油絵、1960年に始まる幻想的な大作、池田龍雄、尾藤豊、中村宏、桂川寛ら交流のあった同時代の画家たちの作品、そして地形図や都市図にこだわった後半生の作品群だ。特に目を引くのが、1960〜1988年に描かれた10点の大作。黒い壁に、黒いシンプルな額をつけただけの絵をスポットライトが浮かび上がらせている。

たとえば《人形の行く風景》(1969)は、画面上方を建築の装飾パターンが覆い、下部は朱色のザクロが埋め尽くし、左にはアンドロイドのような女性がロウソクを片手に闊歩し、中央には幼児を乗せたバスが見える。弘田三枝子の「人形の家」がヒットし、学生運動が盛んだった時代。左の女性は「人形の家」にヒントを得たそうだが、あとは意味不明。ゴチャゴチャと破綻したような画面そのものが当時の騒々しくも祝祭的な時代気分を伝えてくれる。

《最終虚無僧》(1974)は上方に顔のない虚無僧が尺八を吹き、背後に日の丸を思わせる赤い楕円が描かれ、左右に蛇行しながら列車が走り、その列車がいつのまにか原子炉のような得体の知れない装置に変わっている。鉄道はこれだけでなく、《スピナリオ電車》(1977)や《鉄橋篇》(1979)にも描かれているが、彼に限らず同世代の画家もしばしば取り上げたモチーフ。しかし昨年の「鉄道と美術の150年」展には中村と立石は出ていたが、植竹の作品はなかった。やはり知られざる画家なのだ。

1970年代から新たなモチーフとして地形図が加わり、80年代から都市や建築が登場する。地形図はもともと地図に関心を持っていた植竹が大型の地形模型を手がける工場を見つけ、しばしば通って写真に撮り、それを元にシワシワの山脈のヒダや蛇行する川筋まで克明に写し取るようになったもの。しかし地形図は立石も描いているし、植竹の独創というわけではない。また、バブルの時期に盛んになった都市の再開発も植竹の格好のモチーフとなった。《高炉より》(1993)や《構築記》(1997)に見られる建造物の折り重なるさまは、キュビスムかオルフィスムを思い出させる。いずれにせよ絵としてはせいぜい20世紀半ば、あるいは昭和半ばごろまでの印象で、新しさは感じられない。

植竹がアートシーンに浮上しなかった理由は、こうした作品自体の時代遅れ感と、主に団体展を発表の舞台にしていたからだろう。もう少し広いアートシーンに出ていれば評価は変わったかもしれないし、作品自体も変化していたかもしれない。特筆すべきはスケッチ類で、初期と後半生の作品しか出ていないが、どれも力強く魅力的で、確かなデッサン力がうかがえる。


公式サイト:https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/tenrankai/kikakuten/2023_UETAKE_Kuniyoshi_exhibition.html

2023/06/04(日)(村田真)

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さばかれえぬ私へ Tokyo Contemporary Art Award 2021-2023 受賞記念展

会期:2023/03/18~2023/06/18

東京都現代美術館[東京都]

Tokyo Contemporary Art Awardの受賞記念展。志賀理江子と竹内公太の2人展だが、ここでは竹内の作品について書く。出品作品は計6点だが、大きく分ければ、第2次大戦末期に日本軍がアメリカに向けて飛ばした「風船爆弾」に関する作品5点と、現在竹内が住むいわき市の古い劇場を解体する過程を撮影した《三凾座の解体》(2013)の2つ。

「風船爆弾」は、日本軍が直径10メートルほどの紙製の風船に焼夷弾をぶら下げてアメリカ本土に向けて飛ばした兵器で、約9,300発を放ったものの、北米大陸に到達したのは数百発だという。戦果は僅かだったが、大陸間をまたいで攻撃した史上初の兵器になった。大陸間弾道ミサイルならぬ、大陸間風船爆弾。なにせ風まかせだからね。そういえば中国の偵察気球はこれを真似したんだろうか。ともあれ、日本は敗戦後これらの資料の多くを処分したため、竹内はアメリカ国立公文書館に残された当時の機密文書を調査。そこに記されていた風船の目撃地点や着地点20数ヶ所を実際に訪ね歩き、5点の作品にした。

そのなかでもっとも目立つのが、風船爆弾の着地点を撮影した約300点の写真をつなぎ合わせた直径10メートルの風船だ。見ていると、風船が徐々に膨らんでいき、ちょうど半球状になったところで天井に届き、その後しぼんでいく。題して《地面のためいき》(2022)。膨らむと、巨大な展示室が小さく見えるほど風船爆弾が大きかったことがわかるが、にもかかわらず戦果らしい戦果をもたらさなかったのは、落下地点が人のほとんど住まない荒野であったからであり、そもそもアメリカ大陸がデカすぎたからにほかならない。美術作品としては巨大であっても、兵器としては失笑を禁じえないほど非力だったのだ。この違いはそのまま、国家の文化予算と防衛予算の規模の違いに比例する。



竹内公太《地面のためいき》


もう1点の《三凾座の解体》は、いわき市にあった映画館が徐々に解体されていく現場を、観客席の側から定点観測的に撮ってつなぎ合わせた映像作品。映し出されている現場はまさにスクリーンがあった場所なので、観客はかつて客席のあった位置から解体シーンを見ていることになる。と思ったら、スクリーンの下にベンチに座ってこちらを見る人たちの姿も映っており、それがわれわれ自身であることがわかる。いまわれわれはベンチに座って解体現場の映像を見ているが、そのわれわれの姿を隠し撮った映像がスクリーンに二重写しにされ、否応なく現場に引き込まれてしまうのだ。このように竹内の作品はどれも鏡を見るように自分に跳ね返ってくる。



竹内公太《三凾座の解体》



公式サイト:https://www.tokyocontemporaryartaward.jp/exhibition/exhibition_2021_2023.html

2023/06/04(日)(村田真)

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2023年07月01日号の
artscapeレビュー