小松亨『シスターモルフィン』:artscapeレビュー|美術館・アート情報 artscape

2018年08月01日号
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小松亨『シスターモルフィン』

2013年07月01日号

会期:2013/06/21

森下スタジオ[東京都]

世界を横断しながら活動を続ける(結果、日本での活動は控え目なのがもったいない)舞踏家・室伏鴻の作・演出・振付による作品。とはいえ、土方巽の晩年に薫陶を受けたという小松亨の身体所作には、その時期の土方独特の〈徴〉が強く刻まれており、まるで小松の身体の上で室伏と土方がつばぜり合いをしているかのように見えた。いや、もう少し冷静に読みとるべきかもしれない。土方仕込みの身体で自分の踊りたい欲求を舞台に発露する小松に、室伏のアイディアが衝突し、小さな摩擦を残してすれ違った、そんなところか。冒頭、白い布を被った小松がゆっくりとしゃがんだ姿勢から立ってゆく。布の奥で瞳が被虐性をほのめかす。立った姿勢で首を微妙に傾けると、ベーコンの自画像のように布のヒダが顔を歪める。そこに被虐の感触は一層際立ってくる。次のシークェンスでは、口から真珠がこぼれる/真珠をこぼす。全部で100粒ほどが、ぽろぽろとこぼれ、床に散らばる。布も真珠も室伏の作品にふさわしいアイテムなのだが、室伏が自分のソロ作品で用いるならば出てくるニュアンスとは微妙に違う。室伏が用いるとき、諸アイテムは自分とは別の生命をもったもののように単独性を帯びているのだが、小松はまるで自分の延長のように用いるのだ。小松のダンスからは、ナルシシズムが濃密に感じられる。それがピークに達したのは、中盤の5分ほど、ひたすら絶叫しながら、壁に激突したり、非常時用の階段を上り下りしたり、床を蹴ったりした場面だった。小松のなかの怒りのような不安のような思いが溢れた。しかし、ただ溢れてゆくだけだ。溢れたことを外から見つめる視点が舞台のなかにない。だから、溢れたものを観客はそのまま受け取らざるをえない。そのぶん、観客に強く依存する意識が目立ってくる。ダンス公演の帰り道などによく思うことなのだけれど、ダンスを見るとは、煎じ詰めると、所作の完成度などを云々することよりも、所作から透けて見える踊り手の意識を見ることなのだ、おそらく。終盤、四つん這いの獣の佇まいでゆっくりと舞台の縁を回り、最後はほぼ全裸の状態で小松はゆっくりゆっくり横回りした。50歳を過ぎた女性の体が表に裏になる、それがエロティックに映る。「見て!」と言わんばかりの所作は、その所作へ向けた小松の解釈がはっきりとこちらに伝わらないぶん、ただただ生々しい。自分を露出したいというダンサーの願望と、振付家の意図とがきちんとした対話を経る手前で、上演の日を迎えてしまった、そんな気がした。「出会い損ね」という出来事それ自体は面白いとも思えるものなのだが。

2013/06/21(金)(木村覚)

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